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綱引きpart2

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与那原の大綱曳をあとにして、帰宅途中のコンビニで一休みしていると、チンチキ、チンチキと鉦の音が聞こえます。
ン? とあたりを見回すと、どうやら道向いで何かやっている様子。
近づいて行くと、字宮城の集落で、どうやら綱引きが始まるようです。
そういえば、今日はあちこちで綱引き行われるはず。与那原に気がとられ、ここは気がつきませんでした。

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近づいて行くと広場に人が集まっています。準備されている綱も見えます。
あわてて区長さんを探すとすぐに見つかったので、取材許可をもらって撮影しました。
この宮城部落は数年前に来たことがあったものの、詳しく知らないところ(なのに勝手なことを書くのは少々気が引けますが)。

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雌綱と雄綱を合わせるシーン。なかなかうまくいかなかったので、カヌチ棒を入れた時には、すでに疲れていたのでは?
が、プログラム通りにいかないところも魅力だし、見物人や引き手ものんびりと待つのが風儀というもの。慌てるなということですね。

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綱引き開始。多くの住民が集まり、必死で引き合います。真ん中で紅白の旗を持つのが宮城区長さん。

ここでは、綱引きが出来るほどの住民がいて、集落の結束もまだ維持されているようです。
が、旗頭を担ぐ若者たちはさほど多くないようで、都市化が進むなか、これらの行事がいつまで続けられるか分からないのではないでしょうか。

地域の若者にとって、いつの世もムラ社会は窮屈でしょう。しかし、それが地域のセーフティーネットとして機能していたことには、孤独死などが話題になるまで、あまり気付かなかったような気がします。
田舎から都市を目指し、個として生きる選択をした団塊世代が、今になって相互扶助的なかつての村社会を見直しているような気がします。虫のいい話のようにも思えますが、時代はくり返すのでしょうか。
だけど、最近は、最初から田舎を出ない(出られない)若者も増えているようで、それはそれで問題でしょう。いつの世も、「青年は荒野をめざす」存在であって欲しいですね。
<三嶋>

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綱引きpart1

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与那原の大綱曳に行ってきました。
これまで、あちこちで綱引きを見てきましたが、ここは初めて。「県内三大綱引き」のひとつというぐらい超有名ですが、天の邪鬼としては、あえて避けてきた感じですえ。

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港区コミュニティーセンターの裏に残る、戦前の護岸。
『しまたてぃ』の取材時に教えてもらったもので、当時の護岸はこの部分しか残っていないとのこと。
かつては山原船で栄えた与那原の遺産ですから、大切にして欲しいところですが、ほとんどの人が気付いてないみたいです。

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えびす通り交差点で、交通止めにして行われたガーエー。
子どもから高齢者まで、地域総出で取り組むようすには感動を覚えます。特に魅力的だったのは、旗頭を持つ青年たち以上に、はつらつと踊る若い女性の姿。ほとばしるエネルギーに、元気をもらった気がしました。

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支度を乗せ、見物人の間近を通って綱引き会場の広場まで移動します。高まる緊張感が間近に伝わります。
綱引きの勝負は、このあと広場で二回行われたのですが、われ先にと前に出てくるカメラやケータイにウンザリし、白けて(今は使わないか)しまいました。
地元の方々の綱引きにかける熱い思いは、多少は分かっているつもりでしたが、これだけの大きさの行事になると、イベント化するのもしょうがないところでしょうか。
ここで伝統の継承とか言うと嫌な顔をされそうですが、すべてを観光に収斂させるような流れには注意が必要な気がします。

ちなみに、一般社団法人しまたて協会が持つ、1960年代と思われる与那原の綱引きの写真がありますので、ここで紹介。
002978
当時も場所は現在とほぼ同じ、埋め立て前の砂浜です。
ここは戦前まで、海水浴場として知られていた場所ですが、残念ながら、この頃から生活排水などの汚れがひどくなったようで、海が身近な存在ではなくなったんでしょうね。
それにしても、この人々の真剣な姿はどうでしょう。
派手さはなくとも、綱を引く人、見物客、みんなが一体となって盛り上がり、殺気立った興奮が伝わってくるようです。
<三嶋>

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与那原が面白くて

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このところ与那原にどっぷり浸かり、抜けられない状態。
調べれば調べるほどネタが増えて、キリがないんですよね。嬉しいんですが、『しまたてぃ』紙面には納まりそうにないので、もったいないけど割愛するしかないでしょうね。

これまでは、そんな紹介しきれなかった話や写真を、ネットでカバーしていたんですが、サイトがクローズしちゃいました。残念ですが。
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写真は国道331号から東浜につながって、以前より広くなった「えびす通り」。
この辺から、西側に並行して走る「親川通り」あたりが、与那原の中心街。戦後、いちはやく復興し、周辺の人たちの暮らしを支えてきた地域ですが、東浜ができた今は過去形になった感じが否めません。
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歩いていると、最近はついついセメン瓦に目が行きます。
与那原のセメン瓦は、現在の長嶺木材店の南側で、諸見里という方が作り始めと聞いていましたが、写真の瓦もそのひとつではないでしょうか。鬼瓦のMは諸見里のMだと思います。

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「親川通り」入口。戦後いち早くマーケットが復活した場所です。
この通りには南部一円の人たちが集まり、物々交換を路上で盛んに行ったそうです。右角の二階屋は昭和25年完成。鬼瓦には、二羽の可愛いハトが刻まれているので、行かれた方は捜してみてください。

沖縄戦で焼け野原となった与那原は、それまでの通りや屋敷を無視して米軍が土地を敷きならし、物資集積場としたため、土地の境界線を巡る争いが長く続いていました。
そのことが、地域のコミュニティー形成に影を落としたことは想像に難くありませんが、国境問題から宅地まで、何と人々は土地に縛られているのかと思わずにはいられません。
佐敷で出会ったおばあさんが、「土地は神様から借りているもの」と話していたことを思い出しました。
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写真は2008(平成20)年、運玉森から見た与那原の埋立地(現東浜)。
与那原の街は戦後、山原船が途絶えるとかつての輝きを失い、那覇のベッドタウンとして位置づけられるようになっていきました(ボクが学生の頃、与那原テックというレジャー施設がオープンしたこともありましたが…)。

狭小な町域(確か沖縄島の市町村で最小)が、発展の阻害要因といわれてきたのですが、埋め立て地の出現が呼び水となり、町全体に活気が戻ってきたようです。町の未来も明るいと思われます。

そのことに、ボクは水を差すつもりはないのですが、山原船やケービン鉄道が行き来した頃の、与那原の姿も忘れないでいて欲しいと考えます。それは、海と陸を利用した中継貿易で、独自の道を切り開いてきた先人の知恵や勇気が、この町一番の財産だと思うからなのです。
<三嶋>

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与那原ある記パート2

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『しまたてぃ』の取材報告。今回は与那原を取り上げます。

与那原は東部の湾岸埋め立てが進み、街のにぎわいも移動した感がありますが、私見では、那覇新都心的な街は「もういいんじゃないの」というのが本音。関係者には悪いけど。
全国どこでも同じような、キレイだけど面白味がない、ツルンとした顔の街が広がっていますよね。その方がいろんな意味で効率がいいし、差し障りがないのかもしれませんが、町の個性というか、「らしさ」がないのが、いただけないと感じてしまいます。
なので、歴史のある街のリニューアルはもちろん、これからの街でも是非、固有性を意識した地域づくりをしていただきたいと願う次第なのです(ストック・フレーズですね)。
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今回、街を案内していただいたお一人は、かつての与那原町長・粟国さん。
肩書きに少々ビビリましたが、気さくな人柄に安心し、面白い話をたくさん聞くことが出来ました。ありがとうございました。

なかでも驚いたのは、与那原から首里高校に毎日歩いて通ったという話です。
ボクも大学時代、1回だけ同じコースを往復し、ヘトヘトになったことがあったので、「毎日ですか?」と聞き返したのです。すると、「片道30分ぐらいだから、たいしたことないよ」との返事。う〜ん、さすがに昔の人は(失礼)強い、と感じ入った次第。恐れ入ります。

が、履物には困ったそうで、普段は裸足で歩き、首里に近づいて履くんだけども、ゲタはすぐダメになるので、米軍の戦闘靴を半分に切ったものを履いたそうです。
また、軍作業時代には、Tシャツを10枚も上着の下に着て、汗だくで「戦果」を挙げたこともあったそうで、そのたくましさには、やっぱり、かなわないなあと思った次第。
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かつての与那原海岸にかかる東浜橋。“旧市街”のえびす通りと、今が旬の東浜地区をつなぐ幹線道。
イラストにある山原船は、与那原〜本島北部をむすんだ東海岸交易ルートのスターです。
現在の与那原海岸は運河のようになってしまいましたが、戦前まではこの場所にいく隻もの山原船が寄港し、おおいににぎわっていました。

那覇や南部一円の物流を支えた港町・与那原は、山原船や県営鉄道、荷馬車・客馬車、バスなどが行き交い、今と比較にならないほど華やかなマチだった、と戦前を知るお年寄りの誰もが、誇らしげに語っていました。
<三嶋>

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