okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

名護博弁当会

 Category: Myある記  Comment : 0


久しぶりにヤンバルの蔓草庵をたずね、帰りに名護博物館(友の会)恒例の、金曜弁当会に乱入。行くたびに、初めての方と知り合えるユンタク会ですが、今日も楽しいひと時を過ごしました。

DSCF7588
名護博物館は、施設内(中庭に面した半戸外)で自由に飲食できるという、奇特な場所。
手づくりのテーブルが2つとイスがあるだけですが、誰かれとなく訪れては、打合せをしたりユンタクしたりしています。

こんなにユルく、誰もが自由に使えるオープンスペースがある公共施設は、今どきほんとに奇跡的だと、行くたびにボクは(嬉しくて)笑ってしまいます。
博物館を訪れた人は、ついでに誰かを見つけて声を掛けてみましょう。
予期せぬ出会いが待っているはずですよ。
そして、「地元の人」が何よりの“おもてなし”であり、なおかつ最も興味深い“展示物”であることに気づくはずですよ(たぶんだけど)。
(三嶋)

--------

 

県民大会は熱かったぜえ!

 Category: Myある記  Comment : 0


ピーカンのクソ暑い天気のなか、倒れそうになりながら、「止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」に参加してきました。

DSCF7517
旭橋あたりから会場のセルラースタジアムまで、途切れることなく続いた人の波

この種の集会では、高齢者の頑張りにいつも驚かされますが、今回は子供連れの家族もけっこう目に付きました。一段とキナ臭くなった気配に、若いお母さんたちも敏感にならざるを得ない、ということなのでしょうか。
現在は「戦争間期(前の戦争と次ぎの戦争の間)」という、嬉しくない指摘に頷いてしまいそうになりますが、だからといってそれを認めてしまえば、「仕方がないもんね」的なムードを、自分も媒介してしまうことになります。
対立を前提に思考するのではなく、連帯や協調が横溢するような空気感を、社会が取りもどすよう努力するべきでしょう。優等生的で面倒臭い話かもしれませんが、しょうがないですよね。
(三嶋)

--------

 

不思議な実と神谷げんまい

 Category: Myある記  Comment : 0


玉城さんとその仲間が手登根を散策するというので、ボクも佐敷まで行ってきました。
生憎のぐずついた天気でしたが、歩けないほど降ることもなる、ワイワイとみなさん楽しんだようです。
特に面白かったのは、道の途中で見つけた雑草の実。

DSCF7491
黄褐色の地に、焦げ茶の細かい斑点がある7〜8mmほどの実が、びっしりと付いているんです。何かな〜と見ていると、参加者の一人が、「子供の時によく食べたよォ」と言うので、恐る恐る口にしてみると……。フワフワとした不思議な食感のあと、かすかな甘味と酸味がやって来るではありませんか。
「ん〜、意外といけるかも」と、口にした人たちも同じような意見。
だがしかし、肝心の名前を聞くと、誰も知らないとのこと。「え〜!」
先輩たちが子供のころは、とにかくお腹を満たすのが先出、名前を覚えるどころではなかったのかとも思いますが……。
ちなみに、今はヤギのエサとか。

DSCF7480
手登根の神谷さんのお宅で見せてもらった、「神谷げんまい」の空き瓶(汚れたままでスミマセン)。
この商品は神谷さんのお父さん、神谷秀亀氏が「神谷牛乳」とともに生産していたもの。かつては佐敷周辺のみならず、那覇の公設市場でも売られていたそうです。

昨年、95歳で天寿をまっとうされたお父さんは、戦後、素人ながら手登根で牛を飼い始めたことでも分かるように、かなりユニークな方だった様子。お元気な時にお会いしたかったですねえ。
それにしても、ユニークな人物やエピソードが、まだまだあちこちに埋もれています。やっぱり地域は面白いですねえ。
(三嶋)

--------

 

国際通りとヤシの木

 Category: Myある記  Comment : 0


国際通りが観光客通りとなって、県民の足が遠のいていることは誰しも知るところ。
久しぶりに歩くと、ここはハワイか?(行ったことはないけど)と言いたくなるほどで、お尻の辺りが妙にムズムズしてしょうがない。
トロピカルなイメージの演出には、歴史や生活感といったものは、邪魔なんでしょうね。

DSCF7422
ヤシの木が沖縄で普及した年を調べてみると、1962年にはじまった、那覇市農水課の「ヤシいっぱい運動」からのようです。当時、南国色の演出として、台湾から多くのヤシ類が輸入されたと新聞にありました(1965.11.5琉球新報)。

それより前の1955(昭和30)年ごろから、国際通りでは、歌にもなった“銀座の柳”に触発されたのか、ヤナギが初代の並木として植樹されていました。
「モダンですっきりした感じをあたえる」との記事(1958.7.14沖縄タイムス)には、首を傾げてしまいますが、米軍基地が強化され、本土復帰を指向する流れが強くなるなかでは、銀座のヤナギまであこがれの対象となったのでしょうか。

しかし、やはりヤナギは脆弱過ぎたのか、立ち枯れが目立つようになり、本土復帰のころからイスノキに切り替わっていったようです。
そして海洋博を契機に、トロピカルイメージの演出上ヤシ類が必須アイテムとなり、国際通りもそれに従うという経緯をたどったのではないでしょうか。

IMG0058
イスノキが街路樹だったころ(1998)年の国際通り。
ところで、沖縄の樹木に関しては、戦後の焼け野原を緑に変えようと、行政や住民、新聞社などが一丸となって緑化運動を展開したことは、記憶にとどめておくべきでしょう。
そして、この運動に共鳴した本土各地から、たくさんの苗木が沖縄に贈られたことも忘れてはいけないように思います。
そこには、戦禍の傷を慰撫する国民共有の思いが伏流していたはずですし、とりわけ地上戦で焦土と化した沖縄を思えば、なおさらだったのではないでしょうか。また、沖縄戦で戦死した肉親・縁者を持つ人々の思いも、そこにはたくさん込められていたはずだ想像するのです。
(三嶋)

--------

 

「政府前通り」追記

 Category: 沖縄ある記, Myある記  Comment : 0



「沖縄の戦後を歩くー政府前通り」を掲載した、『しまたてぃ』(72号)が発行されました。
今回は、久茂地・泉崎の戦前から戦後の姿を書きましたが、沖縄の中心といえる場所だけに、欠かせない史実やエピソードが多く、取捨選択に悩まされました。
社会背景なども、もう少し織り込みたかったのですが、ネタを突き合せるだけでクラクラしてしまい、「アメリカ世」の複雑さを思い知らされました(勉強不足が露呈しただけという噂もあり)。

割愛せざるを得なかった資料の中では、県庁前のクバの木の話が気になった(覚えている人も多いし)ので、ここで紹介します。

このクバの木は、十・十空襲や沖縄戦を生き延びた3本で、初代琉球政府主席の比嘉秀平が、「絶対に枯らしてはいけない。もし枯れるようことになれば、1本につき職員1人をクビにするぞ」と話していたそうです(沖縄タイムス1986.1.29)。
しかし、3本のうち1本が枯れたあと、残りの2本は、現在の庁舎が建設される際に一時的に移植。記事では、3年後の新庁舎完成時には元の場所に戻されるとありますが、その後どうなったのかはよく分かりません。
ボクが見逃しているのかもしれませんが、その後が気になりますよね。
「ホントに戻したのかな〜」と、実は疑ってるんだけど(笑)。


1954(昭和29)年ごろの県庁前広場。
中央右に見えるのが、戦禍を生き延びた3本のクバの木。撮影・大嶺昇氏。


1986年1月29日付沖縄タイムス(県庁舎 あの時あの頃<7>)
(三嶋)

--------