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勝連城跡で考えたこと

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勝連城跡から帰って考えました。
名付けて「中城湾岸文化リンケージ計画」てのは、どうでしょうか?
中城湾を取り巻く地域が連携することで、湾岸地域の自然や歴史・文化を多様な視点で捉え、データの共有化や人材・ソフト面の交流などを通して、地域活性化につなげるというものですが。

中城湾をドーナツのように取り囲む市町村(うるま市・沖縄市・北中城村・中城村・西原町・与那原町・南城市)の教育委員会などが連携し、中城湾岸の自然や文化的価値を再発見することからスタートし、その魅力や新たな可能性を探ってはどうでしょうか。

行政だけでなく住民も巻き込んだ、地域おこしの一環として取り組んだら面白いと思うんですよね。
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中城湾の北に位置する、勝連城跡から見た中城湾。
写真右に中城、遠くに知念半島(南城市)が見えます。
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中城城跡付近から見た西原方面。
天気がいい日には、知念半島が意外なほど近くに見えます。

IMGP3779
南側(南城市佐敷)から見た中城湾。
遠くに見えるのが勝連半島。

中城湾を見ながら琉球の歴史を考えると、「阿麻和利の乱」で知られる勝連城・中城城・首里城や、初めて琉球を統一した尚巴志の佐敷城、あるいは神の島・久高島などが、極めて近い距離にあることを実感します。
互いに見えるほどの距離なので、かつては湾を隔てた交流もあったのではないか? と思いますが、なかったのなら、これから仲良く連携を深めれば、きっとイイコトがありますよ(たぶんだけど)。

まだまだ美しく、豊かな中城湾を次世代に遺すためにも、今が新たなチャレンジが必要な時だと感じます。
(三嶋)

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勝連城跡で再発見

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数年ぶりに勝連城跡に登ってきました。
屋慶名の取材で近くを通っても、“いまさら感”があって、ためらっていたのですが、思い切って決行(大げさ? でもピーカンの真っ昼間、大汗かいて頂上まで登るには、それなりの覚悟が必要でしょう)。

IMGP4437
今回発見した一番のお気に入りは、この石積み(三の曲輪)。
巨大な船の先端みたいで、カッコイイと思いません?
石垣のうねるような曲線が見事で、ヨーロッパの城もこんな感じじゃない?(行ったことないけど)
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城の南側から見上げるとこんな感じ。
青い空をバックにそびえる古城の姿は、雄々しく美しく「カッケー!」。
また、四角い穴が所所に配置されているのにも、今回はじめて気がつきました。中城城跡にもありますが、矢や石を敵に放つためのものでしょうか。
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ドローンで撮ったらこんな感じ、ってウソです。
休息所前にあったレプリカ。ピカピカしすぎですが、周辺部を含めた全体像は分かります。

周辺整備が進み、案内板も設置された城内は、思った以上に気持ちよく(失礼!)、十分楽しめました。観光客だけでなく県民にも、もう一度、勝連城跡の探訪をおすすめしたいですね。
(三嶋)

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嘉陽の褶曲観察会

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名護博物館友の会主催「嘉陽の褶曲(しゅうきょく)観察会」に参加してきました。
素人一人では、何だか危ない気配があったので、これまで行ったことがなかったのですが、友の会の皆さんも一緒ということなので安心した次第。

特に今回は、県立博物館・美術館の学芸員、仲里健さんにガイドしてもらい、素人にも分かりやすく解説してもらったので、いっそう楽しかったですね。
「いやあー、やはり専門家の解説があると分かりやすいなあ」という声がしきりでした。平易な言葉で、熱く語りかける氏の態度に、ボクも含めて皆さんも感動を覚えていました。
知識ではなく、モノの見方や世界の捉えかたを現場で体感する喜びは、バーチャルでは味わえないでしょう。そして、汗をかいた記憶が知識欲を起動させることも、間違いないと思います。

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名護市天仁屋の国道331号から50mほど入った道の脇にある褶曲。
ここでは、海底にたまった砂と泥が交互に縞をつくり、隆起した姿を安全に見ることができます。

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天仁屋川河口には、大小の石がゴロゴロ転がり、一般的な沖縄の海岸とはかなり異なっています(本土の海岸に近い感じ)。
この海岸沿いに南に歩きバン崎をめざします。

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ビーチロック。サンゴの死骸などが炭酸カルシウムとなって化学反応し、セメントのように固まったもの。「岩石ではない岩石」と言われるとか。

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次第に大きな褶曲が、はっきり分かるようになりました。
いく筋もの地層が折り重なり、一定方向に曲がるさまは迫力があります。
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過去の生物の痕跡が残った岩石。生物の化石ではなく、生物がはい回った跡で、「生痕化石」と言うらしい。このあたりには多いようです。

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あたりの岩壁は、みんなグニャグニャと曲がった黒い地層。
どんだけ大きな圧力よ! と、自然の力に呆れるしかないですね。

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バン崎に到着。崩れたバームクーヘンのように、巨大な地層があちこちで折れ曲がっています。
ここは天仁屋川の河口から1.3kmぐらいの地点。南西方向に直進すると、約10kmで辺野古にいたります。
琉球列島の成り立ちや地層の形成などが、数千万年という単位で語られる時、基地の問題や政治のいがみ合いはいかにも小さく見えてしまいます。東京で何でも決められると思っている人たちには、一度この場所に立ち、地球サイズで島の誕生や未来を考えることをおすすめします。
「国益?」「安保法案?」 小ちぇ、小ちぇ。
(三嶋)

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名護琉米文化会館のデイゴ

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大嶺昇さんと本部に行った帰り、名護市役所に立ち寄りました。
像設計集団が設計した現在の庁舎は、風土に根ざした設計思想とユニークなデザインで内外に知られていますが、そこに名護琉米文化会館があったことを知る人は、案外少ないようです。

同会館があった場所は、現市役所の東側あたり。
今は当時とまったく異なっていますが、北側の道路に面した門に、当時のデイゴが今でも残っています。

名護琉米文化会館は、1951(昭和26)年1月26日、名護文化情報会館としてオープンし、本土復帰の前年1971年6月に閉館。
監督官として来沖した日系2世、グレース・横内氏の精力的な働きもあり、名護・やんばる全域で、社会教育や生活改善などに大きな成果をあげました。

大嶺さんは、横内さんのサポートおよびスタッフとして、1951年春から53年10月ごろまで勤務したあと、那覇琉米文化会館に移動しています。

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写真中央が、名護琉米文化会館がオープンした当時に植えられたデイゴの木。
当時を物語る貴重な物証といえるでしょう。
デイゴの後に見える建物の位置に、かつて横内さんが住み込んだ家屋があり、その脇の小さな道を抜けると、目の前に名護湾が開けたそうです。名護湾が埋め立てられる前の話ですね。

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開館当時植えられ、今も残るデイゴと大嶺さん。

文化会館
北から見た名護琉米文化会館。
白く輝く未舗装の通りと、赤瓦のコントラストが美しかったと想像されます。
撮影は大嶺昇氏。1953(昭和28)年。
(三嶋)

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迅鯨を訪ねて

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以前からお付き合いさせてもらっている大嶺昇さんと一緒に、本部町の中村英雄さん宅を訪ねました。

今年82歳になる大嶺さんは、昭和19年9月、那覇市立甲辰小学校6年の時、学童疎開で沖縄を離れました。その時、那覇港から鹿児島港まで乗った船が、潜水母艦・迅鯨(じんげい)でした。

迅鯨はその翌月、本部町と瀬底島との間の海で、米軍機による十・十空襲(10月10日)を受けて沈められ、乗員135名が戦死しました。
その時、燃え盛る迅鯨に駆けつけ、30名ほどの乗組員を救助した3人の若い漁師がいました。サバニに乗ってトビウオ漁に向かう途中に遭遇したもので、当時14歳の中村英雄さんも、そのなかの1人でした。

大嶺さんたちの学童疎開は、甲辰小学校の同級生たちも乗った対馬丸が、米軍潜水艦の魚雷で8月22日に沈められていただけに、大きな不安があったと思われます。が、迅鯨が「大きな軍艦だった」ということで、多少は安心できたのかもしれません。

命を預けたその迅鯨がこの海域で沈み、そこに中村さんが深く関わっていることを知った大嶺さんは、以前から訪ねたいと思っていたようです。この日の出会いで、胸のつかえが少しは下りたのであれば嬉しい限りです。

また、中村さんは、昨年、奥さん(節子さん)を亡くされていますが、その奥さんが大嶺さんの後輩にあたる甲辰小学校の卒業生と聞いて、不思議な縁も感じました。生前にお会いできていたらと残念ですが、迅鯨つながりで得られた出会いに感謝です。
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写真右下に見える、煙を上げている船が迅鯨。手前が瀬底島、対岸が本部半島。
中村さんの証言では、迅鯨は十・十空襲から5日ぐらい燃えていたそうなので、撮影はその間になされたもの。
写真はロバート・ロック氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

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水深が浅いため、船底が海底につかえたまま赤錆びる迅鯨(1945〜46年ごろ)。
船体は1952(昭和27)年7月25日、沖縄初の沈船引揚げで7年ぶりに浮上。下関に曳航されて解体されました。
写真はニール・H・ローレンス氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

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左から大嶺昇さん(82歳)と、中村英雄さん(85歳)。
中村さんは自宅近くのこの慰霊碑を毎日見守り、10月10日には慰霊祭も執り行ってきました。
(三嶋)

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