「政府前通り」追記
2015年4月20日 Category: 沖縄ある記, Myある記 Comment : 0
「沖縄の戦後を歩くー政府前通り」を掲載した、『しまたてぃ』(72号)が発行されました。
今回は、久茂地・泉崎の戦前から戦後の姿を書きましたが、沖縄の中心といえる場所だけに、欠かせない史実やエピソードが多く、取捨選択に悩まされました。
社会背景なども、もう少し織り込みたかったのですが、ネタを突き合せるだけでクラクラしてしまい、「アメリカ世」の複雑さを思い知らされました(勉強不足が露呈しただけという噂もあり)。
割愛せざるを得なかった資料の中では、県庁前のクバの木の話が気になった(覚えている人も多いし)ので、ここで紹介します。
このクバの木は、十・十空襲や沖縄戦を生き延びた3本で、初代琉球政府主席の比嘉秀平が、「絶対に枯らしてはいけない。もし枯れるようことになれば、1本につき職員1人をクビにするぞ」と話していたそうです(沖縄タイムス1986.1.29)。
しかし、3本のうち1本が枯れたあと、残りの2本は、現在の庁舎が建設される際に一時的に移植。記事では、3年後の新庁舎完成時には元の場所に戻されるとありますが、その後どうなったのかはよく分かりません。
ボクが見逃しているのかもしれませんが、その後が気になりますよね。
「ホントに戻したのかな〜」と、実は疑ってるんだけど(笑)。
1954(昭和29)年ごろの県庁前広場。
中央右に見えるのが、戦禍を生き延びた3本のクバの木。撮影・大嶺昇氏。
1986年1月29日付沖縄タイムス(県庁舎 あの時あの頃<7>)
(三嶋)

スクガーの今後
2015年4月5日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
字知念の「木創舎」に有志が集まり、城間さんを中心にスクガーの今後について話し合いました。
当日の午前中の霧。いつもは見える沖縄電力の風車も見えません。
写真中央を左右に走る道が、佐敷手登根から山越えで知念に至る唯一の道。
同じルートではありませんが、山越えの道は王府時代から戦後まで複数あったようで、これまでも何回か書きましたが、かつての道を蘇らせて先人の暮らしを学ぶ、体験学習などに利用できないかと考えています。
テッポウユリと、高校生時分(1960年代)までスクガーに住んでいたという照喜名さん。
現在は、時間がある時には屋敷跡に通い、畑を耕す日々を送っている照喜名さん、咲き始めたテッポウユリを見つけ嬉しそう。
(三嶋)

手登根の拝所と小谷の報告会
2015年3月23日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
小谷で開かれる報告会に招かれたので出かけてきました。
時間が多少あったので、手登根や字佐敷などを回り、以前、案内してもらった御嶽も確認してきました。
写真は、詳しいことはよく分かりませんが、地域で一番古い御嶽とのこと。
以前、地元の神事を任されているという大城チヨ子さんに案内してもらった時、「土地は神様から預かっているもので、人間のものではない」、「われわれは神様の土地を借りて住まわせてもらっているのだから、神様への御参りを欠かしてはいけない」と話されていた言葉が蘇りました。
小谷公民館で開かれた報告会&慰労会。
一昨年から始まった南城市商工会の事業をきっかけに、小谷は見違えるように活性化しつつあります。
何よりすばらしいのは、地元のお年寄りたちが積極的に参加し、地域散策のガイドなどを買って出たこと。バーキ作りで知られ、「竹の里」として名を馳せたかつての思い出やプライドが蘇ったようで、訪れるたびに村がキレイに、明るくなっています。
持続的な展開がこれからの課題でしょうが、こちらも出来る限りフォローしたいと思った一夜でした。
(三嶋)

県庁前通りの移り変わり
2015年2月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材が続いています。
今回は、戦後世代の話を聞こうと、わが沖縄ある記の玉那覇善秀さんと、その高校時代の同級生(久高さん・真栄田さん)に同行いただき、ハーバービュー通りまで歩きました。
現在、県庁が建っている場所には、アメリカ世の時代、行政府ビルがありました。
1953(昭和28)年4月、米国民政府が「琉球住民に献呈する」として建設したもので、1・2階を琉球政府、3・4階を米国民政府が使っていました。屋上には星条旗が翻っていたそうです(いかにも“占領”ですね)。
沖縄初のエレベーターもあって話題となり、近所の小学生たちは乗りに来たそうです。
ハーバービュー通りから見た県庁前通り。
現在の県庁前通りは政府前通りとよばれ、中央分離帯がある広い道路でしたが、当初は行政府ビル(現在の県庁)の前までしかなかったそうです。
アメリカのお偉いさんを乗せたでっかいアメ車も、ここでUターンするしかなかったとの話ですが、1954(昭和29)年6月に立法院ができたころ、ハーバービュー通りまで道が延びたのではないかという話でした。
県庁前通りから北に路地を入ると、かつての雰囲気が漂う変形の十字路があります。その角を左折すると“病院通り”、右の角には「松尾市場」があったそうです。
周辺には、琉球政府に出張で来る人が定宿にした旅館もあり、その奥は “ハーバービュー”とよばれた売春地帯でした。
“ハーバービュー”は西の行政区域と、東にある那覇高校との間にはさまれた空間で、近くの米軍基地の兵隊を相手にした飲食店が並び、戦争未亡人などが相手をする歓楽街でした。
現在の街並みから、隠微で危険な香りを漂わせていた当時の歓楽街の姿は想像できませんが、戦後史の断面として記録しておくことは重要でしょう。名もない庶民の姿は、表の歴史から抜け落ちるものですが、どんな人でも生きていた証は残したいものではないでしょうか。そして、そんな人たちの積み重ねで「今」があることを、忘れてはならないような気がします。
戦後の一時期、“ハーバービュー”とよばれた歓楽街の周辺は、沖縄戦の際に激戦が繰り広げられた場所でもあります。当時の弾痕も確認される戦前のレンガ塀は、戦後の混乱期を乗り越え、今にいたるまでこの路地裏にあって、何を見つめてきたのでしょうか。
(三嶋)

戦火に消えた小学校
2015年2月23日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材で、県庁前から久茂地交差点まで歩いてきました。
案内は知り合いの増村さんと、渡名喜さんという同級生コンビと、先月も名護に同行していただいた大嶺昇さん。
大嶺さんと渡名喜さんは、現在バスセンターの敷地となっているあたりでともに生まれ、ご近所付き合いがあった一つ違いの先輩と後輩。二人とも、近くにあった甲辰小学校に通っていたので、学校跡地に建つ石碑も訪ねました。
左から増村さん、大嶺さん、渡名喜さん。
甲辰小学校は久茂地川のすぐそば、現在のパレット久茂地あたりからその西側にかけてあったのですが、1944(昭和19)年の十・十空襲で焼失し、その後、再建されることはありませんでした。
大嶺さんと渡名喜さんはその少し前(対馬丸が沈められた8月22日あと)、潜水母艦迅鯨で鹿児島に到着し、宮崎で疎開生活を送っています。
また、天妃小学校に通っていた増村さんは、十・十空襲のあと家族とともに疎開船で鹿児島にたどり着き、大分で疎開生活を送ったそうです。
久茂地川にかかる甲辰橋は、1959(昭和34)年11月竣工。「甲辰」の名は、この橋にしか残されていないようです。
日露戦争開戦の年に設置され、十・十空襲で消滅した甲辰小学校は、軍国主義教育とともにあった学校といえます。戦後再建されなかったのも、そんなことが影響したのでしょうか。
無論、それは80歳を超えた当時の子どもたちには関係のない話で、跡形もなく戦火に消えた学校は、彼らの脳裏に今も生きているといえるでしょう。
※参考:「甲辰橋と甲辰小学校」2013年3月27日
(三嶋)
