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国際通りとヤシの木

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国際通りが観光客通りとなって、県民の足が遠のいていることは誰しも知るところ。
久しぶりに歩くと、ここはハワイか?(行ったことはないけど)と言いたくなるほどで、お尻の辺りが妙にムズムズしてしょうがない。
トロピカルなイメージの演出には、歴史や生活感といったものは、邪魔なんでしょうね。

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ヤシの木が沖縄で普及した年を調べてみると、1962年にはじまった、那覇市農水課の「ヤシいっぱい運動」からのようです。当時、南国色の演出として、台湾から多くのヤシ類が輸入されたと新聞にありました(1965.11.5琉球新報)。

それより前の1955(昭和30)年ごろから、国際通りでは、歌にもなった“銀座の柳”に触発されたのか、ヤナギが初代の並木として植樹されていました。
「モダンですっきりした感じをあたえる」との記事(1958.7.14沖縄タイムス)には、首を傾げてしまいますが、米軍基地が強化され、本土復帰を指向する流れが強くなるなかでは、銀座のヤナギまであこがれの対象となったのでしょうか。

しかし、やはりヤナギは脆弱過ぎたのか、立ち枯れが目立つようになり、本土復帰のころからイスノキに切り替わっていったようです。
そして海洋博を契機に、トロピカルイメージの演出上ヤシ類が必須アイテムとなり、国際通りもそれに従うという経緯をたどったのではないでしょうか。

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イスノキが街路樹だったころ(1998)年の国際通り。
ところで、沖縄の樹木に関しては、戦後の焼け野原を緑に変えようと、行政や住民、新聞社などが一丸となって緑化運動を展開したことは、記憶にとどめておくべきでしょう。
そして、この運動に共鳴した本土各地から、たくさんの苗木が沖縄に贈られたことも忘れてはいけないように思います。
そこには、戦禍の傷を慰撫する国民共有の思いが伏流していたはずですし、とりわけ地上戦で焦土と化した沖縄を思えば、なおさらだったのではないでしょうか。また、沖縄戦で戦死した肉親・縁者を持つ人々の思いも、そこにはたくさん込められていたはずだ想像するのです。
(三嶋)

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