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平良橋が無くなります(たぶん)

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 首里の儀保と平良の境にある平良橋(太平橋)は、幾多の歴史が折り重なった橋です。
 1597年、尚寧王が浦添・首里間の道に石を敷かせた際に、アーチ式の石橋に改築され、名前も太平橋(たいへいきょう)に改められました。
 薩摩の侵攻を受けた1609年には、浦添から首里城を目指した薩摩軍と、琉球軍百余人がこの橋で激突。大将の首をとられた琉球軍が撤退したとされます。

 平良川(安謝川上流)にかかる現在の平良橋。
 写真を右に進むと、儀保から石嶺にいたる大通り(県道241号線)から、経塚方面に続く県道153号線が分岐する平良交差点。
 写真中央付近が西森(ニシムイ)の岩山で、現在の道路はその間を切り開いて儀保につながっています。


 平良交差点側から見た平良橋。右に曲がる坂道がかつての宿道。儀保坂(ジーブビラ)と呼ばれたこの坂道沿いに、かつては平良市場(テーラマチ)があったようです。


 1966(昭和41)年9月竣工、と欄干に刻まれています。
 現在、この橋のすぐ上流に「たいへいばし」が完成しているので、残りの工事が完了すると、写真の平良橋は壊されるでしょう。
 今が見納めですよ〜!
(三嶋)

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自動販売機

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 全国いたるところにある自販機。いつごろから“あって当たり前”になったんでしょうか。
 子ども時分には、透明なガラスの中で、ジュースが噴水のように吹き上がっている販売機もありましたが(分かる人には分かるはず)。
 学生時代に行った慶良間のキャンプ場で、誰もいない夜中(今のように混雑していないころです)、うなり声を上げながら光る真っ赤な自販機(スカッとしたやつ)に驚いた事もありました。
 また、1975,6年ごろには、調理済みのハンバーガーなどが出てくる自販機が、いくつか並んだ販売コーナーが首里の当之蔵にあったと記憶しています。
 こんなことを書いたのは、「弁当の自販機が登場」し、「マイカー族などから好評」という新聞記事を見つけたからです(沖縄タイムス朝刊1972.1.7)。
 記事によれば、1971(昭和46)年12月の中ごろから、那覇市・宜野湾市の4カ所に設置され、50セントで温かい弁当が食べられたそうです。メニューも、チャーハンやビーフシチューなど5種類あって、好評と紹介されています。
 で、その後どうなったんでしょうか? 気になるなあ。
(三嶋)

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那覇市上之屋(うえのや)のこと

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 「那覇新都心かわら板」に連載中の、「新都心を歩く」に上之屋のことを書きました。
 那覇市上之屋は、北に隣接する字天久から1934(大正9)年に分離した字です。南は泊(以前は高橋町)、西は外人墓地の上あたり、東は安里と接する東西に細長い地域でした。
 現在の国道58号にある上之屋交差点付近から、200mほど南に下った辺りまでが中心地で、今より西側を迂回する戦前までの道路(県道)沿いに、いろいろな店舗が軒を並べていました。
 上之屋の繁栄は、久米と首里をむすぶ電車の開通を前に、潟原(現在の前島)にあった乗り合い馬車(客馬車)の駐車場が移転してきた、1913(大正2)年ごろから始まるようです。
 1915(大正4)年6月には、那覇と名護をむすぶ国頭街道が開通したので、那覇と中北部を往来する人々が増え、その客をあてこんだ人々も各地から集まるようになり、いっそうにぎわうようになりました。
 しかし、戦争の影が迫る頃から衰退しはじめ、沖縄戦と戦後の土地収用で、地域は破壊と混乱に見舞われました。
 現在は大きく様変わりした上之屋ですが、それにしても、沖縄にはそんな地域が本当に多いですね。
(三嶋)

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復帰前の庁舎

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 中城村の庁舎は、ワトソン高等弁務官や松岡行政主席も出席するなか、1965(昭和40)年10月15日に竣工しました。
 起工式は1964(昭和39)年11月11日。東京オリンピックが行われた翌月のことです。
 総面積約810㎡。建設費6万ドル。村内初となるホールを2階に備え、中部一といわれたモダンな設計のこの建物は、キビ畑の真ん中に立つ「白亜の庁舎」として、注目を集めました。
 国道329号の下に、隠れるような恰好になってしまった現在の姿から、竣工時の輝きは正直、感じられませんが、復帰前から半世紀にわたって、地域にある建物の歴史と価値は、決して減ずるものではないでしょう。


 庁舎入口は、国道329号からシーサーを頂く正門を下った場所。どこが正面玄関かよく分かりませんけど・・・


 三角の波形屋根をもつ建物が、当初からのもの。後年、右側に増築されてL字形になった(?)。
 三角の波形屋根は、米軍関係の建物に多く見られますが、あの形は暑さ対策でしょうか? 専門家ではないのでよく分かりませんが、実利主義の米軍が、単なるデザイン性だけで採用するとも思えないし・・・
 またひとつナゾが増えた感じです。

後ろ(東側)からの眺め。半円形の屋根の意匠は、三角の波形屋根に張り合ったのでしょうか。
(三嶋)

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吉浜加那翁の胸像

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 うるま市勝連の平安名と内間の境、JA前の馬場跡に、吉浜加那という人物の胸像があります。
 平安名出身(明治16年生まれ)の吉浜氏は、1908(明治41)年6月18日、ブラジルのサントス港に入港した笠戸丸に乗っていた日本初のブラジル移民の中の一人です(781人のうち沖縄出身は325人)。
 翌年には、沖縄人として初めてアルゼンチンに入国し、20年近く現地で働きました。その間に氏は故郷・平安名から多くの人々を呼寄せ、同村の発展に尽くしたということです。
 この胸像は、アルゼンチンから20年後に帰村したあとも、村民の尊敬を集めた吉浜氏を讃えて設置されたもので、
1972(昭和47)年1月9日、盛大な序幕式が挙行されました。

 ボクはこの胸像をネットで知ったのですが、現地に行くと、何やらゴツゴツしたタッチに見覚えが・・・帰ってから調べると、やはり、学生時代の恩師・玉那覇正吉先生の作に間違いありません。タバコとニット帽を手放さなかった先生の姿を、久しぶりに思い出したのでした。
 それにしてもブロンズの像は古びて、あんまり手入れされていない感じです。

 胸像が立つ敷地の門の上には、ペンギン? しかもクチバシが折れてるし。片っぽうは破壊されてるし。アルゼンチンにゆかりということで、シーサーの変わりに置いたのか? 真相はナゾです。

 胸像のバックにある存在感タップリの建物。花ブロックも面白いし、垂直に屋上までのびる不定形の壁の意匠が、那覇市にあった少年会館(取り壊された)を思い出させます。

このところ、勝連方面にハマっているので、また、何かあればレポートしたいと思います。
(三嶋)

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