森のクラブのチラシ(案)作りでパタパターしました
2016年9月30日 Category: 沖縄ある記, スクガー事業 Comment : 0
スクガーで8日から始まる「森のクラブ」のワークショップ。
何とかチラシのラフ稿がまとまったところ。
少しだけホッとしています。
しかし、ホントに子どもたちは来てくれるかな?
アカバンタ祭り
2016年9月17日 Category: 沖縄ある記, スクガー事業 Comment : 0
沖縄ある記で進行中のプロジェクト、「幻の集落跡を活かし、芸術振興と地域文化の継承を図る事業」の実行計画について、木創舎で話し合ったあと、向いの山(アカバンタ)で行われていた祭りに行ってきました。
アカバンタは毛アシビーの名所だったところで、地元・手登根を中心にした有志が、復活させるべく昨年から環境整備を行っていました。
残念ながら昨年は、台風の影響で場所を公民館に移動せざるを得なかったため、今年はそのリベンジ。日中は通り雨が降っていましたが、夕方からは雲が切れ、月も上がったので絶好の宴となりました。
アカバンタは、中城湾と佐敷一帯を見下ろす気持ちイイ高台。手作りされた舞台でいろんな演目が演じられました。
<三嶋>
旧玉城村親慶原のCSG部隊
2016年7月21日 Category: Myある記 Comment : 0
知念に住む前城さんは、旧玉城村の親慶原にあった知念補給地区(通称CSG)で、かつて働いていました。
先日、ひょんなことからその通勤ルートも確認しようという話になり、この日、二人で出かけました(暑かったァ)。
志喜屋バス停前。
当時は前方に見える山を上って垣花集落に抜けたが、現在、その山道は樹木に覆われていて、確認できなかった。
知念補給地区の入り口のひとつ(垣花ゲート)。
何十年ぶりなので記憶もあいまいだったのですが、近くで尋ねたり、行きつ戻りつしているうちに、たぶんここだろうということになりました。
前城さんの通勤ルート(赤線)。
字知念の自宅から志喜屋までバスに乗り、そこから山の斜面を上って垣花に抜け、垣花ゲートを毎日くぐっていました。
バス停からゲートまでは直線距離で1kmちょっと。案外近いと感じます。
が、されにゲートから職場まで、広大な基地内を横切って歩いたということです。
前城さんはここで、カメラの点検や修理をしていました。
ベトナム戦争で壊れたものなど、あちこちから大量のカメラが送られてきたそうで、その中には、スパイが使うミノックスという小型カメラなどもあったそうです。
この知念補給地区は、表向きは米陸軍基地でしたが、実は映画などでおなじみのCIA(アメリカ中央情報局)の拠点でした。
1951(昭和26)年ごろから使われはじめ、前城さんをはじめとするかなりの人たちが、周辺地域から働きに来ていました。
知念補給地区の存在は、本土復帰前の1971(昭和46)年、米国防総省の高官が持ち出した極秘文書が、ニューヨーク・タイムス紙とワシントン・ポスト紙に掲載されたことがきっかけで、暴露されることになりました。
同地区は、一般の基地とはかなり違う「秘密部隊」であり、事実、職場以外の部屋は隠されていて、何があるのか分からないようになっていたと前城さんも語っていました。基地の外で遊ぶ兵士もいないため、周囲に特飲街や商店街が形成されることもなく、事件や事故もありませんでした。
しかし、前述の漏えい事件がなければ、米国は本土復帰以後もこの基地を存続される計画でした。
そうなれば、米国諜報機関(キャノン機関)が日本本土で拉致した人物を、ここで監禁したような薄気味悪い事件(カジ事件)が、その後も続いたかもしれません。事実、アジア系の人たちが監禁されているのを見たという話も、別の人から聞いたことがあります。
知念補給地区は、本土復帰後1974年に返還され、その翌年、レジヤー・センターを計画する民間企業グループ(玉城園地)が、約55万坪という広大な土地の賃貸契約を結びました。ここに建設されたのが現在の琉球ゴルフ倶楽部で、完成は1977年9月のことでした。
※参考資料:2007.5.11琉球新報 「世替わりの記憶(3)」/2010.5.18琉球新報 「1次資料から見る日米安保改定50年(12)」新原昭治/ほか
<三嶋>
鉄くずが凶器だったころ
2016年7月14日 Category: Myある記 Comment : 0
南城市に住むK氏の自宅。
玄関脇に積まれた鉄くずに目が行き、たずねると、砲弾の破片とのこと。
その中の一個(長さ30cmぐらい)を手に取ると、片手では持てない重さにたじろぎました。
これらの破片は、土木作業に長く携わってきたというK氏が、ユンボの操作中などで遭遇し、土中から掘り出したもの。
次の世代にも沖縄戦を引き継がないといけないとの思いで、捨てたり売ったりはしなかったそうですが、いつしか鉄くずが山となったようです。
想像できるでしょうか。
このギザギザに割れた鉄の塊が、爆発と同時に燃えながら飛び散るさまを。それは柔らかな肉体を一方的に切り裂き、一瞬にして人々の命を奪った鉄片なのです。
この圧倒的な鉄の存在感は、ガラス越しに置かれた博物館の展示や、写真では伝わらないでしょう。戦争の実相が、わずかでもこの鉄くずに宿っているとすれば、腐食した質感や重量感を体で受け止め、知識としてではなく血肉化していくことが、戦後世代の責務かと感じました。
いつの間にか貯ってしまったという砲弾。米軍の艦砲弾らしい。
もちろん爆発はしませんが、不気味であることに違いはありません。
<三嶋>
スクガーマーイ&工芸体験が無事終了
2015年11月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
11月21・22・23・28・29日に行った、「スクガーマーイ&工芸体験」ワークショップが無事終了しました。
ご協力に感謝です。
今回は商工会の協力で作ったチラシのせいか、予想以上の訪問者があり、嬉しいかぎり。お陰で休む間もなく働かされましたけど(笑)。
集落に下りて行く小路。50年前の集落跡と、今どきの風力発電の対比が面白い場所です。
ガイド役の城間光雄さんのトークは、知識もさることながら笑いもとれて聞き応え十分。
集落跡のなかでもワーフールは一番人気。体験談を語る人も多く、笑いが絶えませんでした。
工芸体験では竹笛とニクブクが人気。
竹笛は穴の調整や吹き方の習得が必要ですが、持ち帰ってもそれなりに楽しめるのでは。
ニクブク(ムシロ)は、こちら側がまだ未熟な点があって戸惑い、十分ではなかったと反省。ただ、「こんな感じ」は、少し分かってもらったのではないでしょうか。
つい60年ほど前まで家庭で作っていたモノや技術が、消えようとしていることの意味を考えてほしいと思います。
今回のワークショップには、ほとんど知られていないスクガー集落跡を知ってもらうとともに、自然との関わり方を地域で考えるきっかけにしたい(大げさですが)という思いがありました。
タイムスリップしたようなスクガーの村跡に足を踏み入れると、自然と共存していた当時の人々の暮らしを、誰しも想像するはずです。そして、自然から縁遠くなった現在の私たちの暮らしを、ふり返ってみてほしいと思います。
そこには、郷愁以上の何か、未来を生きるヒントのようなものが(おおげさですが)、あるように思うのです。
近世琉球の時代から1960年代まで、この地で営まれていた人々の暮らしは、戦後の社会・環境の変化によって失われ、その痕跡も木々に飲み込まれて消え去ろうとしています。
それは地域の歴史と文化の喪失だけでなく、後世への伝承を引き受ける努力の放棄を意味するでしょう。
城間光雄さんを中心とする「スクガーを守る会」では、跡地の保全と利活用を目指すとともに、そこで営まれた暮らしの記憶を(体験者がまだいらっしゃるうちに)、後世に残したいと考えているのです。
<三嶋>