安里を歩いてきました
2014年2月12日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』68号の取材で、那覇市の安里を取材しました。
案内が真栄里泰山氏なので、こちらはビビリ気味でしたが、気さくに対応していただいたので、安心かつ楽しく歩くことができました。
安里といえば、交通渋滞と八幡宮ぐらいしか思い浮かばなかったのですが、表から見えない場所の話や公にできない話などがテンコ盛りで、時間が経つのを忘れるほど。誰それの話や、うわさ話ほど面白いものはないですね。
オーラルヒストリーの重要性も指摘されている昨今、戦後裏面史として記録していれば、そのうち公開できる日もくるかもしれません。
安里八幡宮の今昔。現在は、安里配水池(シュガーローフ)に建設されたマンションがそびえ立っています。
八幡神徳寺わきに残る、那覇の人たちの参道「ナハジョー(那覇門)」。近くの八幡宮に通じる道は、首里の人が参詣する「スイジョー(首里門)」と呼ばれたとか。
安里の裏道は、崇元寺からバイパスに抜ける裏道として、以前は結構利用させてもらったことを思いだしたのですが、それにしても以前より寂しくなったようです(車が少なくて散策には都合がイイんだけど)。
安里・おもろまち間にできた、新しい道の影響かもしれませんが、町が上等になったせいで、地域のつながりが希薄になったのではないか(?)と危惧しました。
(三嶋)
「新都心ある記」が一挙掲載
2014年1月12日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
那覇市の新都心通り会が毎月発行している「新都心かわら板」で、平成23年4月から昨年7月まで連載した「新都心ある記」全17回分が、新年号で一挙掲載されています。
那覇新都心は、米軍家族の居住地区として接収された土地が返還されて更地となり、そこに誕生した街なので、戦前・戦後の痕跡はほとんど残っていません。
それでも、かつて人々が歩いたであろう場所を捜し、同じ場所に立って当時の村の風景や暮らしに思いを馳せてみることは、大きな意味のあることだと思います。戦災や異民族支配という災禍で、平和だった農村が消滅した歴史は他府県には類例がないでしょうし。
そして、かつての姿とまったく脈絡を断ったような、現在の街並みが出現したのですが、それを選択し、是としてきたのは私たち一人一人だともいえるでしょう。
オシャレで、便利で、住みよい街というイメージには、沖縄や地域の姿が抜け落ちていたのですが、いつの間にか、本土を範とするそんな価値観に私たち自身が染まっていたことに、無自覚過ぎたでのではないかと自省するのです。
これは、コンクリートの建物に赤瓦を乗せれば済む問題ではなく、私たち自身のなかに潜む本土化の流れをいかに相対化するかであり、地域や個人のアイデンティティに降りかかるそんなバイアスと、どのように折り合いをつけながら日々の営みを続ける(しかもできれば楽しく)か、という問題のように思えます。
(三嶋)
安謝ある記
2013年8月16日 Category: Myある記 Comment : 0
『しまたてぃ』(66号)の取材を兼ね、那覇市安謝を歩いてきました。
案内は、字誌編さん員の普久原さんにお願いしました。
安謝は新都心と隣接するマチ、というイメージを持っていたのですが、道幅以外さほど戦前と変わらないという筋道を歩くと、あちこちの御願所が今も大切にされていたりして(龕屋が残っているのにはビックリ!)、ムラの面影が随所に垣間見える地域でした。
奪われた土地に造られた目の前の米軍基地を尻目に、たくましく戦後を生き抜いた人々の証しは、今はもう時間とともに埋もれてしまったようですが、かつての商店街を歩くと、あまたの人々の話し声や笑い声が、行き交う車の狭間から立ち昇ってくるような気がしたのでした。
今も残る龕屋(ガンヤー=死者を乗せるガンをしまう場所)。入口はブロックでふさがれ、封印されたまま。
安謝小学校の東側に走る「学道(がくどう)」。かつては、南(写真手前)に進むと基地のフェンスに遮られた。
高層の安謝市営住宅手前、現在、墓地になっている中ほどを、かつて基地のフェンスが東西に伸びていた。
軍道1号線(国道58号)下のトンネルを抜けた、西側地区にあった安謝劇場の跡。
1号線のかさ上げ工事で東西に分断された安謝は、トンネルを挟んだ通りに繁華街が形成され、安謝港で働く人々相手の飲食店や、料亭・旅館などが軒を並べてにぎわった。
(三嶋)