okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

安謝ある記

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


毎月第2日曜日に実施している散策で、今月は那覇市安謝を歩いた。

以前に取材しているためボクが案内したが、みんな勝手にユンタクするので楽といえば楽だ(笑)。

マックスバリュー安謝店の裏から東に進む。この道はカニクグヮー道というらしい。そして東西に延びる丘陵地帯を右折して、集落の中心に近づく。
<写真:三上一行>
安謝小学校近くの内間商店。車が見える通りがメーミチという集落のメインストリート。北側の丘陵地帯から下る道の一番低い所で、この十字路から手前の安謝小学校に向け上り坂となる。
最近まで営業していた内間商店は、戦後、配給所だった所。その向こうの赤瓦屋根の建物が獅子を納める獅子家(シーシヤー)。 この辺から少し南東側に行くと、米軍牧港住宅地区(マチナトハウジング=現在の那覇新都心地域)が位置するため、そのフェンスが学校のそばから環状2号線に向かって伸びていた。
1970年ごろの安謝小学校前の通り。トンネルがある道路が国道58号で、戦前は急な坂道だったが、戦後、米軍がかさ上げして勾配を緩めたという。しかし、通学時に道を乗り越えて道路を横切る子供たちの事故が多発したため、安謝小学校の稲嶺校長らが陳情してトンネルを造らせたという。以前はトンネルの中で野菜などを売るおばさんたちもいて、世間話に花が咲くこともあった。「ぺんてる」の看板がある場所には、1960年代、ユーフルヤー(安謝湯)があったという。
<写真:安謝自治会>
かつての安謝港と思われる場所。安謝交差点から泊漁港に続く道路が見えるが、そこから海側が埋め立てられたため、港も消滅して街の中に消えることとなった。那覇港や泊港の利用が出来るまでのわずかな期間ではあったが、安謝港は闇貿易をも含んだ貴重な貿易港として存在し、造船所で働く人や物流関係者などで周辺はたいへんにぎわったという。
<写真:沖縄県公文書館>
米軍がアンカー・ヒルと呼んだ岩山。1945年5月9日、安謝川を渡って偵察に来た米海兵連隊の中隊は、ここで日本軍の攻撃を受け撤退している。琉球王国時代には処刑場だった場所で、現在は恵比寿神社が創建されている。 安謝は沖縄戦当時、安謝川を渡河した米軍(第6海兵師団第22連隊)と、それを迎え撃つ日本軍との間で激しい戦闘が行われた場所である。集落北側の高台の地下には、トンネルで連結された日本軍の強固な地下陣地があり、南下する米軍と一進一退の攻防を繰り広げたとされる。
<写真:沖縄県公文書館>
1945年3月30日、米軍の本島上陸の直前、艦載機から攻撃を受ける安謝。
<写真:沖縄県公文書館>

那覇新都心に隣接するだけに、安謝は古い集落から市街地へと変身しつつある。戦争や復帰前の記憶が薄れ、集落のつながりも希薄になりつつあるのかもしれない。しかし、地域の歴史は住民の共有財産であり、次世代に伝えるべき宝だけに、先達の歩みは伝えていって欲しいものだ。

安謝には龕屋(ガンヤー)も残っていて、行き場をなくした哀れを感じさせるが、その役割や歴史を記録し、次代に伝えることが重要だと思われる。

<三嶋>

--------

 

コメントを投稿する

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です