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比謝橋の今昔

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比謝橋の模型を作った池原さんにちなんで、比謝橋の歴史をふり返ってみました。

比謝橋は、伝説の女流歌人・吉屋チルーが辻に売られる際、「うらむ比謝橋や情ねん人ぬ、〜」とよんだ1667年当時、まだ木造でした。その後、度重なる改修を経て1717年、石橋になったようです。

1909(明治42)年には県道が新設されますが、この道は比謝橋に続く天川坂(アマカービラ)が急すぎたため、西側に大きく迂回するほかなく、設計者にちなんで「シブヤマガイ(渋谷曲い)」とよばれていたようです。

比謝橋は、4つのアーチと1つの予備アーチをもったままの姿で、沖縄戦に生き残りました。
しかし、道幅の狭い石橋では物資の輸送に支障があったのでしょうか、1945(昭和20)年、米軍は石橋と並行して鉄橋を3本架けます。
そして道路拡張工事が行われた1953(昭和28)年、美しさを誇った石橋は壊され、現在の鉄桁コンクリートの橋が米軍によって造られたのです(工事は本土企業)。

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1945(昭和20)年4月から、米軍はベイリーブリッジとよぶ簡易な鉄橋を、石橋のすぐそばに3本架けました。写真では確認できませんが、一番上に見える橋の陰に石橋があるはずです。
<写真提供・NPO法人 琉米歴史研究会>

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現在の比謝橋は、1953(昭和28)年製。
橋には丸いリベットがたくさん見え、時代を感じさせます。
リベットは鋼材を接合する際、真っ赤に焼いたボルトを穴に差し込み、反対側を叩きつぶして固定させる方法。現在ではあまり見ないものだけに、建築史的にも貴重な資料ではないでしょうか。

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現在の比謝橋は還暦を過ぎたシニア。メンテナンスはされているでしょうが、沖縄島を南北に貫く要衝でもあるのですから、くれぐれもご自愛ください。
(三嶋)

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比謝橋の模型が完成です

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嘉手納町と読谷村の境にある比謝橋は、1700年代に架けられた美しい石橋が、戦後まで残っていました。

かつての姿は、今、嘉手納町青少年センターの入口付近に置かれた模型でも、ある程度想像できますが、その姿に納得がいかなかった池原芳英さん(読谷村古堅)は、自分の手で模型製作を思い立ちました。
建築士だった氏は、少年時代から比謝川や比謝橋を遊び場として育っただけに、正しい橋の形を残したいと復元模型製作に執念を燃やし、このほどようやく完成させたということです。

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読谷村立歴史民俗資料館に置かれた比謝橋復元模型(1/50)。
樹脂製とはいえ、重量感あふれる全長2メートルほどの模型は、迫力があります。上部の道幅が微妙に異なっている点や、写真では分かりにくいアーチの形を再現するのが難しかったとのことです。

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肩の荷を下ろしてホッとした表情の池原芳英さん。
ボクは7〜8年前に写真資料を提供して以来のおつき合い。
無事に完成して、こちらも安堵いたしました。おめでとうございます。
(三嶋)

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勝連城跡で考えたこと

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勝連城跡から帰って考えました。
名付けて「中城湾岸文化リンケージ計画」てのは、どうでしょうか?
中城湾を取り巻く地域が連携することで、湾岸地域の自然や歴史・文化を多様な視点で捉え、データの共有化や人材・ソフト面の交流などを通して、地域活性化につなげるというものですが。

中城湾をドーナツのように取り囲む市町村(うるま市・沖縄市・北中城村・中城村・西原町・与那原町・南城市)の教育委員会などが連携し、中城湾岸の自然や文化的価値を再発見することからスタートし、その魅力や新たな可能性を探ってはどうでしょうか。

行政だけでなく住民も巻き込んだ、地域おこしの一環として取り組んだら面白いと思うんですよね。
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中城湾の北に位置する、勝連城跡から見た中城湾。
写真右に中城、遠くに知念半島(南城市)が見えます。
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中城城跡付近から見た西原方面。
天気がいい日には、知念半島が意外なほど近くに見えます。

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南側(南城市佐敷)から見た中城湾。
遠くに見えるのが勝連半島。

中城湾を見ながら琉球の歴史を考えると、「阿麻和利の乱」で知られる勝連城・中城城・首里城や、初めて琉球を統一した尚巴志の佐敷城、あるいは神の島・久高島などが、極めて近い距離にあることを実感します。
互いに見えるほどの距離なので、かつては湾を隔てた交流もあったのではないか? と思いますが、なかったのなら、これから仲良く連携を深めれば、きっとイイコトがありますよ(たぶんだけど)。

まだまだ美しく、豊かな中城湾を次世代に遺すためにも、今が新たなチャレンジが必要な時だと感じます。
(三嶋)

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勝連城跡で再発見

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数年ぶりに勝連城跡に登ってきました。
屋慶名の取材で近くを通っても、“いまさら感”があって、ためらっていたのですが、思い切って決行(大げさ? でもピーカンの真っ昼間、大汗かいて頂上まで登るには、それなりの覚悟が必要でしょう)。

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今回発見した一番のお気に入りは、この石積み(三の曲輪)。
巨大な船の先端みたいで、カッコイイと思いません?
石垣のうねるような曲線が見事で、ヨーロッパの城もこんな感じじゃない?(行ったことないけど)
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城の南側から見上げるとこんな感じ。
青い空をバックにそびえる古城の姿は、雄々しく美しく「カッケー!」。
また、四角い穴が所所に配置されているのにも、今回はじめて気がつきました。中城城跡にもありますが、矢や石を敵に放つためのものでしょうか。
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ドローンで撮ったらこんな感じ、ってウソです。
休息所前にあったレプリカ。ピカピカしすぎですが、周辺部を含めた全体像は分かります。

周辺整備が進み、案内板も設置された城内は、思った以上に気持ちよく(失礼!)、十分楽しめました。観光客だけでなく県民にも、もう一度、勝連城跡の探訪をおすすめしたいですね。
(三嶋)

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嘉陽の褶曲観察会

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名護博物館友の会主催「嘉陽の褶曲(しゅうきょく)観察会」に参加してきました。
素人一人では、何だか危ない気配があったので、これまで行ったことがなかったのですが、友の会の皆さんも一緒ということなので安心した次第。

特に今回は、県立博物館・美術館の学芸員、仲里健さんにガイドしてもらい、素人にも分かりやすく解説してもらったので、いっそう楽しかったですね。
「いやあー、やはり専門家の解説があると分かりやすいなあ」という声がしきりでした。平易な言葉で、熱く語りかける氏の態度に、ボクも含めて皆さんも感動を覚えていました。
知識ではなく、モノの見方や世界の捉えかたを現場で体感する喜びは、バーチャルでは味わえないでしょう。そして、汗をかいた記憶が知識欲を起動させることも、間違いないと思います。

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名護市天仁屋の国道331号から50mほど入った道の脇にある褶曲。
ここでは、海底にたまった砂と泥が交互に縞をつくり、隆起した姿を安全に見ることができます。

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天仁屋川河口には、大小の石がゴロゴロ転がり、一般的な沖縄の海岸とはかなり異なっています(本土の海岸に近い感じ)。
この海岸沿いに南に歩きバン崎をめざします。

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ビーチロック。サンゴの死骸などが炭酸カルシウムとなって化学反応し、セメントのように固まったもの。「岩石ではない岩石」と言われるとか。

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次第に大きな褶曲が、はっきり分かるようになりました。
いく筋もの地層が折り重なり、一定方向に曲がるさまは迫力があります。
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過去の生物の痕跡が残った岩石。生物の化石ではなく、生物がはい回った跡で、「生痕化石」と言うらしい。このあたりには多いようです。

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あたりの岩壁は、みんなグニャグニャと曲がった黒い地層。
どんだけ大きな圧力よ! と、自然の力に呆れるしかないですね。

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バン崎に到着。崩れたバームクーヘンのように、巨大な地層があちこちで折れ曲がっています。
ここは天仁屋川の河口から1.3kmぐらいの地点。南西方向に直進すると、約10kmで辺野古にいたります。
琉球列島の成り立ちや地層の形成などが、数千万年という単位で語られる時、基地の問題や政治のいがみ合いはいかにも小さく見えてしまいます。東京で何でも決められると思っている人たちには、一度この場所に立ち、地球サイズで島の誕生や未来を考えることをおすすめします。
「国益?」「安保法案?」 小ちぇ、小ちぇ。
(三嶋)

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