映画「飛べ!ダコタ」
2017年1月4日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりにDVDを借りて観た映画、「飛べ!ダコタ」が面白かったので、報告します。
実話に基づくというこの映画では、戦後すぐの時期、佐渡島に不時着した英軍輸送機「ダコタ」をめぐって、戦争に対する住民のさまざまな立場や感情が描かれ、当時の人々の思いがしのばれて興味深いのですが、特に気になったのは終盤、村長が言う台詞。
村のおばさんたちの「自分たちは戦争に巻き込まれた」という意味の言葉に対し、村長は「国民みんなが戦争をはじめたんだ」という風な言葉を返すのです。
つまり、「天皇や軍や誰か偉い人たちに自分たちは騙された」のではなく、一人一人の国民が責任を自覚することが重要だし、そこからしか戦後(民主主義)は始まらない、というメッセージだと思うのですが、現実は、誰もそれを引き受けないまま、戦後70年が過ぎてしまったということでしょう。
映画でも、このリベラルな村長の言葉に、おばさんたちは「村長の言うことは難しい」という感じで応え、軽くスルーしてしまいます。
沖縄出身の比嘉愛未が熱演しているし、作り手や住民の熱気も伝わってくる、見ごたえある映画ではないでしょうか。おすすめです。
題名になったダコタ(Dakota)は、ネットで調べると、アメリカで戦前に作られた旅客機DC-3を、英軍輸送機として使った際の名称ですね。
ちなみに米軍はC-47 スカイトレインという名で使用していて、ここで紹介するNPO法人琉米歴史研究会所蔵の写真がその機体になります。
1953(昭和28)年11月6日、那覇基地から宮古に向かう際に撮影されたC-47 “Skytrain”。「ダコタ」ですね。
<三嶋>

知念よいとこ
2016年12月13日 Category: Myある記 Comment : 0
気持ちのいい陽気に誘われ、打ち合わせのあい間に知念で撮影。
快晴とはいえないけれど、雲が切れた時を見計らって激写(死語か)。
知念の字山里から。ススキの穂がきれいでした。
知念城跡近くから見た字知念集落。
木創舎から見た太平洋。
<三嶋>

焼きイモ焼けたけど
2016年11月26日 Category: Myある記 Comment : 0
焼きイモの窯を作ったというので、知念の木創舎に行って様子を見てきました。
プロパンガスのボンベの胴体に、扉を付けた簡単なものですが、何となく本格的(?)
城間さん、前城さんの思いつきのようですが、何でも楽しもうとする精神には感心します。
が、美味しく焼くノウハウは誰も持ち合わせていなかったため、焦げたり、生焼けだったりで、時間をかけた割に結果はいまひとつ……。
リベンジしたいものですが、爺さんたちの気力はまだ残っているかな。
<三嶋>

本部の撮影場所が分かる
2016年8月5日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりに本部の中村さんを訪ねました。
すると、以前あずけておいた写真の、撮影場所がどうやら分かったとのことで、砂浜の位置や岩、家並みから、「塩川だろう」と地元の知り合いが話していたとのことです。
海岸道路が建設されてからのこの辺りの変わりようは凄まじく、採石工事で山も形を変えているため、確認は難しそうでが、この次に来る時に実行してみようと思います。
撮影:H・テューン 1948(昭和23)年8月6日
写真提供:NPO法人琉米歴史研究会

摩文仁の丘で写真を確かめる
2016年7月21日 Category: Myある記 Comment : 0
前城さんと別れたあと、久しぶりに摩文仁まで行ってきました。
琉米歴史研究会(以下「琉米」)の写真展が10月に決まったので、すこしでも整理しておこうと思ったからです。とりあえず確認したかったのは2ヶ所。
1ヶ所目は、「黎明の塔」があるあたりから見た風景です。
下の写真が、同じ場所から撮影した思われる摩文仁の集落。撮影は1958〜59(昭和33〜34)年。
と、ここで、こんな写真も琉米にあるのを発見。
ボケボケで申し訳ないのですが、1954〜1955(昭和29〜30)年に撮影された「黎明之塔」です。
現在のものと形が違いますね。
調べてみると、この塔は1952(昭和27)年6月22日完成したもので、沖縄新民報(第193号)によれば、「日本側と沖縄側の有志」が工事を行ったようです。
現在の塔が建設されたのは、それから10年後の1962(昭和37)年10月。沖縄協会の援助で行われています。
2カ所目の確認は、祈念公園の南側駐車場から、「健児之塔」に向かう途中にある崖。
写真の手前が健児之塔側、左に進む小道を抜けると海岸に出ます。
米国から送られてきた下の写真は、撮影年月日が分かりませんが、周囲の状況などからみると1950年前後ではないでしょうか。
米兵は、周辺の断崖を “Suicide Cliff(スーサイド・クリフ=自殺の崖)”と呼んでいて、複数の写真が琉米にも集められています。
彼らがどういう心理でこれらの写真を撮影したのかは分かりません。が、ここで失われた命や流された血に対し、悼む気持ちがあってのことと信じたいところです。
<三嶋>
