前川から安里へ駆けつけました
2014年5月16日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
昨年から続いている(ていうか中断していた)地域マップ作成が、ようやく再開できたので、前川(南城市玉城)で追加撮影。
3時からはFMレキオの放送なので、時間を気にしながらも、あちこち撮影&確認してきました。
原稿の作成段階で、細部がどうなっていたのか思い出せなかったり、きちんと見ていなかったりすることに気付くことも多く(今さらですが)、泣きながら(ウソですが)トボトボと集落を歩いて来ました。
完成したばかりのアパートから俯瞰した中道周辺の風景。
写真左上に、“お宮”と呼ばれる集落で一番の聖地があり、ここを頂点に集落は南向きの斜面に広がっています。スージ道で碁盤目状に区切られた集落の形は、沖縄の伝統的なありようです。
また、立派な石を積み上げた屋敷囲いが、数多く残っているのもこの集落の特徴ですね。大きく重い石をここまで運び(港川から?)、コツコツと加工し、積み上げた先人の労苦は察するに余りあります。
これを見ると、「昔の人は偉い!」と誰もが素朴に感じるはずですので、是非見に行って欲しいものです(なので、ここでは写真は出しません)。
こんなトボケた味のシーサーも、村の大事は守り神。どこにあるか、捜してみるのも楽しいのでは?
月に一度の「沖縄ある記アワー」は、午後3時から4時まで放送。新都心のFMレキオに、前川からあわてて駆けつけました。
今回はゲストに真栄里泰山氏(写真中央)を招き、以前案内していただいた那覇市安里について、國吉宏昭さんと三人でユンタク。
いつものようにあまりうまく喋れないので、いつものように自信をなくしましたが、終了後にユンタクするうちに、いつものように復活。へこたれたらいかんぜよ!
●FMレキオ「沖縄ある記アワー」
安里と那覇新都心とを結ぶ新しい道路から見た、大通り(又吉道路)との交差点(写真中央付近)。
モノレールの向こうには、1960年代ごろまで田んぼが広がっていたようですが、現在の姿からは想像もつきません。
北(写真手前)に向かって歩くと、県立博物館・美術館につながるこの通りを、真栄里泰山氏は「安里坂」と命名しています。旧市街と新都心が直結する数少ない道路ですが、機能性だけではなく、彫刻などを置いて博物館・美術館へのアプローチ道と位置づけたら、市民にもっと親しまれる通りになると真栄里氏は語っていました。
意義ナシです。
(三嶋)
安里を歩く
2014年4月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
「しまたてぃプラス」に連載中の「戦後を歩く」で、安里編を取り上げアップしました。冊子の方はすでに発行されていますが、Web版もあまり遅れず更新できたので、ホッとしています。
今回の安里編では、那覇の地理・歴史に造詣の深い真栄里泰山さんに、(地元ということもあって)案内をしていただき、ディープな話をあれこれ聞くことができました。リアルな歩きは充実していたのですが、こちらの筆(PC)がそれを、どこまで伝えることができたのか・・・まずは見ていただいて評価のほどを。
しまたてぃPlus http://okiaruki.com/simatate/index.htm
那覇市安里をめぐる
2014年3月22日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
次号の『しまたてぃ』68号の取材をかね、那覇市の安里周辺を歩いてきました。
年度末のバタバタで原稿が遅れ、かなり焦っていますが、久しぶりに良い天気になったし、気分転換もかねてあちこち遠征した格好です。
大道小学校そばの直線道路。ここは、陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊の射撃訓練場があった場所です。
分遣隊がここに練兵場と射的場を置いたのは、1890(明治23)年から6年間。現在の大道小学校から松川小学校にいたる、距離約650m・幅約30mの直線で、射撃訓練を行ったと松川公園内の石碑に解説があります。
今も「練兵橋」と呼ばれる橋(写真)や、東西を貫く直線道路の姿は、市街地に少なくなった戦前の姿を残す場所のひとつでしょう。
ちなみに、このあたり(大道地区)までがかつての安里村域で、分離したのは1920(大正9)年のことでした。
モノレール安里駅から真和志支所方面へ続く道にあって、安里川に架かる安里橋。栄町を含んでこの川までが安里となります。
すぐ下流には姫百合橋があり、上流には蛍橋があります。この辺では、戦後も泳いだり魚を捕ったりしたと聞いたことがあるので、かつてはホタルも乱舞する清流だったのでしょう。
ところで、安里橋はもともと崇元寺の近くに架かっていて、崇元寺橋とも呼ばれていました。1677年に掛け替えられた時には、全長70m以上あったといいますから、たいへん立派な石橋だったと想像されます。
しかし、沖縄戦で破壊され、戦後になると崇元寺橋として再建されました。で、安里橋はというと、直線で800m以上上流にあるこの地で再建されることになったのです。
現在の安里2丁目と牧志3丁目の境に架かる「ゆたかばし」。姫百合橋を越えて直角に流れを変える、安里川の下流に位置します。
竣工は1961年4月、と味のある手書き文字で刻まれていますから、昭和36年、東京オリンピックの3年前ですね。
橋の下流(写真奥)には、2011(平成23)年にオープンした蔡温スクエアがあり、周辺がモダンな街に生まれ変わるのに合わせて、河川工事もずっと続けられています。
この橋もあとわずかの寿命でしょう。今のうちですよ〜。
(三嶋)
安里川の南が海だった話
2014年3月10日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の追加取材で、安里に行ってきました。
今回は特に、おもろまちから続く新しい道路が、安里大通り(又吉道路・崇元寺通り)とクロスする安里一丁目交差点を紹介。
交差点の南側にある御嶽が、これまでよく分からなかったのですが(何の表示もないし)、それが「浮縄(ウチナー)の御嶽」だと真栄里泰山さんに教えていただきました。
金丸を国王(尚円)に推挙したことで知られる安里大親が、この場所で釣りをしながら、金丸とクーデター計画を練ったという話や、ここが「沖縄(ウチナー)」の語源とする説もあるようで、そんな重要な場所という認識がなかったこちらはビックリした次第。
慌てて再訪し、よく観察したのですが、以前の場所から移動したせいなのか、歴史を伝えるものは何もなく、目の前をたくさんの車が通過するのみ(みんなもたぶん知らないハズ)。
また、そばを流れる安里川は、遠い昔は海の一部で、このあたりが港だったようです。
海を干拓した場所が対岸の牧志で、真栄里氏が小学生時分(1950年代)までは田んぼだったそうです。
しかし、現在マックスバリューが見える付近に、水田が広がる風景を想像することはかなり難しい作業ですね。
2004(平成16)年当時(上)と、現在の安里一丁目交差点。上の写真の左端に写る、「外間金物店」だけは今も健在。
「浮縄の御嶽」。安里川を越えた向こう側に、かつては水田が広がっていました。
安里一丁目交差点の北西側に残るムラガー跡。戦後まで住民の暮らしを支えた命の水ですが、交差点が建設される際、その真ん中に位置する井戸は埋められ、現在の位置に祠が造られたようです。
(三嶋)