中村英雄さんと渡久地をあるく
2017年2月8日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材で、本部町健堅に住む中村英雄さんと、町の中心地である渡久地界隈を歩きました。
渡久地は、戦前から本部半島で一番のマチで、カツオ漁や町営市場、岸本食堂など、ネタはたくさんあります。
そこに、中村さんの体験談も加わるため、紙面に納まり切らないかも…と心配になりました。

本部に行く前に立ち寄った、名護市場にあるギャラリー「スケッチ」前の広場で食べた昼食。
隣の食堂から取り寄せた料理ですが、戸外でユンタクしながら、別け合って食べる味は格別でした。
※試みられる方は、ハンパナイ量なのでご注意を。

本部町市場の角に立つ復帰前の道標。起点羽地村、終点本部町とあり、側面にはR124(軍道124号)と刻まれています。
通りの向いの路地には、超有名店・岸本ソバがありますが、あいかわらず観光客でいっぱい。行列が途切れません。
ここから、中村さんと一緒に伊豆味線を歩き、満名川に出て、川沿いに市場に戻り、港まで往復というのがこの日のコース。
見どころ満載で、面白い所だらけという感じでしたが、88歳になる中村さんのシャベリと元気な姿が、一番の見どころだったかも。
ウミンチュのDNAか、追込み漁やダイビングで鍛えたせいか、丈夫な体と衰えない記憶力にはビックリでした。

渡久地港を歩く中村さん。
カツオ漁でにぎわった町も、今は1隻が漁を続けるのみとか。

マキが積み上げられた戦後の渡久地港(写真提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
漁港であると同時に貨物の中継港でもあり、やんばると那覇をむすぶ重要拠点として機能していました。
まだまだ続きます(たぶん)。
<三嶋>
久手堅の豊年祭
2017年1月30日 Category: 沖縄ある記, Myある記, スクガー事業 Comment : 0
字知念の公民館で、地域作品展を先日行いましたが、そこで公開した写真の1枚が、久手堅で撮影されたものではないかと数人から指摘がありました。
そこで、この日、字知念の前城さんと確かめた次第で、その結果、指摘された通り、写真は久手堅にある知念中学校の、グランド付近だろうということになりました。

撮影ポイントを探す前城さん。
背後の山の形や、土手の位置などが新旧同じだと思われます。

NPO法人琉米歴史研究会が所有するこの写真は、撮影時期(1950年代初頭)しか情報がなかったので、場所が分かっただけでも嬉しい限り。
豊年祭の一コマと思われますが、同時に撮影されたらしい別の写真も残されているので、今後はそこに写る人たちの何人かでも、どこの誰かが判明するといいんですけどね。
<三嶋>
「森のクラブ」の最終日
2017年1月28日 Category: 沖縄ある記, スクガー事業 Comment : 0
地域散策や地域作品展とともに、昨年10月から実施していた「森のクラブ」が、この日をもって修了。10回続いたことになります。

子どもたちは底川の森で遊んだあと、大きなたき火を囲んで、焼き芋やお鍋に舌鼓をうちました。

沖縄でも、火や土や水といった、ナマの自然を遠ざけた暮らしが当たり前になった現在、自分が山や川で遊んでいた時代がはるか昔のように感じますが、わずか50年ではないかとも思います。「こんな社会に誰がした」と誰かを呪いたくもなりますが、回りに敵をつくって自分を肯定(あるいは弁解)しても、何も変わらないと気付きます。
まずは足下の現実に向き合い、誠実に対処することからしか、事態は変わらないのでしょうね。
地域作品展in知念
2017年1月22日 Category: 沖縄ある記, スクガー事業 Comment : 0
昨年から続けているプロジェクトの一環として、「地域作品展in知念」を開催。
1月8日に実施した、集落散策&作品製作の発表会ですが、地域の人たちから集めたアルバム写真の方が人気。
なつかしい人や思い出に話が、やはり盛り上りますね。


最終日の22日午後には、プロジェクターで写真を投影しながら、みなさんでユンタクする交流会を開催しましたが、ナマの話はやはり面白いですね。
こんな時にしか知ることがないと思われる人たちと触れあい、その人生を垣間見せてもらうと、出会いの不思議を感じるとともに、人生の先輩に対する敬いの念がわき上がります。
それぞれの人生を懸命に生きる姿に教えられることも多く、どんな人も、生き続けているだけで尊いと、自然に頭が下る思いがしたのでした。
知念の戦後を訪ねる
2017年1月16日 Category: Myある記 Comment : 0
このところ知念にかかわる事が多いのですが、この日は前城さん、城間さんと、戦後撮影された場所を探して周辺をうろついて来ました。

現在、バス停「知念小学校前」がある辺りから見た、字吉富の風景。
山の上にあるニライカナイ橋の後方に見える山では、戦後、石灰岩の採石が行われています。左の丸い建物は水タンクで、その後に知念団地が見えます。

上記写真とほぼ同じ位置と思われる、戦後間もないころの写真(NPO法人琉米歴史研究会提供)。田んぼが多くを占め、カヤ葺き屋根の家屋が見受けられる。

知念山里から見た志喜屋方面。

ほぼ同じと思われる地点から1952(昭和28)年に撮影された写真。海岸まで美田が広がっていたのが分かりますね。
Vic Krantz撮影、NPO法人琉米歴史研究会所蔵。
遠くにアーヂ島(玉城仲村渠)が見えるが、その北東側には松が生い茂るアドゥチ島があって、米軍が実弾を使った上陸演習を行っていたとか。
前城さんの記憶では、その影響で島を覆っていたマツが枯れたそうです。
南部でも米軍の演習が行われていたのは知りませんでした。興味がそそられる話です。
<三嶋>
