小禄の戦後が消えていく
2014年6月5日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』に連載している「沖縄の戦後を歩く」シリーズ取材のため、前日、小禄の五月橋や新町周辺、高良周辺を歩きました。
案内は「うるく地域づくり連絡協議会」事務局長の赤嶺和雄さん。ご自分の体験を交えながら、現場で語られる赤嶺さんの話はたいへん参考になりましたが、撮り忘れた場所や確認したいこともあったため、一人で追加取材をした次第。
さて、小禄は全体像がつかみにくい、と以前この場に書きました。
米軍に土地を追われた住民が、あちこち転居を強いられたことで、古いコミュニティと新たな近隣との関係にズレが生じ、それが解消されないまま今にいたっていることが、その要因ではないかと考えたのです(よそ者の御託かもしれません。間違っていたらごめんなさい)。
しかし、原発事故で故郷を追われた福島の人たちを想起させられますし、他にも同じような地域があるだけに、これからも留意していきたいと考えています。

「第二ゲート」バス停。
北側(写真右)の「マンガ倉庫」右付近に、施政権返還前まであったそうです。米軍基地を連想させるものは、現在まったくありませんが、米軍に替って広大な土地を占有する自衛隊基地が、写真左(国道331号西側)にあり、普通に受け入れられているようです。自衛隊の駐留や隊員の受け入れを巡り、かつて猛烈な反対運動が繰り広げられましたが、今では完全に市民権を得ているということでしょう。

「新町入口」バス停。
実際の入口は写真左に見える交差点。第二ゲートの南に広がる新町は、米兵による婦女子への犯罪を防止することを目的に、1952(昭和27)年10月に誕生した歓楽街。しばらく落ち込んでいたものの、最近は米兵に替って自衛隊員でにぎわっているとか。

「高良」バス停。
写真中央の高良三差路を左折した「高良大通り」と、さらに続く「高良市場通り」が戦後小禄の原点。那覇基地(飛行場)の建設・拡張で、土地を接収された人々や、自分の家屋に帰れない人々がこの地に居住を強いられたからです。

「高良市場前」バス停。
高良大通りから東(写真左)に続く市場は、さまざまな店舗にモノがあふれ、大勢の人が行き交った場所でした。名前だけがバス停に残る現在、かつての面影はまったく見当たりません。
都市化が進むいっぽうの小禄ですが、歩いてみると、ちょっとしたスキマに、バス停のような戦後の残滓を見ることは可能です。(どうせ少数意見でしょうが)そんな発見が面白いんじゃないかと思うんですよね。
(三嶋)
小禄のボンヤリ感をさぐる
2014年5月21日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』69号の取材目的で、小禄に行きました。
小禄の戦後は高良界隈を出発点とし、その北西部に開かれた宇栄原や「新部落」に、その後は街が形成されていったようです。
しかし、今までこの地とあまり接点がなかった者にとって(ボクだけど)、「小禄」と聞くと範囲がぼやけ、具体的な街の姿が浮かばないのは何故でしょう?
地元の方には怒られそうですが、この何となくよく分からないボンヤリ感は、ひょっとして、この地の出自や戦後史に根ざすものではないか、という推理をもとに今回の取材を進めようと考えています(外れたらどうしよう)。
時間がある方、いっしょに回りませんか? ご連絡ください。

戦後の香り漂う「新町」は、各地に今も残っていますが、ここ宇栄原の新町は今も元気。聞くところによると、自衛隊員でにぎわっているようです。夜の突撃取材もやろうかな(酒が飲めないけど)。

こんな所をバスが…。大嶺・国際通り・石嶺を結ぶようですが、あ〜、ルートが頭に描けない。
狭い路地に突然、蒸気機関車が現われる、つげ義春の『ねじ式』を思い出すと書くと(書いたけど)、若い人には分からないですね。

小禄は米軍那覇基地の門前町でもありました。通りから奥に入った高台などには、“外人住宅”がまだ数多く残っていますが、ほとんどは今風に改造されていて、言われないと分からないぐらい。
ボクらの事務所もそうなので、既視感が漂うエリアです。
(三嶋)
前川から安里へ駆けつけました
2014年5月16日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
昨年から続いている(ていうか中断していた)地域マップ作成が、ようやく再開できたので、前川(南城市玉城)で追加撮影。
3時からはFMレキオの放送なので、時間を気にしながらも、あちこち撮影&確認してきました。
原稿の作成段階で、細部がどうなっていたのか思い出せなかったり、きちんと見ていなかったりすることに気付くことも多く(今さらですが)、泣きながら(ウソですが)トボトボと集落を歩いて来ました。

完成したばかりのアパートから俯瞰した中道周辺の風景。
写真左上に、“お宮”と呼ばれる集落で一番の聖地があり、ここを頂点に集落は南向きの斜面に広がっています。スージ道で碁盤目状に区切られた集落の形は、沖縄の伝統的なありようです。
また、立派な石を積み上げた屋敷囲いが、数多く残っているのもこの集落の特徴ですね。大きく重い石をここまで運び(港川から?)、コツコツと加工し、積み上げた先人の労苦は察するに余りあります。
これを見ると、「昔の人は偉い!」と誰もが素朴に感じるはずですので、是非見に行って欲しいものです(なので、ここでは写真は出しません)。

こんなトボケた味のシーサーも、村の大事は守り神。どこにあるか、捜してみるのも楽しいのでは?

月に一度の「沖縄ある記アワー」は、午後3時から4時まで放送。新都心のFMレキオに、前川からあわてて駆けつけました。
今回はゲストに真栄里泰山氏(写真中央)を招き、以前案内していただいた那覇市安里について、國吉宏昭さんと三人でユンタク。
いつものようにあまりうまく喋れないので、いつものように自信をなくしましたが、終了後にユンタクするうちに、いつものように復活。へこたれたらいかんぜよ!
●FMレキオ「沖縄ある記アワー」

安里と那覇新都心とを結ぶ新しい道路から見た、大通り(又吉道路)との交差点(写真中央付近)。
モノレールの向こうには、1960年代ごろまで田んぼが広がっていたようですが、現在の姿からは想像もつきません。
北(写真手前)に向かって歩くと、県立博物館・美術館につながるこの通りを、真栄里泰山氏は「安里坂」と命名しています。旧市街と新都心が直結する数少ない道路ですが、機能性だけではなく、彫刻などを置いて博物館・美術館へのアプローチ道と位置づけたら、市民にもっと親しまれる通りになると真栄里氏は語っていました。
意義ナシです。
(三嶋)
安里を歩く
2014年4月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
「しまたてぃプラス」に連載中の「戦後を歩く」で、安里編を取り上げアップしました。冊子の方はすでに発行されていますが、Web版もあまり遅れず更新できたので、ホッとしています。
今回の安里編では、那覇の地理・歴史に造詣の深い真栄里泰山さんに、(地元ということもあって)案内をしていただき、ディープな話をあれこれ聞くことができました。リアルな歩きは充実していたのですが、こちらの筆(PC)がそれを、どこまで伝えることができたのか・・・まずは見ていただいて評価のほどを。

しまたてぃPlus http://okiaruki.com/simatate/index.htm
津堅島でチキンカツを食べる
2014年4月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
タウチナー口で“チキン”と呼ばれる、津堅島に行ってきた報告です(チキンカツもうまかったです)。
参加者が20名以上(子ども2名)あったので多少驚きましたが、ウチナーンチュにも結構新鮮だったかも。
いつでも行けるサ〜、と未経験者のあなた、今がお出かけには最高の季節ですよ(汗をかいて歩きましょう)。
それにしても、平敷屋で出会った人はみんな親切。コワイ顔のおじさんも話せば愉快で、笑顔も印象的でした。また、次回おじゃましましょうね。

津堅島には平敷屋の港から3、40分で到着。港の近くには、イイアンベーの陽を浴びて、デイゴがこれから花を咲かせようかというところ。害虫の蔓延で最近はあまり見ませんが、真紅の花が咲き誇るデイゴは、沖縄の夏に不可欠ですね。

津堅は言わずと知れたニンジンの島。今が最盛期ということで、大量のニンジンをあちこちで見ました。値段も驚くほど安いんですが量が多すぎて・・・ニンジン料理が何日も続くかと考えて、出した手を引っ込めました。

ニンジン畑で作業中の姿を撮影させてもらいました。鉄パイプを曲げて作った、細身のヘラが使われているのに興味を持ちましたが、邪魔してはいけないと思って次の宿題としました。
ここではかつて大根が名産で、“チキンデークニ(津堅大根)”は味がいいと評判だったようです。今ではつくられていないようなので、復活を期待したいところですが、素人が考えるほど簡単ではないんでしょうね。

集落の中で見つけた弾痕(と思われる)。津堅島は、1941(昭和16)年夏から中城要塞の重砲陣地となり、県下でもっとも早く軍事化された島でした。そのため多くの島民が軍に駆り出され(志願し)、激戦に身を投じることになったようです。
のどかなこの島で、69年前の闘いを想像することは難しいのですが、記憶を顕在化して次世代に架橋する努力を、狭間に生きるわれわれが成さなければならないと考えます。右傾化が著しい昨今、歴史を学び伝える不断の作業がいっそう必要だと思います。
(三嶋)
