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“小禄ある記”が完成です

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『しまたてぃ』69号が刷り上がりました。
今回の「戦後を歩く」シリーズでは、小禄を取り上げましたが、今回はかなりドタバタだった(いつもですが)ので、ちょっと心配。
しかし、ミスなどの指摘は、知らなかったことを教えてもらうチャンスなので、かえって有り難いもの。スルーされるよりはるかにイイことだと歓迎します。
とにかく読んでもらいたい、意見をいただければと思います。

(三嶋)

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小禄の追加取材

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『しまたてぃ』の追加撮影で、宇栄原・高良に行ってきました。
強烈な西日を浴びて倒れそうでしたが、何とか必死で持ちこたえた、生還した次第(んなオーバーな)。


「強烈な西日」を演出してみました。が、実際たいへんな暑さではありました。
バス停の名称として残る「高良市場」は、大勢の人があふれたと今も語られる、小禄の戦後復活を印象づける場所だったようですが、現在その痕跡は、このバス停以外ほとんど見当たりません。


小禄新町からは、緑の芝生が鮮やかな自衛隊那覇基地が、建物越しに見えます(写真中央上)。
かつての米軍は自衛隊となり、この飲食街にも貢献しているようです。
あれほど反対運動があった隊員の受け入れも、戦後史の1ページとなったのでしょうか。時代が逆回転しているような昨今の浮世を見ていると、さもありなん。ため息が漏れます。


新町通りで一番にぎやかな三差路の角に、スペシャルボックスを発見。
宵の口、近所のオヤジ連中が集まっては、グダグダとビールでも飲んでいるんでしょうか(見てないけど)。
いいなあ〜。
(三嶋)

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小禄の戦後が消えていく

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『しまたてぃ』に連載している「沖縄の戦後を歩く」シリーズ取材のため、前日、小禄の五月橋や新町周辺、高良周辺を歩きました。
案内は「うるく地域づくり連絡協議会」事務局長の赤嶺和雄さん。ご自分の体験を交えながら、現場で語られる赤嶺さんの話はたいへん参考になりましたが、撮り忘れた場所や確認したいこともあったため、一人で追加取材をした次第。

さて、小禄は全体像がつかみにくい、と以前この場に書きました。
米軍に土地を追われた住民が、あちこち転居を強いられたことで、古いコミュニティと新たな近隣との関係にズレが生じ、それが解消されないまま今にいたっていることが、その要因ではないかと考えたのです(よそ者の御託かもしれません。間違っていたらごめんなさい)。
しかし、原発事故で故郷を追われた福島の人たちを想起させられますし、他にも同じような地域があるだけに、これからも留意していきたいと考えています。


「第二ゲート」バス停。
北側(写真右)の「マンガ倉庫」右付近に、施政権返還前まであったそうです。米軍基地を連想させるものは、現在まったくありませんが、米軍に替って広大な土地を占有する自衛隊基地が、写真左(国道331号西側)にあり、普通に受け入れられているようです。自衛隊の駐留や隊員の受け入れを巡り、かつて猛烈な反対運動が繰り広げられましたが、今では完全に市民権を得ているということでしょう。


「新町入口」バス停。
実際の入口は写真左に見える交差点。第二ゲートの南に広がる新町は、米兵による婦女子への犯罪を防止することを目的に、1952(昭和27)年10月に誕生した歓楽街。しばらく落ち込んでいたものの、最近は米兵に替って自衛隊員でにぎわっているとか。


「高良」バス停。
写真中央の高良三差路を左折した「高良大通り」と、さらに続く「高良市場通り」が戦後小禄の原点。那覇基地(飛行場)の建設・拡張で、土地を接収された人々や、自分の家屋に帰れない人々がこの地に居住を強いられたからです。

「高良市場前」バス停。
高良大通りから東(写真左)に続く市場は、さまざまな店舗にモノがあふれ、大勢の人が行き交った場所でした。名前だけがバス停に残る現在、かつての面影はまったく見当たりません。

都市化が進むいっぽうの小禄ですが、歩いてみると、ちょっとしたスキマに、バス停のような戦後の残滓を見ることは可能です。(どうせ少数意見でしょうが)そんな発見が面白いんじゃないかと思うんですよね。
(三嶋)

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なつかしの団地生活

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モノレール古島駅のすぐ近くにある古島団地を、久しぶりに訪ねました。
十数年前、自分たち家族が住んでいた所です。2LDKに子ども2人という家族構成。子供たちは団地内の保育園でお世話になり、近くの小学校、中学校に通い、お陰で元気に大きくなりました。
仕事に追われてバタバタと走り回り(今もだけど)、狭い空間で川の字に寝る毎日でしたが、子供たちが成長した今、あの頃が妙に懐かしく思い出されます。自分たち夫婦もまだ若かったし、子どもたちの成長を見守ることが、日々の活力になっていたんでしょうね。
また、近隣との付き合いが、当初は疎ましかったのですが、同じ環境に居ることの安心感や連帯感が生まれ、仲間意識が芽生えてきたのには自分でも驚きました。家族がいることで、ムラ社会の必然性のようなものを素直に受け入れられたのかもしれません。
とまれ、かつての時代にタイムスリップしたような、不思議なひと時を過ごしたのでした。


ほとんどの住人が転居した団地内。かつての我が家の前。


ガジュマルの大木が繁る団地内の広場。夏休みには、子供たちのラジオ体操に付き合いました。


今も営業中の文具店。店内は以前より寂しくなっていますが、10数年ぶりの再会に嬉しくなりました。
古島団地が、建て替え問題でゴタゴタしている様子は、新聞で目にしていました(ようやく和解が成立したとか)が、気になるのは一人暮らしの高齢者の処遇。行き場のない老人を見捨てるようなことのないよう、関係者には配慮して欲しいものです。
(三嶋)

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小禄のボンヤリ感をさぐる

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『しまたてぃ』69号の取材目的で、小禄に行きました。
小禄の戦後は高良界隈を出発点とし、その北西部に開かれた宇栄原や「新部落」に、その後は街が形成されていったようです。
しかし、今までこの地とあまり接点がなかった者にとって(ボクだけど)、「小禄」と聞くと範囲がぼやけ、具体的な街の姿が浮かばないのは何故でしょう?
地元の方には怒られそうですが、この何となくよく分からないボンヤリ感は、ひょっとして、この地の出自や戦後史に根ざすものではないか、という推理をもとに今回の取材を進めようと考えています(外れたらどうしよう)。
時間がある方、いっしょに回りませんか? ご連絡ください。


戦後の香り漂う「新町」は、各地に今も残っていますが、ここ宇栄原の新町は今も元気。聞くところによると、自衛隊員でにぎわっているようです。夜の突撃取材もやろうかな(酒が飲めないけど)。


こんな所をバスが…。大嶺・国際通り・石嶺を結ぶようですが、あ〜、ルートが頭に描けない。
狭い路地に突然、蒸気機関車が現われる、つげ義春の『ねじ式』を思い出すと書くと(書いたけど)、若い人には分からないですね。


小禄は米軍那覇基地の門前町でもありました。通りから奥に入った高台などには、“外人住宅”がまだ数多く残っていますが、ほとんどは今風に改造されていて、言われないと分からないぐらい。
ボクらの事務所もそうなので、既視感が漂うエリアです。
(三嶋)

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