安里を歩く
2014年4月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
「しまたてぃプラス」に連載中の「戦後を歩く」で、安里編を取り上げアップしました。冊子の方はすでに発行されていますが、Web版もあまり遅れず更新できたので、ホッとしています。
今回の安里編では、那覇の地理・歴史に造詣の深い真栄里泰山さんに、(地元ということもあって)案内をしていただき、ディープな話をあれこれ聞くことができました。リアルな歩きは充実していたのですが、こちらの筆(PC)がそれを、どこまで伝えることができたのか・・・まずは見ていただいて評価のほどを。
しまたてぃPlus http://okiaruki.com/simatate/index.htm

津堅島でチキンカツを食べる
2014年4月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
タウチナー口で“チキン”と呼ばれる、津堅島に行ってきた報告です(チキンカツもうまかったです)。
参加者が20名以上(子ども2名)あったので多少驚きましたが、ウチナーンチュにも結構新鮮だったかも。
いつでも行けるサ〜、と未経験者のあなた、今がお出かけには最高の季節ですよ(汗をかいて歩きましょう)。
それにしても、平敷屋で出会った人はみんな親切。コワイ顔のおじさんも話せば愉快で、笑顔も印象的でした。また、次回おじゃましましょうね。
津堅島には平敷屋の港から3、40分で到着。港の近くには、イイアンベーの陽を浴びて、デイゴがこれから花を咲かせようかというところ。害虫の蔓延で最近はあまり見ませんが、真紅の花が咲き誇るデイゴは、沖縄の夏に不可欠ですね。
津堅は言わずと知れたニンジンの島。今が最盛期ということで、大量のニンジンをあちこちで見ました。値段も驚くほど安いんですが量が多すぎて・・・ニンジン料理が何日も続くかと考えて、出した手を引っ込めました。
ニンジン畑で作業中の姿を撮影させてもらいました。鉄パイプを曲げて作った、細身のヘラが使われているのに興味を持ちましたが、邪魔してはいけないと思って次の宿題としました。
ここではかつて大根が名産で、“チキンデークニ(津堅大根)”は味がいいと評判だったようです。今ではつくられていないようなので、復活を期待したいところですが、素人が考えるほど簡単ではないんでしょうね。
集落の中で見つけた弾痕(と思われる)。津堅島は、1941(昭和16)年夏から中城要塞の重砲陣地となり、県下でもっとも早く軍事化された島でした。そのため多くの島民が軍に駆り出され(志願し)、激戦に身を投じることになったようです。
のどかなこの島で、69年前の闘いを想像することは難しいのですが、記憶を顕在化して次世代に架橋する努力を、狭間に生きるわれわれが成さなければならないと考えます。右傾化が著しい昨今、歴史を学び伝える不断の作業がいっそう必要だと思います。
(三嶋)

那覇市安里をめぐる
2014年3月22日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
次号の『しまたてぃ』68号の取材をかね、那覇市の安里周辺を歩いてきました。
年度末のバタバタで原稿が遅れ、かなり焦っていますが、久しぶりに良い天気になったし、気分転換もかねてあちこち遠征した格好です。
大道小学校そばの直線道路。ここは、陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊の射撃訓練場があった場所です。
分遣隊がここに練兵場と射的場を置いたのは、1890(明治23)年から6年間。現在の大道小学校から松川小学校にいたる、距離約650m・幅約30mの直線で、射撃訓練を行ったと松川公園内の石碑に解説があります。
今も「練兵橋」と呼ばれる橋(写真)や、東西を貫く直線道路の姿は、市街地に少なくなった戦前の姿を残す場所のひとつでしょう。
ちなみに、このあたり(大道地区)までがかつての安里村域で、分離したのは1920(大正9)年のことでした。
モノレール安里駅から真和志支所方面へ続く道にあって、安里川に架かる安里橋。栄町を含んでこの川までが安里となります。
すぐ下流には姫百合橋があり、上流には蛍橋があります。この辺では、戦後も泳いだり魚を捕ったりしたと聞いたことがあるので、かつてはホタルも乱舞する清流だったのでしょう。
ところで、安里橋はもともと崇元寺の近くに架かっていて、崇元寺橋とも呼ばれていました。1677年に掛け替えられた時には、全長70m以上あったといいますから、たいへん立派な石橋だったと想像されます。
しかし、沖縄戦で破壊され、戦後になると崇元寺橋として再建されました。で、安里橋はというと、直線で800m以上上流にあるこの地で再建されることになったのです。
現在の安里2丁目と牧志3丁目の境に架かる「ゆたかばし」。姫百合橋を越えて直角に流れを変える、安里川の下流に位置します。
竣工は1961年4月、と味のある手書き文字で刻まれていますから、昭和36年、東京オリンピックの3年前ですね。
橋の下流(写真奥)には、2011(平成23)年にオープンした蔡温スクエアがあり、周辺がモダンな街に生まれ変わるのに合わせて、河川工事もずっと続けられています。
この橋もあとわずかの寿命でしょう。今のうちですよ〜。
(三嶋)

底仁屋の展示展
2014年3月18日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
名護市の底仁屋(そこにや)地区で開催中の、アルバム展(写真展)に行ってきました。
昨年から取り組んでいる「やんばる山学校」プロジェクトの一環で、地域の文化祭に相乗りして展開したものです。
2月には集落歩きが雨天中止になり残念でしたが、昨年から交流を重ねて集めた写真や、手づくり地図なども公開して、展示会はまずまずだったのではないでしょうか(3月末まであるけど)。
何より、プロジェクトを通して地域の方を知ったのは大きいですね。今後もいろんな交流が出来そうで、楽しみです。
(三嶋)

中央パークアベニュー
2014年3月12日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』67号で取材した中央パークアベニューの、Web版制作のために追加撮影をしてきました。
沖縄市は、1974(昭和49)年4月にコザ市と美里村が合併して誕生した地域ですが、40年たった今も、“コザ”という名前に愛着をもつ人は多いはず(たぶんだけど)。それだけ、コザ時代が強烈な印象を残したといえるのでしょう。
否応なく基地の門前町として生きてきたこの街の戦後は、日米琉の綱引きに、たえず揺すぶられてきた沖縄そのものです。
憎しみと憧れを同居させたまま向き合ったアメリカと、救いを求めた「母国」日本の沖縄への眼差しは、本土復帰を経た今も変わっていないようで、“手のかかる継子”以外の何者でもないのでしょう。
破産した「コリンザ」から東に続く中央パークアベニュー。それまでセンター通りと呼ばれた道路が、大幅な改修・改称を実施したのは1985(昭和60)年4月。基地経済からの脱却を企図し、歩行者優先のオシャレな通りへと生まれ変わったのですが、遠のく客足を引き止めることは今も厳しいそうです。
“ビジネスセンター”に由来する、センター通りの建設が始まったのは1950(昭和25)年6月。原野だった場所はあっという間に商店街となり、大勢の米兵がかっ歩する歓楽街へと変貌しました。
現在の沖縄市は多国籍の人々が暮らす街。さまざまな人種や世代が、多彩で自由な空気を満喫しながら、独自の文化を形成しています。
ドル時代のように儲からなくても、それでイイんじゃないの、と思わず声をかけたくなったのでした。
(三嶋)
