納骨のあとの清め
2012年12月27日 Category: Myある記 Comment : 0
先月亡くなった大城勝君の納骨に、大宜味村まで行ってきました。
シマの人たちが集まって拝んだあと、家族や縁者でガケの中腹にあるお墓まで行き、無事、納骨をすませました。
那覇・東京と町場で過ごした彼も、背後には急峻な山が迫り、目の前は海というヤンバルらしいたたずまいの墓地で、ゆっくり眠れることでしょう(静かすぎるかな)。
お墓からの帰りは、近くの海岸に降り、清めの儀式を経験しました。
2、3個の小石を海に投げたあと、背の高い草2本をつないで波打ち際に立てた三角の門をくぐり、手を洗うというものです。男女は別々だそうで、男性は向かって右をくぐるということでした。
肌寒い風が吹くなか、みんなで清めを行い、ふり返って山際の墓に別れを告げました。
(三嶋)

オスプレイ反対音楽デモ
2012年12月23日 Category: Myある記 Comment : 0
宜野湾市で行われたオスプレイ反対の集会に参加してきました。
寒かったー。
けど、思ったより人数が多くて意外。県外からの参加者が多かったですね。ごくろうさまです。
デモはテレビで見る原発反対の感じ。思い思いの音楽に乗って、楽しかったんですが、70年代のルサンチマンは、こんなことで晴らされるのか? という疑問が浮かんだのも正直なところ。
(三嶋)

糸満追加取材
2012年11月28日 Category: Myある記 Comment : 0
糸満の追加取材に行ってきました。
写真のTシャツを市場で見つけ、意味を聞くと、白銀堂にまつわる有名な言い伝えで「意地出らば手を引き、手出らば意地を引け」という有名な教訓とのこと(まったく知りませんでした)。
もとになった話は、糸満の漁民・美殿(ミドゥン)と、薩摩の廻船問屋・児玉左衛門との交流なのですが、驚いたのは、1964年8月21日の琉球新報に、薩摩の児玉左衛門が志布志の廻船問屋で、子孫が実在する事を郷土史家が確かめたという記事。
きっかけは首里出身の比嘉景宗氏の調査で、志布志の高校教諭が協力して子孫を確かめたとの事。子孫の旧家には、琉球絣や古銭・焼物なども残されていたようです。
ネットで調べると、山畑敏寛「志布志港の『みなと文化』」のなかに、左衛門は志布志の廻船問屋であった児玉伝左衛門実好であり、1764 年〜1800年ごろ海運業で活躍、1825(文政8)年、81 歳で没したと記されています。
(三嶋)

不思議な小川
2012年11月27日 Category: Myある記 Comment : 0
読谷村喜納の3回目の調査に行ってきました。
集落の西側に点在するカー(湧水)や、部落の道路を訪ねたあと、集落の北東部にあたる黙認耕作地に分け入り、偉い人の墓やゆかりの地などをかなり調べました。
車を使いながらも今回が一番長い距離の移動だったので、かなり疲れましたが(地元の方々はみなケロッとしてたけど)、山に分け入る時など、子供に還ったようで結構興奮しました。
さて、この写真は、西側エリアをチョロチョロと流れるごく普通の小川ですが、上流と思われる写真奥の暗渠の入口を捜しても、見つかりませんでした。丹念に調べてはいませんが、写真の向こう側に水気のありそうな場所が見当たらず、途中で消えているようだと地元の方も話していました。宿題ですね。
(三嶋)

安慶田橋
2012年11月22日 Category: Myある記 Comment : 0
安慶田橋(あげだばし)という、小さな橋を見つけました。沖縄市をあちこち走り回り、道に迷ったおかげ(?)かも。コザ保育園がすぐ側にあるせいか、周囲は金網に囲まれています。竣工は1966年6月18日日とはっきり読み取れます。
その下流(写真では左)にも同じような橋があり、こちらは昭和50年8月31日竣工と刻まれていますが、橋の名前は記されていません。う〜ん残念。
二つの橋は、「子供の国」の池(もと越来ダム)を水源とする川、そう沖縄島最大の比謝川に架かっています(後で調べたんだけど)。
そして、この下流が、公園整備された越来城跡の下の流れにつながり、知花を通り、嘉手納町から東シナ海に注ぎます。比謝川って長いですね。
(三嶋)
