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島添大里グスクある記

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11月の定例ある記は、HPでも参加者を募集した南城市の島添大里グスク。9月にはグスク隣の西原集落、10月にはその南に位置する大城と歩き、いよいよ本丸が登場といったところだろうか。

天候不順が続いていただけに、朝から雨を心配だったが杞憂に終わり、なんとか無事終了した。

解説は9月に続いて新垣一也さん。素人にも分かりやすいシャベリで、とっつきにくいグスクの話や歴史も、何だか身近に感じることが出来た。

かつては遠足のメッカだった広場で、新垣さんの解説を聞く。
右側に見える拝所は、ウタムトゥノーイ。グスクに入る人が、ここで衣服のゴミを払ったり、身嗜みを整えたとされる場所。この上の広場が一の郭で、本殿があったとされる所。首里城正殿にも匹敵するほどの大きさではなかったか、という話に興味をひかれる。
かたわらにはその礎石(明らかに琉球石灰岩とは異なる)が、いくつも並んでいる。各地のノロが集まって拝みをする際、この石に腰を下ろしていたようだ。
(写真:佐藤)
一の郭の西側にある火ヌ神。
すぐそばにコンクリート製の立派な拝所が建つが、誰かが勝手に立てたものだという。
そのそばにあるグスクで一番高い場所に登ると、ティンチジという拝所があるが、ここも手前にある香炉の奥の、古い香炉跡がもともとのものとか。
グスクの西側に位置する、旧日本軍が掘った洞窟。
旧日本軍が、大型の大砲を設置するために掘ったもので、奥行きは3~4mほど。しかし、今では中に香炉が置かれ、信仰の場所と勘違いされて拝みも行われているようだ。
近くに大御嶽(ウフウタキ)という古い拝所があり、大切にされているとのことだったが、詳細はよく分からないとのこと。
わずかに残る石積み。
島添大里グスクの石積みは、尚巴志が首里城建設のために持ち出したという話や、旧日本軍が陣地建設のため壊したという話なども伝えられているが、詳細ははっきりしないようだ。
カニマン御嶽。
グスクの西の端にある拝所で、円筒形の石積みや、その上に置かれた宝珠が独特。大城按司の墓が思い出されるが、周辺の地域には同じ形のものがまだあるようだ。
葬られている人物が誰なのかは謎で、地元では渡来人とされ、その技術者たちの墓と考えられているようだ。カニマンという名称からすると、カンジャヤー(鍛冶屋)だったのかとも思うのだが・・・

この後、カニマン御嶽の下側にある遥拝所や、大御嶽の遥拝所を回ったが、一般庶民はそこまでしかグスクに近寄れなかったから遥拝所が必要だったとのこと。最初に見たウタムトゥノーイあたりから、カニマン御嶽までは城内であることから、関係者というか身分の高い人しか入れなかったということだ。

なるほど、本来なら、今日訪れたほとんどの場所は、ボクらのような庶民は見れなかった分けか。

ノロ屋敷のヒンプン。
グスクから離れて西原集落内に入り、9月に訪れていない場所を回る。このヒンプンは、大正時代のもの。戦時中の弾痕がはっきりと残り、凄まじさを今に伝えている。石積みの屋敷囲いも、長くて美しく見事なものである。

島添大里グスクと、その周辺の村々を3回にわたって回ったが、これにてひとまず卒業。三山が統一される以前の時代、首里が王都として栄える以前の話だから、いたる所で謎が渦巻き、古のロマンに満ちていたという印象。

グスクの話も、お城の人々がどんな暮らしだったのかとか、何を考えていたのかだとか想像を巡らせると、よく分からなくても、身近に引き寄せて感じられるし、それなりに楽しめるのではないだろうか。古の痕跡をたどる楽しさを、満喫した次第である。

新垣一也さんありがとうございました!

<三嶋>

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「島添大里城跡ある記」参加者募集

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2022年11月12日(土曜日)、「島添大里城跡ある記」を開催します。

9月に、大里グスク南側の西原集落とギリムイグスクを歩き、10月に大里グスクと関係が深い大城城跡と集落を訪ね、今回、いよいよ大里グスク(島添大里城跡)を探索します。

当日の案内・解説は、中城教育委員会の新垣一也氏にお願いしてあります。新垣さんは大里出身で以前、南城市教育委員会にいた際に大里グスクについてもいろいろ調査・研究していた方です。

今回は対象がシロートなので、難しい話ではなく、ボクらのレベルに合わせた、面白くて分かりやすい話をしてもらえるものと期待しています。

暑さも和らいだこの季節、みなさまのご参加をお待ちしています。

わずかに残る石垣。首里城築城の際に持ち出されたため、無くなったという話も伝わっています。

よく分からないことが多い島添大里グスクですが、あちこちに残る拝所を訪れたり伝説などを聞くと、いっそう興味が深まることは確実です。

●実施日:11月12日(土曜日) 

●時間:午前9時30分~11時30分

●場所:大里城址公園体験交流センター前集合

●参加費:自由(基本タダです)

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大城ある記

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定例会で南城市大里にある、大城集落をあるいた。

同地は以前、別の案件で調査したことがあり、マップも作っていたので、その時のデータも今回使わせてもらった。

大城集落はすぐ北側に迫る山の頂に、大城グスクを抱えた“城下町”のような所。

伝統芸能も盛んで、かなり以前(2004年)には豊年祭の時に訪ね、綱引きとエイサーを見学したこともあった。今回は、以前のおさらいのような気持ちで、いろいろ思い出しながら集落をあるき、最後にみんなでグスクまで登ってかつての栄華を思い描いてみた。

大城集落の始まりは古く、稲作普及のため玉城から移り住んだ人々が祖先だとされている。

グスクの築城は、尚巴志以前に地域を治めた玉城按司の長男、大城按司・真武とされ、島添大里グスクとの闘いに敗れた話はよく知られている。

それは、はじめ優勢だった戦が、軍旗を持った部下が誤って倒れた時、それを見ていた真武の妃と長男が自軍が負けたと勘違いし、城に火を放って自害したため、それを知った大城按司・真武も自らの命を絶ったというもの。その墓が、市役所近くの道路沿いに建つ、独特の形をした大城ボーントゥ墓である。

大城グスクと南側の裾野に広がる大城集落。
2020年6月撮影
2004年8月に行われた大城の豊年祭。集落センター(公民館)前はスタンドのような形状で、広場を見下ろせるようになっているため、そこで行われる綱引きやエイサーを観戦するには、最高の場所となる。
集落とグスクの中間ほどの場所にあるノロ殿内の近く。ノロが使ったカーや、村建ての家の一つとされる上里拝所、「上のヘーリンツ」などがある。たぶん、「ヘーリンツって何だ?」とお思いだろうが、「門番」のことらしい。大城グスクに通じる道を警護した場所だとされる(林の南側に「下のヘーリンツ」がある)
大通り(県道86号線)近くの イージガーにて。
たまたま一緒になった人とでも、ユンタク出来るのはやはり楽しいもの。知らない人とでも、一緒に歩けば日常を忘れて会話も弾む。まち歩きの魅力の一つであろう。

このあと、大城グスクにみんなで登る(車で)。来たことがないという人が多いことに少々驚かされる。やはりシマが違えば、知らないことも増えるということだろう。

昨晩がちょうど綱引きだったと公民館で聞くと、急に見たかったなあという気持ちにもなったが、欲をかいてもしょうがない。天気にも恵まれて、ほどほどの疲れとともに帰途についた。

<三嶋>

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南城市大里の西原地区をあるく

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南城市大里の西原(にしばる・にしばら)は、島添大里城跡の城下町(ムラ?)といえる場所。集落の南には、大里グスク以前のグスクとされるギリムイグスクがあることから、一帯は古い時代から人々が暮らしていたことが分かる。

また、周囲が崖に囲まれていて、隣ムラまでが遠いため、ガイドを頼んだ新垣一也さん(中城村教育委員会)が言うには、「陸の孤島」とか。他所との接触が少なかっため、古い時代の歴史が今に残り、家のつながりや信仰などの面でたいへん興味深いらしい。確かに、集落が小さいにもかかわらず、あちこちに拝所があり、今も大切にされているようだ。

いっぽう、集落のあちこちに沖縄戦の痕跡があることも驚きだった。一般にはあまり知られていないのではないだろうか。整備して受け入れの体制が整えば、平和学習などでも利用できるのではないだろうか。

集落から見た南側の風景。中央部の平地から丘陵地までの一帯は、戦後、米軍が「バックナー・ビル」と呼んでいた。写真では見えないが、右側に連なる丘陵地に大城グスクがあり、大里グスクと闘って敗れた話はよく知られている。
戦前に積まれた屋敷の塀に残る銃砲の跡。交戦の現場だったのだろうか、近くには日本兵の死体がいくつかあったとの住民証言もあるそうだ。
ギリムイグスクの中にある、鬼ムーチーの伝説に登場する鬼の住処を遥拝する拝所。ムーチーの話は首里の金城町が舞台と思われているが(ボクもそう思っていた)、実はこの下にある洞窟がほんとの舞台らしい。
ギリムイグスクの下に位置する旧日本軍の陣地跡。名前はない。石灰岩をくり抜いた造りで、ノミの跡が残る坑道に入り、二手に分かれた道の右側を抜けると、平良・仲程方面をのぞむ場所に出る。
集落内に残る見事な石積み。個人宅の塀で、戦前、移民でもうけた先祖が造ったという。写真に写る側面だけでも30mは超えて続いていると思う。そのスケールと美しさは圧倒的で、驚かされる。

西原は、事前に聞いていたように、拝所と戦跡が今も暮らしに溶け込み、日常の風景として存在する場所だった。祖先に対する敬いも、戦死者に対する供養も日常と一体化して息づき、安寧に満ちた静けさが集落を包んでいるように感じた。
<三嶋>

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「津覇あるき」を行いました

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毎月第2日曜の恒例、地域散策で今回は中城村津覇を歩いた。

今月発刊される、しまたて協会発行の情報誌『宿道(しゅくみち)』で取り上げるために取材しており、せっかくなら誌面だけでなくリアルに紹介しようと思ったためである。

津覇は海沿いの小さな農村だが、大通り(国道329号)から集落に入ると、やはりここでしか見られない風景や事物がある。それを探し、学ぶことが地域散策の大きな魅力。名所や旧跡がなくとも(結構あるんだけど)、どの地域にも地域特有の歴史と暮らしがあり、次世代に残す文化があると思う。

この日は、津覇小学校裏の駐車場を起点に、国道を超えて集落を歩き、海岸まで行って折り返すコース。想像以上に暑い陽射しで、少しバテ気味の人もいたが、全員無事に乗り切った。

碁盤目のような形に縦横のスージ道が入り組む、昔ながらの集落形態。
西側の小学校から東にあるき、集落を通って海岸を折り返すコース。
津覇小学校に残る、戦災を生き抜いたクバの木。弾痕が残っていた部分の幹が枯れたため、現在は1本の幹しか残っていないが、たくましい生命力に驚かされる。
戦前からの石積みと思われる屋敷囲い。今風のコンクリート屋ばかりとなった集落だが、わずかに戦前の痕跡も残されている。それにしても、道幅の狭い筋道が縦横に入り組む集落内は、ヘタすると迷いそうになる。
津覇の海岸。南側に知念半島が見える。リゾート気分が横溢したような風景だが、中城湾岸の多くはコンクリートで固められ、自然のままに残る砂浜はわずか。埋め立て工事の影響で、タコがたくさん獲れたという、きれいな海は消えてしまった。
津覇のテラ近くに残る旧日本軍のトーチカ。六角形の分厚いコンクリートの塊に、四角い窓が4カ所空いている。上陸する米軍を迎え撃つためのものと思われるが、詳細は不明とのこと。林の中にひっそりと残る戦跡に、足を止める人はいるのだろうか。

津覇の村は、戦前からあまり変わらない農村地帯。

1966年の沖縄タイムスには、中城村で1番の人口がありキビの生産高も1番とあった。海沿いに広がる平地いっぱいにキビ畑が広がり、住民はこぞって黒糖生産に追われていたのだろう。

厳しい暮らしに追われながらも、隣同士で助け合いながら、村中が家族のような日常が繰り広げられていたのではないだろうか。

眩しい太陽と、焼けた道路の熱気で汗にまみれたが、慌ただしい日常からしばし切り離されたひと時を味わい、有意義な「ある記」となった。

<三嶋>

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