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中村さんと十・十空襲を追体験する

 Category: Myある記  Comment : 0


1945年に本部町健堅で撮影された日本兵の墓標の写真が、以前、新聞で公表されたたほか、このサイトでも紹介した。その墓標のうちの二人が朝鮮籍だったとわかり、8月初め、健堅の中村英雄さん宅まで韓国のテレビ局が訪ねて来た。

地元でもほとんど知られていない事実に光を当て、体験者の声に耳を傾けながら真摯に歴史と向き合おうとする人々の姿に、立ち会ったボクも刺激された。

そこで、さまざまな経験を経てきた中村英雄さんのことを、より多くの方に知ってもらいたいと、本人同行で十・十空襲を追体験する“ある記”を提案。同意を得たので、現場を訪れながら当時の状況を確認した。

1944(昭和19)年10月10日、炎上する渡久地港と瀬底島。写真:沖縄県公文書館蔵

瀬底島と本部の間(瀬底水道)で投錨していた日本海軍の潜水母艦「迅鯨(じんげい)」も、米軍機の攻撃で炎上。約150名の死者を出し、5日間ほど燃え続けた。

戦後間もない時期、着底したまま赤錆びる「迅鯨」。写真:琉米歴史研究会蔵

沈没する直前まで学童疎開船としても使用され、8月14日には宮崎への学童疎開第一陣(児童119名・付添12名)を鹿児島港に運んだほか、同月26日に185名、30日には180名の学童を乗せて那覇港から出航した(三上謙一郎『沖縄学童集団疎開』)。

瀬底島と本部の間(瀬底水道)は日本軍の要港とされた場所。迅鯨は9月、奄美大島近海で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて損傷。この場所に曳航されて修理していたと思われる。

戦後、5カ月におよぶ沖縄初の沈没船引き揚げ作業が行われ、1952(昭和27)年7月25日、7年ぶりに浮上するが翌月、北九州の八幡に曳航され解体された。

本部町健堅の山並みと海岸。1948(昭和23)年8月撮影。写真:琉米歴史研究会蔵

かつては美しい白砂の海岸が続き、アギヤー(追い込み漁)が盛んなウミンチュのムラとして知られた。海洋博を画期として周辺海岸の改良整備が進められた現在、この地から砂浜は消滅した。

日本兵を救助した瀬底島の浜に立つ中村英雄さん(89歳)

迅鯨は、中村さんの背後に見える瀬底島の沖合およそ300mの地点で、午前7時ごろから米軍機の攻撃を受けた。

グルクン漁に向かう途中だった中村さんと2人の仲間は、燃え盛る迅鯨にサバニを近づけ、負傷した日本兵約30名を救助し、このニーカジラーの浜に往復して運んだ。

軍国少年だった当時15歳の中村さんが、その翌年、予科練に入学したのは、来襲する米軍機をこの浜の岩陰で歯噛みして眺めたという、この日の体験があったからではないだろうか。

<三嶋>

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