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県庁前通りの移り変わり

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『しまたてぃ』の取材が続いています。
今回は、戦後世代の話を聞こうと、わが沖縄ある記の玉那覇善秀さんと、その高校時代の同級生(久高さん・真栄田さん)に同行いただき、ハーバービュー通りまで歩きました。
現在、県庁が建っている場所には、アメリカ世の時代、行政府ビルがありました。
1953(昭和28)年4月、米国民政府が「琉球住民に献呈する」として建設したもので、1・2階を琉球政府、3・4階を米国民政府が使っていました。屋上には星条旗が翻っていたそうです(いかにも“占領”ですね)。
沖縄初のエレベーターもあって話題となり、近所の小学生たちは乗りに来たそうです。


ハーバービュー通りから見た県庁前通り。
現在の県庁前通りは政府前通りとよばれ、中央分離帯がある広い道路でしたが、当初は行政府ビル(現在の県庁)の前までしかなかったそうです。
アメリカのお偉いさんを乗せたでっかいアメ車も、ここでUターンするしかなかったとの話ですが、1954(昭和29)年6月に立法院ができたころ、ハーバービュー通りまで道が延びたのではないかという話でした。


県庁前通りから北に路地を入ると、かつての雰囲気が漂う変形の十字路があります。その角を左折すると“病院通り”、右の角には「松尾市場」があったそうです。
周辺には、琉球政府に出張で来る人が定宿にした旅館もあり、その奥は “ハーバービュー”とよばれた売春地帯でした。
“ハーバービュー”は西の行政区域と、東にある那覇高校との間にはさまれた空間で、近くの米軍基地の兵隊を相手にした飲食店が並び、戦争未亡人などが相手をする歓楽街でした。
現在の街並みから、隠微で危険な香りを漂わせていた当時の歓楽街の姿は想像できませんが、戦後史の断面として記録しておくことは重要でしょう。名もない庶民の姿は、表の歴史から抜け落ちるものですが、どんな人でも生きていた証は残したいものではないでしょうか。そして、そんな人たちの積み重ねで「今」があることを、忘れてはならないような気がします。


戦後の一時期、“ハーバービュー”とよばれた歓楽街の周辺は、沖縄戦の際に激戦が繰り広げられた場所でもあります。当時の弾痕も確認される戦前のレンガ塀は、戦後の混乱期を乗り越え、今にいたるまでこの路地裏にあって、何を見つめてきたのでしょうか。
(三嶋)

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