牧港川河口の
2017年5月15日 Category: Myある記 Comment : 0
浦添市と宜野湾市の境に流れる牧港川の河口部に、西海岸を南北に縦断するバイパス道路(正式名は知らない)が建設されているようなので、見に行ったのですが、これが案外すごいですね。
ちょうど牧港漁港の目の前で、大きな橋桁が結合されようとするタイミング。ダイナミックな巨大工事は、見ているだけで力が湧いてくる感じ。子供の気分で、何か意味もなくワクワクします。
宜野湾市宇地泊側から見たバイパス工事
浦添市牧港の漁港前。大きな橋桁が徐々に腕を伸ばし、まさに繋がろうとしています。
宜野湾市側から見た牧港川河口部。米軍部隊が浮き橋や物資を陸揚げする浮き桟橋を築いています(写真:沖縄県公文書館)。
牧港川にはかつて、ペリー遠征隊が賞賛したという美しい石橋が架かり、戦後も残っていましたが、1号線の拡幅工事で壊されました。
国道58号線は陸橋となり、15年ぐらい前には、コンベンションセンターに通じるバイパス道路が河口を覆うように造られ、景観が一変しました。
そして現在、そこに接続する陸橋が新たに接続する分けです。
大型工事に胸踊る自分と、変容する景観に憤る自分がいます。
<三嶋>

本部半島今昔
2017年4月28日 Category: Myある記 Comment : 0
このところ、本部町に出没する回数が増えています。
今日は、以前から撮影ポイントが気になって探していた、NPO法人琉米歴史研究会が所有する写真の場所をあれこれ尋ねてきました。
結果、たぶん、ここで間違いないと思う2カ所をご報告です。
(1)屋部の海岸
名護の市街地から名護湾沿いに走って屋部に入ると、ホテルの手前に二つの岩が見えてきます。
この日は大潮にあたっていたため、かなりの部分が干上がっていましたが、普段は海中に没している岩です。
同じ場所から、戦後まもない時期に撮影されたカラー写真が、以下ですね。
岩の形から、撮影されたのはこのあたりでしょう。
時期は情報がないのでわかりませんが、1950年前後ではないでしょうか。
婦人が頭に乗せたバーキ(カゴ)に、シークヮーサーにしては大きなオレンジ色のミカンが見えます。名護の市場に売りに行く途中なのでしょうか。
遠くの陸地は、名護湾越しに見える恩納村と思われます。
(2)本部の漁師村
本部町の渡久地港は、戦前からやんばると那覇を結ぶ航路の要衝であり、同時にカツオ漁が盛んな漁師町としても知られていました。
大正時代には40隻ものカツオ船が活躍し、たくさんの鰹節が出荷されていたそうです。
しかし、エサ不足や不漁、漁師の高齢化などの要因で、現在はカツオ漁はほぼ途絶え、渡久地の町も、海洋博時に完成した本部大橋の開通をさかいに、かつての活気は遠のいてしまったようです。
ここで紹介する写真は、1952(昭和27)年ごろの本部町大浜、大小堀川(ウフグムイ)の集落。
網の手入れを行う漁師の傍らのカゴは、直径2mほどもある生簀(いけす)です。ジャコーバーキと呼ぶ、カツオのエサにするスルル(キビナゴ)を入れるもので、山からとって来た竹を使い、自分たちで作ったそうです。
本部町渡久地・谷茶では、戦後おこなわれた大規模な埋め立てで、海岸線が大幅に遠ざかったため、写真に写る海人たちも、この場所では操業が困難になったものと思われます。
大通りの三叉路が目の前を通り、大型スーパーが海を遮って立地する現在の風景から、かつての生業を想像することは不可能でしょう。
<三嶋>

久手堅の豊年祭
2017年1月30日 Category: 沖縄ある記, Myある記, スクガー事業 Comment : 0
字知念の公民館で、地域作品展を先日行いましたが、そこで公開した写真の1枚が、久手堅で撮影されたものではないかと数人から指摘がありました。
そこで、この日、字知念の前城さんと確かめた次第で、その結果、指摘された通り、写真は久手堅にある知念中学校の、グランド付近だろうということになりました。
撮影ポイントを探す前城さん。
背後の山の形や、土手の位置などが新旧同じだと思われます。
NPO法人琉米歴史研究会が所有するこの写真は、撮影時期(1950年代初頭)しか情報がなかったので、場所が分かっただけでも嬉しい限り。
豊年祭の一コマと思われますが、同時に撮影されたらしい別の写真も残されているので、今後はそこに写る人たちの何人かでも、どこの誰かが判明するといいんですけどね。
<三嶋>

知念の戦後を訪ねる
2017年1月16日 Category: Myある記 Comment : 0
このところ知念にかかわる事が多いのですが、この日は前城さん、城間さんと、戦後撮影された場所を探して周辺をうろついて来ました。
現在、バス停「知念小学校前」がある辺りから見た、字吉富の風景。
山の上にあるニライカナイ橋の後方に見える山では、戦後、石灰岩の採石が行われています。左の丸い建物は水タンクで、その後に知念団地が見えます。
上記写真とほぼ同じ位置と思われる、戦後間もないころの写真(NPO法人琉米歴史研究会提供)。田んぼが多くを占め、カヤ葺き屋根の家屋が見受けられる。
知念山里から見た志喜屋方面。
ほぼ同じと思われる地点から1952(昭和28)年に撮影された写真。海岸まで美田が広がっていたのが分かりますね。
Vic Krantz撮影、NPO法人琉米歴史研究会所蔵。
遠くにアーヂ島(玉城仲村渠)が見えるが、その北東側には松が生い茂るアドゥチ島があって、米軍が実弾を使った上陸演習を行っていたとか。
前城さんの記憶では、その影響で島を覆っていたマツが枯れたそうです。
南部でも米軍の演習が行われていたのは知りませんでした。興味がそそられる話です。
<三嶋>

映画「飛べ!ダコタ」
2017年1月4日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりにDVDを借りて観た映画、「飛べ!ダコタ」が面白かったので、報告します。
実話に基づくというこの映画では、戦後すぐの時期、佐渡島に不時着した英軍輸送機「ダコタ」をめぐって、戦争に対する住民のさまざまな立場や感情が描かれ、当時の人々の思いがしのばれて興味深いのですが、特に気になったのは終盤、村長が言う台詞。
村のおばさんたちの「自分たちは戦争に巻き込まれた」という意味の言葉に対し、村長は「国民みんなが戦争をはじめたんだ」という風な言葉を返すのです。
つまり、「天皇や軍や誰か偉い人たちに自分たちは騙された」のではなく、一人一人の国民が責任を自覚することが重要だし、そこからしか戦後(民主主義)は始まらない、というメッセージだと思うのですが、現実は、誰もそれを引き受けないまま、戦後70年が過ぎてしまったということでしょう。
映画でも、このリベラルな村長の言葉に、おばさんたちは「村長の言うことは難しい」という感じで応え、軽くスルーしてしまいます。
沖縄出身の比嘉愛未が熱演しているし、作り手や住民の熱気も伝わってくる、見ごたえある映画ではないでしょうか。おすすめです。
題名になったダコタ(Dakota)は、ネットで調べると、アメリカで戦前に作られた旅客機DC-3を、英軍輸送機として使った際の名称ですね。
ちなみに米軍はC-47 スカイトレインという名で使用していて、ここで紹介するNPO法人琉米歴史研究会所蔵の写真がその機体になります。
1953(昭和28)年11月6日、那覇基地から宮古に向かう際に撮影されたC-47 “Skytrain”。「ダコタ」ですね。
<三嶋>
