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上大謝名・真栄原あるき

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


12月の定例あるきは、宜野湾市の上大謝名~真栄原。

那覇に居てはつい忘れがちな、普天間飛行場を間近に眺め、赤線地帯だった旧「真栄原新町」の現在を確認することが、おもな目的であった。

上大謝名(うえおおじゃな)は、もともと大謝名だったが、戦後、多くの人々が流入して人口が増加したことから、1979年に大謝名から独立した字。

大謝名は那覇とコザの中間にあって、牧港や普天間の基地に近いことから、1号線沿いに店舗が立ち並び発展してきた。

1950年代から外人住宅が増え、そのご軍用地の開放が進んだことで、一層にぎわうようになったが、普天間飛行場を離発着する米軍機が居座ったままの状況は、今もかわらず続いている。

上大謝名公民館そばの駐車場から、フェンス越しに見える普天間飛行場。民間地では戦後の混乱を忍ばせるように家々が不規則に建て込んでいるが、きれいに芝生が刈り込まれたこの中は別世界。
清明祭の際には、フェンス内に残る墓の関係者は、拝みをするため米軍側の許可を得て立ち入ることとなる。理不尽が厳然と存在することを、思い知らされる場所である。
2006年8月撮影
佐真下ゲートからフェンス沿いに入った場所から、駐機するオスプレイを眺める。
この日は日曜日のためか人気がなく、飛行する機体も見られない。
しかし、静かな日曜の朝の状態に騙されてはいけない。飛行場のすぐ南に位置する嘉数地区の事務所に居た頃は、真上を通過する米軍機の騒音に悩まされたものである。

ちなみに普天間飛行場は、沖縄戦が続いていた1945年6月に米軍が建設し、8月には2本の滑走路も完成している。

基地が出来たあと、その周りに住民が住み付いた、と本土の作家が書いて話題になったことがあるが、それはまったくのデタラメ。もともとそこには住民の土地や家があり、米軍がそれを強制的に奪って基地を造った歴史は変えようがない。

米兵相手の飲食・風俗店街としてつくられ、復帰後もにぎわった真栄原新町。
敗戦直後は民間地域で売春が行われることも多く、一般の婦女子を守るためにも必要とされて、人里はなれたこの地に設置された。コザの八重島に次ぐ、本島2番目のエリアだったという。
当初は外人相手の風俗営業街として区画整理され、戦争未亡人などが身を売るケースが多かったようだ。その後、客は住民に変化し、本土復帰してからは観光客へと変化した。

しかし、女性の人権保護や青少年の健全育成を目的に、2009年頃からは市民総ぐるみの環境浄化運動が盛んになり、2010年には伊波洋一宜野湾市長の方針もあって市民参加の浄化運動が展開された。

そのため、2009年に110軒あった店舗の9割が閉店するほど街は衰退し、その後は廃墟のような場所と化してしまった。

かつての建物は次第に消え、これから街は生まれ変わっていくのだろう。

売春をもちろん是認するわけではないが、人々のさまざまな思いや、ざわめきが詰まった街が姿を変え、戦後史のひとつが消えてしまうかと思うと、複雑な心境ではある。

10年以上前の街並み。環境浄化運動が盛んになり、昼間から客待ちの女性がいることもあった店舗の多くは、すでに活動休止状態であった。2011年11月撮影

エリアマップ

<三嶋>

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