鉄くずが凶器だったころ
2016年7月14日 Category: Myある記 Comment : 0
南城市に住むK氏の自宅。
玄関脇に積まれた鉄くずに目が行き、たずねると、砲弾の破片とのこと。
その中の一個(長さ30cmぐらい)を手に取ると、片手では持てない重さにたじろぎました。
これらの破片は、土木作業に長く携わってきたというK氏が、ユンボの操作中などで遭遇し、土中から掘り出したもの。
次の世代にも沖縄戦を引き継がないといけないとの思いで、捨てたり売ったりはしなかったそうですが、いつしか鉄くずが山となったようです。
想像できるでしょうか。
このギザギザに割れた鉄の塊が、爆発と同時に燃えながら飛び散るさまを。それは柔らかな肉体を一方的に切り裂き、一瞬にして人々の命を奪った鉄片なのです。
この圧倒的な鉄の存在感は、ガラス越しに置かれた博物館の展示や、写真では伝わらないでしょう。戦争の実相が、わずかでもこの鉄くずに宿っているとすれば、腐食した質感や重量感を体で受け止め、知識としてではなく血肉化していくことが、戦後世代の責務かと感じました。
いつの間にか貯ってしまったという砲弾。米軍の艦砲弾らしい。
もちろん爆発はしませんが、不気味であることに違いはありません。
<三嶋>

田井等収容所跡をたずねて
2016年6月25日 Category: Myある記 Comment : 1
名護博物館主催の巡見で、旧羽地村にあった田井等(たいら)収容所の跡をたずねました。
以前から気になっていたんですが、よく分からない場所だったので、ちょうどいい機会でした。
ガイドは名護市史編さん室の大嶺さん。
近々発刊される予定の、名護市史「戦争編」の担当者だけに、強烈な陽射しにも負けない熱い語り口。熱中症にならないか、とこちらが心配するほどでした(無事でよかった)。
それにしても、現在の町のようすはのどかを絵に描いたようなもので、戦禍を逃れた人々でごった返していたという、当時の姿を想像するのはかなり難しい感じ。
平和でなによりですが、災禍に巻き込まれた市井の人々の歴史や辛苦まで、無かったことにしてしまってはいけないと感じます。
沖縄戦が終結して間もない頃の、田井等地区と思われる写真(NPO法人琉米歴史研究会提供)。
資料によると、米軍は1945年4月中旬、現在の名護市田井等に軍政本部を設置し、本部町・名護町方面の避難民の収容を開始しています。
8月には田井等とその周辺地域に5万5千人を収容(沖縄で一番大きな収容地区)。
9月には田井等市となり、市会議員・市長選挙も行われましたが、10月末に避難民の帰村が開始されると人口が急減したため、同年11月には軍命で廃止。わずか3ヶ月弱で、田井等市は消滅しています。
今回の巡見をきっかけに、これからも機会があれば同地をたずね、継続して調べてみたいと思っています。
<三嶋>

県民大会
2016年6月19日 Category: Myある記 Comment : 0
ピーカンの殺人的陽射しを浴びながら、奥武山の県民大会へ行ってきました。
この種の抗議集会に行くのも、もう何回目でしょうか。
事態は何も変わっていないともいえるし、少しずつ変わって来たともいえるでしょう。世界中で国民国家が溶解しつつある今、県知事が先頭に立って国に向き合うことの意味は深いと思います。気がついた時には引き返せなくなり、300万人の犠牲者を出した過去を持つ日本。沖縄戦を含む惨禍を、人は1世紀を待たず忘れてしまうものでしょうか。
炎天下にもかかわらず、中高年の参加者が詰めかけていました(いつもですね)が、今回は若い登壇者も多く、その素直な物言いに好感を持ちました。
そのなかで、県内大学に通う他府県出身の女性が、沖縄に対する本土人としての贖罪の気持ちを語っていましたが、ああ自分の大学時代と同じだ、といとおしくなりました。
『沖縄ノート』に触発されて来沖し、ある意味苦しめられてきた在沖日本人として、次世代の若者にも思いが継承されていることに嬉しさと安心を覚えました。
これからも苦しむかもしれませんが、顔も知らない(見えなかったし)女の娘に、「頑張れ」と励ましの声を掛けたくなりました。
集会の最後には「月桃の花」を合唱しましたが、正直、こんなにいい歌だったかなと自分でも驚き(失礼)。しばらく耳から離れなくなりそうです。
散会のあと明治橋を渡り、帰途につく人たちです。
アリのごとく一人一人は小さいけれど、だからこそ集まるしかないではないですか。そして、力を合わせれば、アリでも壁に一穴開けられるのだと示したい。
国とは何かを問い続けるためにも、沖縄から日本に向かって声を上げ続けなければならないと思います。
<三嶋>

名護ある記
2016年5月28日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりに自主企画で“名護ある記”を実施しましたが、参加者数名。クソ暑い天気を呪いました(暑さのせいではなかったカモですが)。
前回ネタにした名護博物館にある壁面。
みんなで描いた可愛い壁画が楽しめます。
オリオンビール工場の近くにある、沖縄で初めてのセメント瓦の家。
名護はセメント瓦発祥の地で、1935(昭和10)年2月、岸本久幸という人が「南国耐風瓦」を作って、沖縄中に広まったとされます。
かつては映画館もあってにぎわったという、市街地の一角。
数年前に歩いた時より更地が広がっています。むき出しの土が乾き、寂寥感が募ります。
名護十字路から続く通り。市街地を抜ける大通りが日曜でもこんな感じ。
名護の象徴ヒンプンガジマルと、ジンガムイ(銭ケ森)が遠くに見えます。
1958(昭和33)年の写真。名護十字路から、前掲の写真とほぼ同じ角度で見た大通り。十字路から北(画面左)に行くと北部病院、南(画面右)に進むとすぐ海岸でした。
写真提供:NPO法人琉米歴史研究会
名護市街を歩いた後、午後から為又のコージン先生の畑を訪問したのですが、先生の話は、いずれまた(話が多くて語り切れません)。
今回の“ある記”は参加者が少なく、少々盛り上がりに欠けましたが、懲りずにまたまた企画しますので、ご協力のほどよろしくお願いします(ヤーグマイしてないで、さあ歩きましょう、語りましょう)。
<三嶋>

ブラック企業化する行政のなかで
2016年5月20日 Category: Myある記 Comment : 0
県内の各自治体は、それぞれの地域で、独自に市町村誌(史)を編集・発行し続けています。
その関係者がつくる団体(沖縄県地域史協議会)の総会に出かけてきました。
今回は浦添市が当番ですが、午前中にはいつも周辺の巡見があるので、いつも楽しみです(総会よりこっちが本命なんです)。
でも、集まったみなさんはあまり面白くないのか、巡見はいつも静か。地域史という共通項があるんですから(ボクは違いますが)、「もう少し盛り上ってもいいんじゃね」と思いますね。あまりの静けさに、案内する地元の方も力が抜けるんではと心配してしまいました。
既知の情報が多いからかもしれませんが、地元でしか聞けない話もあるし、人脈を作るいい機会でもあると思いますけどね。何となくモヤモヤしてしまいました。
有名な仲間樋川(フィージャー)。
仲間火ヌ神。
午後の総会で刮目したのは、地域史に関わる人たちへのアンケート結果。非正規雇用が多くを占める厳しい現状に、いまさらながら同情しました。
学芸員資格や教員免許を持つ優秀な若い人たちが、非正規雇用下で働く状況は、今に始まったことではないのですが、他の職種同様にますますひどくなっているんですね。
が、いっぽうで、動き出しの遅さに少々驚いたのも事実。正直、「今ごろ?」という感じなのです。
ブラック企業化が進む行政に異議を唱えることは、個人では難しいでしょうが、それでも、数少ない自治体の求人に、われ先に群がるような状況を続けていることが、問題の共有化や顕在化の動きを阻害し、孤立化を進めているように見えてきます(競争関係が続いている分けですから)
生活のためには仕方がないと言われるでしょうが、共通の課題を話合うだけでも孤立は和らぎ、違った地平が見えてくるのではないでしょうか。
地域文化とそこに携わる人たちが窮乏に瀕している現状を、一般の人たちにもアピールするとか、徒党を組んで何らかの行動を起こしてもいいのではないでしょうか。
そして、少しでも解決に向けて事態が前進するならば、あとに続く人にも勇気が与えられるでしょう。
優秀な人材が不安定な地位に置かれていることは、地域の損失でもあります。貧弱な文化行政に対して、みんなで物申す姿勢を示せば、共感する人の輪は広がるはずです。
自分は行政にいたことはないので、見当違いのことを言っているなら勘弁願いたいのですが、以上の問題は、われわれや先輩たち世代が先送りしてきた結果でもある分けなので、似たような仕事をしてきた身としては、責任の一旦を感じてしまうのです。
<三嶋>
