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キバナノヒメユリ展示会

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今年もまた、絶滅危惧種キバナノヒメユリの展示会が開かれた。

すでに4年目。昨年末に城間光雄さんがいなくなり、保存会の今後の行方が気になるところだが、弱々しく見えても厳しい自然環境を生き抜き、今年も可憐な花を咲かせたヒメユリの姿に、一つの光明をみる思いがした。

自生地で咲くキバナノヒメユリ

盗まれるのを防ぐため、場所を明かすことができない現状が復活の妨げにもなっている。

大里イオンの一角に展示された会員の鉢植え

栽培はなかなか難しいようで、愛情と細やかな手入れが必要とのこと。サボテンも枯らすボクにはとうてい無理である。

キバナノヒメユリを守る会の面々

会長の前城さん(左)と、神谷さん(中央)、山内さん(右)。苗の無料配布に行列ができ、忙しかったと嬉しそうであった。

<三嶋>

 

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県民大会

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時折り雨が降る天気を心配しながら、辺野古への土砂投入断面を求めて開かれた「8.11沖縄県民大会」に出かけた。

予想通り、観光客には迷惑だったかもしれないが、モノレールは大混雑。駅を降りると会場の奥武山陸上競技場を目指す人の波が、途切れることなく続いている。

「辺野古新基地NO!」を突きつける

時折り強くなる雨にも動じない人々。壇上を見つめ、翁長知事を追悼し、辺野古NOの意思を表示する。思いを共有するこれだけの人々のなかにいると、忘れかけていた勇気がふつふつと湧いて来る。主催者発表で、予想を大幅に上回る7万人が詰めかけたと知った。

2000年7月、宜野湾市で行われた緊急県民総決起大会で見たハンカチ。

愚直でも、足下の小さなことから始めるしかないのではないか、とあらためて決意する。

基地との境界が、まだユルかったころの辺野古(1997年4月)

20年以上の年月と膨大なエネルギーを費やし、地元民の思いを切り裂きながら、外国政府に追随する国家とは何だろう。沖縄県民だけではない、国民一人一人の尊厳が今も毀損され続けている。

<三嶋>

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アギヤーの話

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本部の中村英雄さんに、アギヤー(追い込み漁)の話を聞きました。
中村さんはかつて沖縄中の漁港を訪ね、漁法や漁具などの調査を行なっています。漁のようすを説明するために描いた、大きなイラストも見事で、海人の経験や各地を回って得た知見には驚かされました。


本部の追い込み漁は1970年ごろはまだ盛んで、海洋博が来たからダメになったそうです。グラフを見ると、沖縄本島では、本部・伊江の追い込み漁(グルクン)の水揚げが60%を占め、それ以外の漁港では行われていないことが分かります。


詳しく紹介するスペースがありませんが、糸満からはじまったアギヤーが、やんばる各地で盛んに行われていたころの中村さんの話は、体験者ならではの迫力があります。
ぶっきらぼうな言葉の端はしに、透明な海の輝きや男たちの躍動する肢体、獲物で湧き返る市場の姿が垣間見えたようで、胸が熱くなるのを覚えました。

と、同時に、海とともに生きてきたそんな人々が、工夫と努力を重ねて作り出してきた道具や技術が、永遠に失われつつある現実を思うとなんとも言葉が継げません。
かつてのきれいな海が汚され、次第に姿を変えて行く様を日々見ている中村さんの心中は、いかばかりでしょう。
<三嶋>

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牧港川河口の

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浦添市と宜野湾市の境に流れる牧港川の河口部に、西海岸を南北に縦断するバイパス道路(正式名は知らない)が建設されているようなので、見に行ったのですが、これが案外すごいですね。
ちょうど牧港漁港の目の前で、大きな橋桁が結合されようとするタイミング。ダイナミックな巨大工事は、見ているだけで力が湧いてくる感じ。子供の気分で、何か意味もなくワクワクします。


宜野湾市宇地泊側から見たバイパス工事


浦添市牧港の漁港前。大きな橋桁が徐々に腕を伸ばし、まさに繋がろうとしています。


宜野湾市側から見た牧港川河口部。米軍部隊が浮き橋や物資を陸揚げする浮き桟橋を築いています(写真:沖縄県公文書館)。

牧港川にはかつて、ペリー遠征隊が賞賛したという美しい石橋が架かり、戦後も残っていましたが、1号線の拡幅工事で壊されました。
国道58号線は陸橋となり、15年ぐらい前には、コンベンションセンターに通じるバイパス道路が河口を覆うように造られ、景観が一変しました。
そして現在、そこに接続する陸橋が新たに接続する分けです。

大型工事に胸踊る自分と、変容する景観に憤る自分がいます。
<三嶋>

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本部半島今昔

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このところ、本部町に出没する回数が増えています。
今日は、以前から撮影ポイントが気になって探していた、NPO法人琉米歴史研究会が所有する写真の場所をあれこれ尋ねてきました。
結果、たぶん、ここで間違いないと思う2カ所をご報告です。

(1)屋部の海岸
名護の市街地から名護湾沿いに走って屋部に入ると、ホテルの手前に二つの岩が見えてきます。


この日は大潮にあたっていたため、かなりの部分が干上がっていましたが、普段は海中に没している岩です。
同じ場所から、戦後まもない時期に撮影されたカラー写真が、以下ですね。

岩の形から、撮影されたのはこのあたりでしょう。
時期は情報がないのでわかりませんが、1950年前後ではないでしょうか。
婦人が頭に乗せたバーキ(カゴ)に、シークヮーサーにしては大きなオレンジ色のミカンが見えます。名護の市場に売りに行く途中なのでしょうか。
遠くの陸地は、名護湾越しに見える恩納村と思われます。

(2)本部の漁師村
本部町の渡久地港は、戦前からやんばると那覇を結ぶ航路の要衝であり、同時にカツオ漁が盛んな漁師町としても知られていました。
大正時代には40隻ものカツオ船が活躍し、たくさんの鰹節が出荷されていたそうです。

しかし、エサ不足や不漁、漁師の高齢化などの要因で、現在はカツオ漁はほぼ途絶え、渡久地の町も、海洋博時に完成した本部大橋の開通をさかいに、かつての活気は遠のいてしまったようです。

ここで紹介する写真は、1952(昭和27)年ごろの本部町大浜、大小堀川(ウフグムイ)の集落。

網の手入れを行う漁師の傍らのカゴは、直径2mほどもある生簀(いけす)です。ジャコーバーキと呼ぶ、カツオのエサにするスルル(キビナゴ)を入れるもので、山からとって来た竹を使い、自分たちで作ったそうです。

本部町渡久地・谷茶では、戦後おこなわれた大規模な埋め立てで、海岸線が大幅に遠ざかったため、写真に写る海人たちも、この場所では操業が困難になったものと思われます。
大通りの三叉路が目の前を通り、大型スーパーが海を遮って立地する現在の風景から、かつての生業を想像することは不可能でしょう。
<三嶋>

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