国際通りをデモ
2015年7月25日 Category: Myある記 Comment : 0
戦争法案廃止を求める県民大会に出かけてきました。
県庁前広場の集会には間に合いませんでしたが、国際通りのデモに参加。蔡温橋手前まで夫婦で歩き、いい汗をかきました。
主催者発表で1500人ということでしたが、若者や赤ちゃんを連れた若いお母さんが目に付いたのは、身近な問題として敏感に反応したのでしょうね。
ボクも、彼女たちと同じ年代の娘や孫を持つ身ですので、国の行く末や身の危険を感じながらの子育ては、させたくないと願います。
県庁前から出発するデモ隊。
がなり立てるヘイトスピーチの幼稚さに苦笑。
国際通りでは道行く人とエール交換。
なかには観光客や、バスの中から手を振る人の姿もあって、思わずウルウルしたんです。
(三嶋)

比謝橋の今昔
2015年7月25日 Category: Myある記 Comment : 0
比謝橋の模型を作った池原さんにちなんで、比謝橋の歴史をふり返ってみました。
比謝橋は、伝説の女流歌人・吉屋チルーが辻に売られる際、「うらむ比謝橋や情ねん人ぬ、〜」とよんだ1667年当時、まだ木造でした。その後、度重なる改修を経て1717年、石橋になったようです。
1909(明治42)年には県道が新設されますが、この道は比謝橋に続く天川坂(アマカービラ)が急すぎたため、西側に大きく迂回するほかなく、設計者にちなんで「シブヤマガイ(渋谷曲い)」とよばれていたようです。
比謝橋は、4つのアーチと1つの予備アーチをもったままの姿で、沖縄戦に生き残りました。
しかし、道幅の狭い石橋では物資の輸送に支障があったのでしょうか、1945(昭和20)年、米軍は石橋と並行して鉄橋を3本架けます。
そして道路拡張工事が行われた1953(昭和28)年、美しさを誇った石橋は壊され、現在の鉄桁コンクリートの橋が米軍によって造られたのです(工事は本土企業)。
1945(昭和20)年4月から、米軍はベイリーブリッジとよぶ簡易な鉄橋を、石橋のすぐそばに3本架けました。写真では確認できませんが、一番上に見える橋の陰に石橋があるはずです。
<写真提供・NPO法人 琉米歴史研究会>
現在の比謝橋は、1953(昭和28)年製。
橋には丸いリベットがたくさん見え、時代を感じさせます。
リベットは鋼材を接合する際、真っ赤に焼いたボルトを穴に差し込み、反対側を叩きつぶして固定させる方法。現在ではあまり見ないものだけに、建築史的にも貴重な資料ではないでしょうか。
現在の比謝橋は還暦を過ぎたシニア。メンテナンスはされているでしょうが、沖縄島を南北に貫く要衝でもあるのですから、くれぐれもご自愛ください。
(三嶋)

比謝橋の模型が完成です
2015年7月22日 Category: Myある記 Comment : 0
嘉手納町と読谷村の境にある比謝橋は、1700年代に架けられた美しい石橋が、戦後まで残っていました。
かつての姿は、今、嘉手納町青少年センターの入口付近に置かれた模型でも、ある程度想像できますが、その姿に納得がいかなかった池原芳英さん(読谷村古堅)は、自分の手で模型製作を思い立ちました。
建築士だった氏は、少年時代から比謝川や比謝橋を遊び場として育っただけに、正しい橋の形を残したいと復元模型製作に執念を燃やし、このほどようやく完成させたということです。
読谷村立歴史民俗資料館に置かれた比謝橋復元模型(1/50)。
樹脂製とはいえ、重量感あふれる全長2メートルほどの模型は、迫力があります。上部の道幅が微妙に異なっている点や、写真では分かりにくいアーチの形を再現するのが難しかったとのことです。
肩の荷を下ろしてホッとした表情の池原芳英さん。
ボクは7〜8年前に写真資料を提供して以来のおつき合い。
無事に完成して、こちらも安堵いたしました。おめでとうございます。
(三嶋)

勝連城跡で考えたこと
2015年7月17日 Category: Myある記 Comment : 0
勝連城跡から帰って考えました。
名付けて「中城湾岸文化リンケージ計画」てのは、どうでしょうか?
中城湾を取り巻く地域が連携することで、湾岸地域の自然や歴史・文化を多様な視点で捉え、データの共有化や人材・ソフト面の交流などを通して、地域活性化につなげるというものですが。
中城湾をドーナツのように取り囲む市町村(うるま市・沖縄市・北中城村・中城村・西原町・与那原町・南城市)の教育委員会などが連携し、中城湾岸の自然や文化的価値を再発見することからスタートし、その魅力や新たな可能性を探ってはどうでしょうか。
行政だけでなく住民も巻き込んだ、地域おこしの一環として取り組んだら面白いと思うんですよね。
中城湾の北に位置する、勝連城跡から見た中城湾。
写真右に中城、遠くに知念半島(南城市)が見えます。
中城城跡付近から見た西原方面。
天気がいい日には、知念半島が意外なほど近くに見えます。
南側(南城市佐敷)から見た中城湾。
遠くに見えるのが勝連半島。
中城湾を見ながら琉球の歴史を考えると、「阿麻和利の乱」で知られる勝連城・中城城・首里城や、初めて琉球を統一した尚巴志の佐敷城、あるいは神の島・久高島などが、極めて近い距離にあることを実感します。
互いに見えるほどの距離なので、かつては湾を隔てた交流もあったのではないか? と思いますが、なかったのなら、これから仲良く連携を深めれば、きっとイイコトがありますよ(たぶんだけど)。
まだまだ美しく、豊かな中城湾を次世代に遺すためにも、今が新たなチャレンジが必要な時だと感じます。
(三嶋)

勝連城跡で再発見
2015年7月16日 Category: Myある記 Comment : 0
数年ぶりに勝連城跡に登ってきました。
屋慶名の取材で近くを通っても、“いまさら感”があって、ためらっていたのですが、思い切って決行(大げさ? でもピーカンの真っ昼間、大汗かいて頂上まで登るには、それなりの覚悟が必要でしょう)。
今回発見した一番のお気に入りは、この石積み(三の曲輪)。
巨大な船の先端みたいで、カッコイイと思いません?
石垣のうねるような曲線が見事で、ヨーロッパの城もこんな感じじゃない?(行ったことないけど)
城の南側から見上げるとこんな感じ。
青い空をバックにそびえる古城の姿は、雄々しく美しく「カッケー!」。
また、四角い穴が所所に配置されているのにも、今回はじめて気がつきました。中城城跡にもありますが、矢や石を敵に放つためのものでしょうか。
ドローンで撮ったらこんな感じ、ってウソです。
休息所前にあったレプリカ。ピカピカしすぎですが、周辺部を含めた全体像は分かります。
周辺整備が進み、案内板も設置された城内は、思った以上に気持ちよく(失礼!)、十分楽しめました。観光客だけでなく県民にも、もう一度、勝連城跡の探訪をおすすめしたいですね。
(三嶋)
