“隠れ家”のような集落
2026年4月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
志喜屋は旧知念村(現南城市)のムラ。背後に山が迫る海岸そばの斜面にある、“隠れ家”のような集落である。
しかし、近年、集落の北西部に「コストコ」がオープンし、遠いというイメージも霧散しているのではないだろうか。
志喜屋は集落中央部を東西に走る国道331号を境にして、大きく北側にカンチャ(上志喜屋)、南側にシチャ(上志喜屋)と呼ばれる地域に分かれている。首里から移り住んだ人々が山手のカンチャを開き、徐々に海岸側に移動したのかと思って地元の方に聞くと、シチャはシチャとして今まで続いていて、カンチャから移ってきたのではないそうだ。

案内をお願いした区長の親川仁寛さんによると、「歴史的にも面白い場所が多いが、意外に知られていない」と残念そう。海岸部を埋め立てて造られた漁港や、関連施設に期待していると続けた。

公民館前の集落地図にも各家の屋号が記されている。

カンチャウフガーの川底にある平たい石は、今帰仁城跡に近い今泊ムラにも同様のものがあり、何らかの関連があると信じられている。現在も、5年に一度はここから今帰仁に出かけ交流を続けているようだ。
旧知念村では、今帰仁の北山城跡にまつわる話があちこちにあるようだが、ここにも、北山グスクから下った人々がいたのだろうか、と想像すると面白い。


志喜屋には、まだ戦時中の1945(昭和20)年6月1日、収容所が設置され多くの避難民が押し寄せた。同年9月に知念市が誕生した翌月(10月10日)のには、人口1万7,914人を数えている。
米軍の知念補給基地(CSG)が、集落西側の高台にある玉城村親慶原に設置されると、志喜屋や周辺地域からも基地に働きに行く人たちがいた。
字知念の前城栄徳さんのその一人で、毎朝、志喜屋のバス停で下車し、ここから写真前方に見える山の斜面を登り、CSGに通ったそうだ。以前、一緒に当時の道を探したところ、人が通らなくなった道が自然に還るのは早く、樹木に覆われた山のなかで当時のルートは判然としなかった。

志喜屋は水が豊富な地域である。山から流れる水が各家庭に配水されたほか、稲作にも活用された。なかでも稲作はたいへん盛んで、戦前には「献穀田*」となった田んぼもあった。
*献穀田(けんこくでん):天皇が新米を神々に供えて五穀豊穣を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」に献納する米を育てる田んぼ。献穀田に選ばれるのは地域の名誉であり、田植えには地域の名士など大勢の人が参加した。

志喜屋の水源はシキヤガーの上流であり、戦前には親川栄蔵というそのご議員なども務めた人が、そこから水を引いて水車を回し、発電を行なっていた。昼間は製糖、夜間は精米に利用されたが、公民館などでも電灯が灯り、住民に喜ばれた。
米軍も基地で使う水をここから引いていたが、日照りで水不足が酷くなった1963(昭和38)年5月には、米軍が突然集落に流す水を止める事件があった。怒った住民が米軍に申し入れ、ことなきを得たようだが、米軍の姿が見えない現在の南部では、ほとんど忘れられた事件だろう。

赤い屋根瓦を合わせてセメントでくるみ、山から集落まで水を引いた。

もう50年にもなるが、自分が大学に入学してまもない頃、知念半島を回るバス(東陽バスだったと思う)に乗ってこの辺りを訪ねたことがあった。クネクネと曲がる道沿いに建つ家屋や、美しい海岸線などに見惚れて詩情を掻き立てられたものだった。
しかし道路事情がよくなった今、那覇の通勤圏ともいえるようになったこの辺りに、かつてのような詩情を感じることは薄れたといえる。そして、便利で豊かな社会に生きるにつれ、地域の人々が助け合い、支え合って暮らしていたかつての状況は遠ざかりつつある。
だからこそ、屋号を大切にしたり、行事や祭りで地域を盛り上げようとしている志喜屋の活動は、いっそう重要な意味を持つように思う。先達を敬い、大切にしながら次世代に繋いで行こうとする姿に、ひとつの希望を感じたのである。

<三嶋>
