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旧玉城村親慶原のCSG部隊

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知念に住む前城さんは、旧玉城村の親慶原にあった知念補給地区(通称CSG)で、かつて働いていました。
先日、ひょんなことからその通勤ルートも確認しようという話になり、この日、二人で出かけました(暑かったァ)。

DSCF0639
志喜屋バス停前。
当時は前方に見える山を上って垣花集落に抜けたが、現在、その山道は樹木に覆われていて、確認できなかった。
IMGP5821
知念補給地区の入り口のひとつ(垣花ゲート)。
何十年ぶりなので記憶もあいまいだったのですが、近くで尋ねたり、行きつ戻りつしているうちに、たぶんここだろうということになりました。

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前城さんの通勤ルート(赤線)。
字知念の自宅から志喜屋までバスに乗り、そこから山の斜面を上って垣花に抜け、垣花ゲートを毎日くぐっていました。
バス停からゲートまでは直線距離で1kmちょっと。案外近いと感じます。
が、されにゲートから職場まで、広大な基地内を横切って歩いたということです。

前城さんはここで、カメラの点検や修理をしていました。
ベトナム戦争で壊れたものなど、あちこちから大量のカメラが送られてきたそうで、その中には、スパイが使うミノックスという小型カメラなどもあったそうです。

この知念補給地区は、表向きは米陸軍基地でしたが、実は映画などでおなじみのCIA(アメリカ中央情報局)の拠点でした。
1951(昭和26)年ごろから使われはじめ、前城さんをはじめとするかなりの人たちが、周辺地域から働きに来ていました。

知念補給地区の存在は、本土復帰前の1971(昭和46)年、米国防総省の高官が持ち出した極秘文書が、ニューヨーク・タイムス紙とワシントン・ポスト紙に掲載されたことがきっかけで、暴露されることになりました。
同地区は、一般の基地とはかなり違う「秘密部隊」であり、事実、職場以外の部屋は隠されていて、何があるのか分からないようになっていたと前城さんも語っていました。基地の外で遊ぶ兵士もいないため、周囲に特飲街や商店街が形成されることもなく、事件や事故もありませんでした。

しかし、前述の漏えい事件がなければ、米国は本土復帰以後もこの基地を存続される計画でした。
そうなれば、米国諜報機関(キャノン機関)が日本本土で拉致した人物を、ここで監禁したような薄気味悪い事件(カジ事件)が、その後も続いたかもしれません。事実、アジア系の人たちが監禁されているのを見たという話も、別の人から聞いたことがあります。

知念補給地区は、本土復帰後1974年に返還され、その翌年、レジヤー・センターを計画する民間企業グループ(玉城園地)が、約55万坪という広大な土地の賃貸契約を結びました。ここに建設されたのが現在の琉球ゴルフ倶楽部で、完成は1977年9月のことでした。

※参考資料:2007.5.11琉球新報 「世替わりの記憶(3)」/2010.5.18琉球新報 「1次資料から見る日米安保改定50年(12)」新原昭治/ほか
<三嶋>

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