県民大会
2016年6月19日 Category: Myある記 Comment : 0
ピーカンの殺人的陽射しを浴びながら、奥武山の県民大会へ行ってきました。
この種の抗議集会に行くのも、もう何回目でしょうか。
事態は何も変わっていないともいえるし、少しずつ変わって来たともいえるでしょう。世界中で国民国家が溶解しつつある今、県知事が先頭に立って国に向き合うことの意味は深いと思います。気がついた時には引き返せなくなり、300万人の犠牲者を出した過去を持つ日本。沖縄戦を含む惨禍を、人は1世紀を待たず忘れてしまうものでしょうか。
炎天下にもかかわらず、中高年の参加者が詰めかけていました(いつもですね)が、今回は若い登壇者も多く、その素直な物言いに好感を持ちました。
そのなかで、県内大学に通う他府県出身の女性が、沖縄に対する本土人としての贖罪の気持ちを語っていましたが、ああ自分の大学時代と同じだ、といとおしくなりました。
『沖縄ノート』に触発されて来沖し、ある意味苦しめられてきた在沖日本人として、次世代の若者にも思いが継承されていることに嬉しさと安心を覚えました。
これからも苦しむかもしれませんが、顔も知らない(見えなかったし)女の娘に、「頑張れ」と励ましの声を掛けたくなりました。
集会の最後には「月桃の花」を合唱しましたが、正直、こんなにいい歌だったかなと自分でも驚き(失礼)。しばらく耳から離れなくなりそうです。
散会のあと明治橋を渡り、帰途につく人たちです。
アリのごとく一人一人は小さいけれど、だからこそ集まるしかないではないですか。そして、力を合わせれば、アリでも壁に一穴開けられるのだと示したい。
国とは何かを問い続けるためにも、沖縄から日本に向かって声を上げ続けなければならないと思います。
<三嶋>
名護ある記
2016年5月28日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりに自主企画で“名護ある記”を実施しましたが、参加者数名。クソ暑い天気を呪いました(暑さのせいではなかったカモですが)。
前回ネタにした名護博物館にある壁面。
みんなで描いた可愛い壁画が楽しめます。
オリオンビール工場の近くにある、沖縄で初めてのセメント瓦の家。
名護はセメント瓦発祥の地で、1935(昭和10)年2月、岸本久幸という人が「南国耐風瓦」を作って、沖縄中に広まったとされます。
かつては映画館もあってにぎわったという、市街地の一角。
数年前に歩いた時より更地が広がっています。むき出しの土が乾き、寂寥感が募ります。
名護十字路から続く通り。市街地を抜ける大通りが日曜でもこんな感じ。
名護の象徴ヒンプンガジマルと、ジンガムイ(銭ケ森)が遠くに見えます。
1958(昭和33)年の写真。名護十字路から、前掲の写真とほぼ同じ角度で見た大通り。十字路から北(画面左)に行くと北部病院、南(画面右)に進むとすぐ海岸でした。
写真提供:NPO法人琉米歴史研究会
名護市街を歩いた後、午後から為又のコージン先生の畑を訪問したのですが、先生の話は、いずれまた(話が多くて語り切れません)。
今回の“ある記”は参加者が少なく、少々盛り上がりに欠けましたが、懲りずにまたまた企画しますので、ご協力のほどよろしくお願いします(ヤーグマイしてないで、さあ歩きましょう、語りましょう)。
<三嶋>
ブラック企業化する行政のなかで
2016年5月20日 Category: Myある記 Comment : 0
県内の各自治体は、それぞれの地域で、独自に市町村誌(史)を編集・発行し続けています。
その関係者がつくる団体(沖縄県地域史協議会)の総会に出かけてきました。
今回は浦添市が当番ですが、午前中にはいつも周辺の巡見があるので、いつも楽しみです(総会よりこっちが本命なんです)。
でも、集まったみなさんはあまり面白くないのか、巡見はいつも静か。地域史という共通項があるんですから(ボクは違いますが)、「もう少し盛り上ってもいいんじゃね」と思いますね。あまりの静けさに、案内する地元の方も力が抜けるんではと心配してしまいました。
既知の情報が多いからかもしれませんが、地元でしか聞けない話もあるし、人脈を作るいい機会でもあると思いますけどね。何となくモヤモヤしてしまいました。
有名な仲間樋川(フィージャー)。
仲間火ヌ神。
午後の総会で刮目したのは、地域史に関わる人たちへのアンケート結果。非正規雇用が多くを占める厳しい現状に、いまさらながら同情しました。
学芸員資格や教員免許を持つ優秀な若い人たちが、非正規雇用下で働く状況は、今に始まったことではないのですが、他の職種同様にますますひどくなっているんですね。
が、いっぽうで、動き出しの遅さに少々驚いたのも事実。正直、「今ごろ?」という感じなのです。
ブラック企業化が進む行政に異議を唱えることは、個人では難しいでしょうが、それでも、数少ない自治体の求人に、われ先に群がるような状況を続けていることが、問題の共有化や顕在化の動きを阻害し、孤立化を進めているように見えてきます(競争関係が続いている分けですから)
生活のためには仕方がないと言われるでしょうが、共通の課題を話合うだけでも孤立は和らぎ、違った地平が見えてくるのではないでしょうか。
地域文化とそこに携わる人たちが窮乏に瀕している現状を、一般の人たちにもアピールするとか、徒党を組んで何らかの行動を起こしてもいいのではないでしょうか。
そして、少しでも解決に向けて事態が前進するならば、あとに続く人にも勇気が与えられるでしょう。
優秀な人材が不安定な地位に置かれていることは、地域の損失でもあります。貧弱な文化行政に対して、みんなで物申す姿勢を示せば、共感する人の輪は広がるはずです。
自分は行政にいたことはないので、見当違いのことを言っているなら勘弁願いたいのですが、以上の問題は、われわれや先輩たち世代が先送りしてきた結果でもある分けなので、似たような仕事をしてきた身としては、責任の一旦を感じてしまうのです。
<三嶋>
民俗資料の展示
2016年5月14日 Category: Myある記 Comment : 0
いきなりですが、博物館などに展示されている、民俗資料がこのところ気になっています。
石油などから作られる工業製品に囲まれた日常を送るわれわれは、手作りが多かった戦前・戦後の懐かしい品々にどう向き合えばいいのか、分からないままのように見えるのです。
例えば、何という名前だったのか、使い方はどうだったのかさえ曖昧になった道具もあります。“便利”を追求してきたわれわれは、そんな道具類が暮らしに不可欠だった時代から、ずいぶん遠い地点に来てしまいました(しかも急速に)。
大量生産・大量消費時代が到来して半世紀、かつての道具や技術の多くは現役を退き、屍を遺すのみになっているか、絶滅危惧種に近い状態に置かれているといえるでしょう。
しかし、社会を検証し、未来を予測するためにも、過去の暮らしやモノ、技術に学ぶことは多いはずです。また、地域の文化資産といえるそれらを保存し、次代に伝えていくことは、地域のアイデンティティを継承するという意味でも重要でしょう。
いっぽうで、地方の博物館の多くが財源・人手不足に苦しみ、調査や整理どころか、増え続ける品々を保管するだけで四苦八苦しているという状況があります(想像だけど)。
そこで、人手のかかる作業や調査業務などに、市民ボランティアの手を借りることも、課題解決のひとつではないかと考えます。高齢者の話を聞いたり、体験者に実演してもらうワークショップなどを、市民とともに開催すればモチベーションも上がるはずです。
使い込まれた道具類には、地域固有の歴史や文化、人々の物語が詰まっています。
ですから展示を考える上でもそのことを最大限考慮し、オブジェとしてキレイに並べることに腐心するのではなく、例えば実際に触り、使ってみることで理解が深まるような見せ方を工夫するとか、屋外体験と連携した展示を考えるとか、市民参画で進められたら素敵なことだと思うのです。
名護博物館展示室。1階では、歴史や民俗、自然といったカテゴリーで展示を分けるのではなく、それらが一体となった展示空間が作られています。
市民ボランティアも交えて手作りした部分も多いそうですが、手近にあるモノや知恵を出し合った課程が想像できるのも、魅力のひとつ。開館から30年以上経過して、ホコリや痛みが見えるのもご愛嬌と受け止めましょう。
屋我地島の製塩体験。名護博物館で力を入れている体験学習のひとつ。
屋内展示だけではなく、屋外活動の実践も重要でしょう。頭ではなく体を通して学ぶこと、実際に道具を使って体感することは、防災の観点からも重要だと思っています。
<三嶋>
博物館と市民参画
2016年5月7日 Category: Myある記 Comment : 0
前回は明治村に行った話を書きましたが、あんな広大な土地で、本物の展示品を並べるような展示は、沖縄では考えられないですね。
それにも増して、地方の博物館では、財政難のなか四苦八苦しているのが現状でしょう(よくは知らないけど)。費用対効果を求める議会や商工関係者などに対して、肩身が狭い思いをしているんではないでしょうか(よく知らないけど)。
それでも逆境を跳ね返し、メゲずに頑張って欲しいんですが、一方では観客・市民側の意識変革が必要なことも確かでしょう。
ただ、口を開けて(開けなくてもいいけど)、与えられるのを待つだけではなく、自分から面白いものを求めて動くことが、面白かったりするんですよね。
積極的に博物館に関わろうとするそんな市民と、そのボランティア精神と力を借してもらおうとする博物館とが手を結べば、当然“コスパ”も向上するはずです。
リタイアして金と時間に余裕のある年寄りや、貧乏に耐えながら理想に燃える若者もいるはずだから(たぶんだけど)、彼らが活躍する場や機会が増えれば、個人のスキルもアップするし、他世代の交流も活発になるのではないでしょうか。
「そんなことはやっとるわい!」との声もあるでしょうが、ほんとうにそうなら、ここまでひどい状況にはならなかったのではないでしょうか? 教育や文化芸術を誰もが等しく享受できなかったのが、残念ながら沖縄の現状だったように思います。
だからこそ、行政に頼らないで、自分たちの文化は自分たちで守り育てるという、当たり前の話をしているつもりなのです。
その点で、十分ではないまでも、ひとつの例になると思うのが、名護博物館と友の会の関係です。
市民参画への理解が博物館側にあり、館側の要望に応えようとする情熱が友の会側にあって、両者が連携する好循環が、立ち上げ前から30年以上続いているのです。
ほどよい大きさの環境と出会いの場所があり、誰もが自由に足を運べる雰囲気や、「何か」があるかもしれないと期待させる博物館の姿は、ひとつの理想のような気がするんですね。
※年寄りにはアジールとしての癒し効果もあるし
中庭に向かって開放されたスペースは、誰でも利用フリー。
この開放感が名護博物館の一番の魅力。
2014年2月に開催された名護博物館30周年記念式典。
式典の後は博物館中庭でいつもの懇親会。
仲間が作る手料理で宴会が出来る博物館は、ここぐらいではないでしょうか。そういう意味でも貴重な博物館なのです。
またご馳走になりましょうねえ〜。
<三嶋>