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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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風樹館あるき

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今月の「ある記」は6月11日、風樹館見学であった。

風樹館は、企業家の金城キクさんが寄贈して出来た、琉球大学の資料館(博物館)。

首里から西原に移転して建てられた現在の建物は、建築家・金城信吉の設計。那覇市民会館の設計で知られるが、完成を見ることなく亡くなったため、最後の作品となったものである。

沖縄ある記の会員でもある、学芸員の島袋美由紀さん。
沖縄に棲む最大・最小の昆虫標本を見ながら、地域の特異性に納得。
風樹館にはさまざまな生き物の標本が置かれているが、代表選手はやっぱりヤンバルクイナだろうか。港川人がいた約1万8千年前には本島全域に生息し、飛ぶことができたと考えられているそうだ。過去の骨格には胸の所に筋肉を支える骨が見られ、現在の骨にはなくなっていることから推測されるようで、なるほどと感心する。

ジュゴンの骨とイノシシの骨を持って比べ、前者がはるかに重いのは、水中で生活する上で獲得した特性だとのこと。実際に触りながらの解説には説得力がある。なるほどねえ。

たくさん置かれている骨格標本はどれも美しい。小さく繊細なパーツが絶妙につながり、理に沿った動作を宿主に授ける様は、迷いと失敗ばかりの人間を嘲笑うかのようではないか。彼らのシンプルで潔い行動原理が、こんな時代だからかうらやましくもある。

ギリギリの人員と予算で、志と思いのある人々に支えられているこの風樹館。膨大な時間のなかで費やされてきた、地球の歴史や生物の営みに思いを寄せ、個人や国の利益で奔走する人々の愚かさを笑うには丁度いい、静けさに満ちた知的空間である。

<三嶋>

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『アメリカ世の軌跡』校了

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昨年から制作していた書籍『アメリカ世の軌跡』が、ようやく校了となった。

いろんな人の協力を得て感謝にたえないが、何とか形にすることができると思うと、嬉しさがこみあげてくる。同時に、しっかりと氏名が残ることの怖さにも苛まれる。

書籍では、27年間の年表を柱にしているため、間違いは許されないと校正に多大な時間をかけた。しかし、それでも問題は出てくるであろうと、今から覚悟している。

復帰してよかったと考える住民が多くを占める沖縄で、復帰前の沖縄の姿は次第に遠ざかり、霞んでいくようである。

復帰前を体験はしていないが、同時代に思春期を生きていた自分は、当時の沖縄の状況を掘り起こし、どんな事が起こり、誰が何をしたのか、出来るだけ知りたいと思う。そして、それらを次の時代に残すことが必要だと考える。これからの社会をよりよいものにするためには、先達がつくった歴史に学ぶことが不可欠だからである。

そのためにも、身の丈知らずの思い上がりかもしれないが、日本ではなかった沖縄の姿を本書の年表と写真でご覧いただき、豊かになっていく暮らしぶりや地域の姿、今も変わらない基地、政治状況などを確認していただければ幸いである。

本当に、復帰してよかったんでしょうかね?

宣伝用のDM

<三嶋>

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琉米歴史研究会の資料寄贈

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以前からボクが関わっている(現在は理事)NPO法人琉米歴史研究会が、写真資料などを中城村と北中城村に寄贈しました。今後は、三者で保存・活用することになります。

4月18日には、そのための記者会見が、両村の村長や教育長なども出席して開かれました。

これで、琉米歴史研究会の喜舎場さんも、枕を高くして寝られるんではないでしょうか。

おもにアメリカの個人から預かった写真の、保存問題にはかなり頭を痛めていましたからね。

また、NPOと行政が一緒になって、資料のアーカイブ構築を行うのもあまり聞いたことがないので、おそらく新しい試みになるんではないでしょうか。

ボクはこれまで、琉米歴史研究会が持つ約1万5000点ほどの写真のなかから、1万点ほどを使って画像データベースを作って来ました。しかし、一人で出来ることは限られていますから、行政の人たちの知見が加えられると、いっそう充実するだろうと期待しています。

ただ、一般公開するまでには、まだ数年かかるんじゃないかと思うので、それまで待っててもらわなければなりませんね。

これらの写真は沖縄各地で撮影されたものだけに、前述の2村だけのものではなく、いわば沖縄全体の財産ともいえるものです。それだけに、これからは、もっと県民に広く使ってもらえるようなものになって欲しいと願うばかりです。

今後ともよろしくお願いします。

中城村の護佐丸資料館で、マスコミの取材を受ける理事長の喜舎場静夫

<三嶋>

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名護ある記

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先月2月13日についで、復活地域ある記の第2弾、「名護ある記」を華々しく(?)実施しました。

ガイドは名護生まれの玉城一男さん。10年ぐらい前に帰郷して、ヤンバルに飽き足らずあちこち歩き回っているオジサンです。って失礼、ボクの大学の先輩だった(笑)。

名護は以前、仕事でよく来ていたし、このHPでも書いたことがあると思うが、歩くのは久しぶりでなんだか懐かしい。

あるきのコースは、漁港を出発して、そこから国道58号を横切って城に入り→名護市営住宅からみどり町を通り、→津嘉山酒造で説明を聞いたあと→十字路公民館そばを抜けて幸地川に出て、漁港に帰ってくるというもの。

名護はやはりヤンバルを代表する街のため、見どころは限りない。2~3時間ではやはりうわべだけの散策になったが、また来たくなったら第2弾、第3弾をやりましょう、と語り合った次第。

名護湾の美しさと、娘たちの情の深さを歌った「浦々の碑」のすぐそばには、城公民館。そのそばから北東に伸びる小道は、「会社通り」と呼ばれていたとか。
目の前に広がる名護湾にはかつて、那覇とむすぶ船が往来する港があり、周辺にはその倉庫や会社があったのだろう。その名残が「会社通り」なのだろう。
セメン瓦の民家もあるが、この瓦が台湾から名護に持ち込まれ、名護で生産されるようになったのは有名な話。
今も生産する工場が残っている。
会社通りから名護大通りに抜ける途中。ガイドの玉城さん(中央)も、この周辺で生まれたとか。かつては映画館が数軒あり、1957年にはそのうちの一つ、大丸映画館が焼失して大きな話題となっている。 しかし、現在、当時の繁華街の面影を残すものは見当たらない。
ヤギ肉の刺身や、ヤギ汁の自動販売機。600gで1500円とかが並んでいる。
ヒージャー好きにはたまらないでしょうね。
津嘉山酒造の屋敷内。昭和2年に建造された赤瓦の屋敷・工場で、今も昔ながらの泡盛「国華」がつくられているが、忙しい中、屋敷内を見せてもらい、解説を聞かせていただいた。少し前に国指定文化財に登録されて話題となったが、それだけの価値がある建物だと思う。
沖縄戦のころは米軍の司令部として使われたようで、その痕跡として柱に刻まれた「OFFICERS QUARTERS(将校宿舎)」の文字が残る。
沖縄県公文書館所蔵の、1945年当時の航空写真。中央下部に焼け残った津嘉山酒造が確認できる。周辺が焼き払われるなか、この建物が残ったのは、米軍が戦後処理の拠点とするためだったとか。抜け目のない米軍の思惑が、ここでは文化財の保護というイイ結果を産ん出したということだろう。

う~ん、名護はいろいろあり過ぎて、やっぱり見切れない感じ。

またやろうね、玉城さん。

<三嶋>

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糸満ある記

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コロナが少し弱まった感があるのでは、と勝手に解釈して、久しぶりの散策を行いました。

ヤーグマイ(家篭り)が続いて、結構キツかったため、お互い気をつけることを条件にすれば許されるかなと、大甘な解釈で踏み切りました(怒られるかな)。

でも、予想外に参加者が多くて、同じように考えている人が多いんじゃないかなあと、思いましたよ。

というわけで、今回は「糸満ある記」の報告です。

幸い、糸満市教育委員会にいた加島さんがガイドを引き受けて下ったので、嬉しい限り。

彼女は現在、「NPO法人ハマスーキ」という、ウミンチュ に関する資料保存や展示に関わっていて、その資料館もあるので丁度いいかとお願いした次第。

本部にいる中村英雄さんとも交流したいということだったので、今後も交流が深まればいいなと考えています。

散策のコースは、糸満海のふるさと公園から新しい道路を渡り→漁港、市場を抜け→ロータリー からサンティンモー(山巓毛)に登り→海人の住宅街を歩き→白銀堂にお参りして公園に帰り、最後にハマスーキが運営している資料館(海人工房)を見学するというもの。

天気もよく、気持ちのいい1日でした。


最近(でもないか?)できた新しい道路の下。見慣れないモダンなフォルムが新鮮でした。




糸満漁港。魚市場があった場所は更地になっています。
再開発なんでしょうが、少し寂しいですね。このあと行った市場も、古い建物がリニューアルされたりして綺麗になっていますが、昔やっぱり何だっか薄っぺらな感じが拭えない。住民の結論だから、外野があれこれ言うのも失礼ですが。

山巓毛(サンティンモー)に行ったが、そこで思い出したのが、琉米歴史研究会が所有する1950年に撮影されたとされるこの写真。戦前に使われていた梵鐘で、1958(昭和33)年5月8日付の沖縄タイムスが、「再びこの場所に吊るされる」と報じているが、写真は1950年撮影とされるため、食い違いがよく分からない。
知っている方がいれば教えて欲しいと公開した次第。

最後に訪れた「海人工房・資料館」の内部。
糸満は、ミーカガン(水中眼鏡)の発明やアギヤー(追い込み漁)で知られるように、漁業の町として黄金時代を築いた所。その漁具や漁法、地域ならではの暮らしや歴史など、次代に継承べきモノやコトはたくさんあふれている。海人の知恵や文化は沖縄の宝のひとつだけに、活動が今後いっそう発展するようエールを送りたい。

<三嶋>

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