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迅鯨を訪ねて

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以前からお付き合いさせてもらっている大嶺昇さんと一緒に、本部町の中村英雄さん宅を訪ねました。

今年82歳になる大嶺さんは、昭和19年9月、那覇市立甲辰小学校6年の時、学童疎開で沖縄を離れました。その時、那覇港から鹿児島港まで乗った船が、潜水母艦・迅鯨(じんげい)でした。

迅鯨はその翌月、本部町と瀬底島との間の海で、米軍機による十・十空襲(10月10日)を受けて沈められ、乗員135名が戦死しました。
その時、燃え盛る迅鯨に駆けつけ、30名ほどの乗組員を救助した3人の若い漁師がいました。サバニに乗ってトビウオ漁に向かう途中に遭遇したもので、当時14歳の中村英雄さんも、そのなかの1人でした。

大嶺さんたちの学童疎開は、甲辰小学校の同級生たちも乗った対馬丸が、米軍潜水艦の魚雷で8月22日に沈められていただけに、大きな不安があったと思われます。が、迅鯨が「大きな軍艦だった」ということで、多少は安心できたのかもしれません。

命を預けたその迅鯨がこの海域で沈み、そこに中村さんが深く関わっていることを知った大嶺さんは、以前から訪ねたいと思っていたようです。この日の出会いで、胸のつかえが少しは下りたのであれば嬉しい限りです。

また、中村さんは、昨年、奥さん(節子さん)を亡くされていますが、その奥さんが大嶺さんの後輩にあたる甲辰小学校の卒業生と聞いて、不思議な縁も感じました。生前にお会いできていたらと残念ですが、迅鯨つながりで得られた出会いに感謝です。
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写真右下に見える、煙を上げている船が迅鯨。手前が瀬底島、対岸が本部半島。
中村さんの証言では、迅鯨は十・十空襲から5日ぐらい燃えていたそうなので、撮影はその間になされたもの。
写真はロバート・ロック氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

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水深が浅いため、船底が海底につかえたまま赤錆びる迅鯨(1945〜46年ごろ)。
船体は1952(昭和27)年7月25日、沖縄初の沈船引揚げで7年ぶりに浮上。下関に曳航されて解体されました。
写真はニール・H・ローレンス氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

DSCF7860
左から大嶺昇さん(82歳)と、中村英雄さん(85歳)。
中村さんは自宅近くのこの慰霊碑を毎日見守り、10月10日には慰霊祭も執り行ってきました。
(三嶋)

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