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南恩納あるき

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 久しぶりの恩納村でのあるき。コロナ発生以来途絶えていた恩納村教育委員会とのコラボだが、公民館に呼びかけてもらって集まった人たちと楽しく歩くことができた。

 南恩納は目の前に広がる遠浅の海・屋嘉田潟原(やかたかたばる)と、深いつながりを持ち続けてきた集落。これまでも、自然と暮らしの関わりなどについてみんなで考えたり、学習したりしてきたという。

 素晴らしい景観の海や、いくつもの岩礁・島が広がる地域であり、自分たちの暮らしと密接に関わるだけに、環境保護の大切さは広く共有されているようだ。

恩納岳から8本の小川が流れ込む屋嘉田潟原は、生物多様性に富んだ干潟。多くの生き物が住み着くこの海と、人々はさまざまな関わりを持ちながらともに生きてきた。
屋嘉田潟原に浮かぶさまざまな島の中で、一番大きな宜志富(ぎしふ)島。
船溜まりの漁船。近年はアーサやモズクの栽培養殖が盛ん。

 南恩納は、文字通り、字恩納の南に位置する地域が、戦時中の1944(昭和19)年に独立して誕生した。琉球王国時代には首里・那覇の士族が移住していた、ヤードゥイ(屋取)集落だといわれる。

 現在の人口は約1,400人。地域の人々の結束は固く、清掃などのボランティア活動なども盛ん。観光産業の隆盛とともに、近年は外部からの移住者も増えてきたが、助け合いながらともに地域を支えていくことを目指しているという。

 南恩納区では、戦前まで主に稲作が行われていた。1960年代頃、米軍が当時の軍道1号線(現在の国道58号)を二車線の舗装道路に拡張したが、交通量は少なく、道路に筵(むしろ)を敷いて籾(モミ)を干したりもしていたという。

 恩納小学校から海に向かった先には、かつて日本陸軍が建設を企図し、完成前に米軍に攻撃・破壊された飛行場があったという。戦後は米軍が通信隊を置き、地域の人たちと交流したりもしていたが、1995(平成7)年には返還された。

いまもわずかに残る「宿道」の跡
舟越のトンネル。恩納区と南恩納区の境界線とされる。

 舟越のトンネルは、以前は谷間になっており、舟で通ることが出来たことから「舟越」の名がついたという。1911(明治44)年頃、県道工事の際に谷間は埋められ、戦後、米軍がカサ上げして軍道1号線(現・国道58号)を建設したため、表通りからかなり下に位置するようになったが、灌漑用水路としてトンネルが造られ、今も当時の雰囲気がわずかに遺されている。

志嘉座川に残る赤橋 。

 赤橋は、沖縄戦の時「第二護郷隊」(国頭村・大宜味村・東村や中頭から招集された15歳~18歳の男子を中心に作られたゲリラ部隊)が、米軍の侵攻を阻止するため爆破されたが、爆破に失敗したため橋の半分が落ちたまま遺されている。

 今では貴重な戦争遺産として平和学習などの際に利用されているようだ。上部を通る大通りからは見えずらいだけに、車をおりて歩きながら、当時をしのぶのもいいだろう。

 赤橋の周辺は、1960年代には子どもたちの遊び場だった。しかし、満潮時には水深が2メートルぐらいになり、深い底なし沼のようで「カムロー(お化け)がいて引っ張られるよ」と言われていたそうだ。

 「赤橋」の名前は、以前の橋が木製の朱塗りだったことに由来するという。

<三嶋>

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