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沖縄ある記

 

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不思議な実と神谷げんまい

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玉城さんとその仲間が手登根を散策するというので、ボクも佐敷まで行ってきました。
生憎のぐずついた天気でしたが、歩けないほど降ることもなる、ワイワイとみなさん楽しんだようです。
特に面白かったのは、道の途中で見つけた雑草の実。

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黄褐色の地に、焦げ茶の細かい斑点がある7〜8mmほどの実が、びっしりと付いているんです。何かな〜と見ていると、参加者の一人が、「子供の時によく食べたよォ」と言うので、恐る恐る口にしてみると……。フワフワとした不思議な食感のあと、かすかな甘味と酸味がやって来るではありませんか。
「ん〜、意外といけるかも」と、口にした人たちも同じような意見。
だがしかし、肝心の名前を聞くと、誰も知らないとのこと。「え〜!」
先輩たちが子供のころは、とにかくお腹を満たすのが先出、名前を覚えるどころではなかったのかとも思いますが……。
ちなみに、今はヤギのエサとか。

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手登根の神谷さんのお宅で見せてもらった、「神谷げんまい」の空き瓶(汚れたままでスミマセン)。
この商品は神谷さんのお父さん、神谷秀亀氏が「神谷牛乳」とともに生産していたもの。かつては佐敷周辺のみならず、那覇の公設市場でも売られていたそうです。

昨年、95歳で天寿をまっとうされたお父さんは、戦後、素人ながら手登根で牛を飼い始めたことでも分かるように、かなりユニークな方だった様子。お元気な時にお会いしたかったですねえ。
それにしても、ユニークな人物やエピソードが、まだまだあちこちに埋もれています。やっぱり地域は面白いですねえ。
(三嶋)

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国際通りとヤシの木

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国際通りが観光客通りとなって、県民の足が遠のいていることは誰しも知るところ。
久しぶりに歩くと、ここはハワイか?(行ったことはないけど)と言いたくなるほどで、お尻の辺りが妙にムズムズしてしょうがない。
トロピカルなイメージの演出には、歴史や生活感といったものは、邪魔なんでしょうね。

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ヤシの木が沖縄で普及した年を調べてみると、1962年にはじまった、那覇市農水課の「ヤシいっぱい運動」からのようです。当時、南国色の演出として、台湾から多くのヤシ類が輸入されたと新聞にありました(1965.11.5琉球新報)。

それより前の1955(昭和30)年ごろから、国際通りでは、歌にもなった“銀座の柳”に触発されたのか、ヤナギが初代の並木として植樹されていました。
「モダンですっきりした感じをあたえる」との記事(1958.7.14沖縄タイムス)には、首を傾げてしまいますが、米軍基地が強化され、本土復帰を指向する流れが強くなるなかでは、銀座のヤナギまであこがれの対象となったのでしょうか。

しかし、やはりヤナギは脆弱過ぎたのか、立ち枯れが目立つようになり、本土復帰のころからイスノキに切り替わっていったようです。
そして海洋博を契機に、トロピカルイメージの演出上ヤシ類が必須アイテムとなり、国際通りもそれに従うという経緯をたどったのではないでしょうか。

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イスノキが街路樹だったころ(1998)年の国際通り。
ところで、沖縄の樹木に関しては、戦後の焼け野原を緑に変えようと、行政や住民、新聞社などが一丸となって緑化運動を展開したことは、記憶にとどめておくべきでしょう。
そして、この運動に共鳴した本土各地から、たくさんの苗木が沖縄に贈られたことも忘れてはいけないように思います。
そこには、戦禍の傷を慰撫する国民共有の思いが伏流していたはずですし、とりわけ地上戦で焦土と化した沖縄を思えば、なおさらだったのではないでしょうか。また、沖縄戦で戦死した肉親・縁者を持つ人々の思いも、そこにはたくさん込められていたはずだ想像するのです。
(三嶋)

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「政府前通り」追記

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「沖縄の戦後を歩くー政府前通り」を掲載した、『しまたてぃ』(72号)が発行されました。
今回は、久茂地・泉崎の戦前から戦後の姿を書きましたが、沖縄の中心といえる場所だけに、欠かせない史実やエピソードが多く、取捨選択に悩まされました。
社会背景なども、もう少し織り込みたかったのですが、ネタを突き合せるだけでクラクラしてしまい、「アメリカ世」の複雑さを思い知らされました(勉強不足が露呈しただけという噂もあり)。

割愛せざるを得なかった資料の中では、県庁前のクバの木の話が気になった(覚えている人も多いし)ので、ここで紹介します。

このクバの木は、十・十空襲や沖縄戦を生き延びた3本で、初代琉球政府主席の比嘉秀平が、「絶対に枯らしてはいけない。もし枯れるようことになれば、1本につき職員1人をクビにするぞ」と話していたそうです(沖縄タイムス1986.1.29)。
しかし、3本のうち1本が枯れたあと、残りの2本は、現在の庁舎が建設される際に一時的に移植。記事では、3年後の新庁舎完成時には元の場所に戻されるとありますが、その後どうなったのかはよく分かりません。
ボクが見逃しているのかもしれませんが、その後が気になりますよね。
「ホントに戻したのかな〜」と、実は疑ってるんだけど(笑)。


1954(昭和29)年ごろの県庁前広場。
中央右に見えるのが、戦禍を生き延びた3本のクバの木。撮影・大嶺昇氏。


1986年1月29日付沖縄タイムス(県庁舎 あの時あの頃<7>)
(三嶋)

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旧日本海軍と中城湾

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戦艦武蔵が発見されたというニュースで、たしか中城湾にも来ていたはずと思い出し、少し調べてみました。
中城湾は明治期に軍港に指定され、北白川能久親王一行が台湾出兵の際に寄港(明治28年)したり、皇太子時代の昭和天皇を乗せた戦艦香取(艦長は沖縄出身の漢那憲和)が、渡欧の途中に立ち寄った(大正10年)ことなどが知られています。

昭和になると連合艦隊がしばしば入港し、大演習を繰り広げたようです。
昭和6年10月下旬には、戦艦榛名や巡洋艦、空母など64隻が中城湾に集結して大演習を実施。津堅島では飛来した水上機約30機が、近くの岩礁めがけて爆弾投下演習をして、島民を驚かせたこともありました(『津堅島教育百年誌・東海』)。


現在の中城湾。

戦艦武蔵が中城湾に入港したのは昭和19年6月22日。マリアナ沖海戦に参加したあと、戦艦大和・長門とともに中城湾で一息入れ、翌日には呉に向かったと記録にあります。
確認できたのは、今のところこれだけですが、それにしても不思議なのは、旧海軍に関する目撃談や証言があまりないこと。

開戦前夜の昭和16年8月から、臨時要塞となった中城湾では、一般人が軍の動向を見聞きできる状況ではなかったのでしょうが、それにしても連合艦隊や巨大な戦艦の姿を見たとなれば、誰かに話したくなるのではないでしょうか。
また、沖縄で本格的な疎開が始まるのは、昭和19年7月からですし、空襲が始まるのもこの年の十・十空襲ですから、6月に入港した武蔵や大和を見た人がいてもいいはずです。
証言や記録に出くわしていないだけなのかもしれませんが、う〜ん、気になります。


写真は中城湾に面するホワイトビーチ。戦前は日本軍、戦後は米軍が居座る状況からも、中城湾の重要性がうかがえます。

と、ここまで書いて、津堅島出身の嘉保博道氏のことを思い出しました。
1959(昭和34)年、第4次南極観測隊を乗せた観測船「宗谷」の甲板長として、沖縄から初めて南極に渡った人物です。
南極に向かう「宗谷」が津堅島の沖に達した際には、島中の人々が船に向かって手を振り、嘉保氏の家族を乗せて漕ぎ出した小舟に合わせて宗谷もしばし並走したのですが、感動的な船上の出会いと別れを伝える新聞報道に、沖縄中が沸き立ちました。
その嘉保氏を育んだ故郷が津堅島であり、少年時代に中城湾で見た戦艦陸奥や、戦艦長門の姿が、後年の海の男をかたち作ったようです。
晩年は島に帰り、静かに過ごされたようですが、中城湾に向かってどんな思いが去来したのでしょうか。

津堅島から見た中城湾
(三嶋)

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琉米文化会館の足跡

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以前から、おつき合いをさせてもらっている大嶺昇さんと、琉米文化会館でかつて一緒だったという、比嘉義次さんのお宅を訪ねました。
比嘉さんは、大嶺さんと同時期、名護琉米文化会館で働いていた方で、旧屋部村の出身。同じ年齢だったこともあって、ウマが合ったようです。


写真は、久しぶりの再会を喜ぶ大嶺さん(右)と、比嘉さん(左)。
二人とも記憶がハッキリしていて、いろいろな話に花が咲きました。当時を知る方が少なくなるなか、お二人の証言は貴重です。これからも、継続的に聞き取りを続けたいと考えた次第です。


複写させてもらった比嘉さん所有の写真。1951(昭和26)年の撮影と思われます。
大嶺さんの記憶では、名護琉米文化会館の東隣にあった横内さん(前列右から3人目)の家で、クリスマス・パーティーをした際の写真のようです。
前列右端が大嶺さん、後列左から4人目が比嘉さんで、ともに当時20歳。
ネクタイ姿でウイスキーを飲みながら、鍋を囲む姿は不思議な取り合わせのような気もしますが、敗戦からわずかに6年しかたっていない時期、特別な日のご馳走だったようです。

1951(昭和26)年から翌年にかけ、名護・石川・那覇・宮古(平良市)・八重山(石垣市)に設置された琉米文化会館は、戦後沖縄の社会に大きな影響を与えたといえます。
先進的なアメリカのシステムで展開された図書館活動や社会教育活動は、地域に開かれた施設として住民サービスに努めました。それは焦土となった地の文化復興を支えた砦であり、巡回映画や巡回図書などの実践を通してへき地・離島などにも光を当てる、灯台のような存在だったように思われます。
しかし、本土復帰を前にした流れのなかで、琉米文化会館は米軍の宣伝機関だったと決めつけられ、それまで地域に果たしてきた貢献は省みられませんでした。また、蓄積したノウハウや情報、資料なども継承されることがなかったというのが実態でしょう。
米軍上層部に思惑がいろいろあったことは推察できますが、少なくとも、ボクがこれまで聞き取りをした大嶺さんや比嘉さん、宮古の砂川さんたち、当時の琉米文化会館に務めた若者たちは、上司からいわゆる宣撫工作などの指示を受けたことはなく、情熱と使命感を持って職務に当たっていたと証言しています。
彼らが教えられた米国式の考えは、住民が知的欲求を満たせるような環境を整えることであり、地域の力をコーディネイトして向上させることが仕事だということになるでしょう。
でも、よく考えると、これって、今あちこちで言われていることと、同じではないでしょうか?
60年以上前の、何もない貧しい時期に実践されていたことが、本土復帰を境に停止し、今も実現されない事実を、われわれはもう少し考えてみてもいいように思うんですよね。
(三嶋)

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