甲辰橋と甲辰小学校
2013年3月27日 Category: Myある記 Comment : 1
甲辰橋は、モノレール県庁前駅の西にある小さな橋で、1959(昭和34)年11月に完成しました。
54年前の橋が、沖縄の中心地に今も現役で存在していることに驚きますが、欄干はさすがにあちこち傷んで、痛々しい感じ。
橋を渡って「パレットくもじ」に向かうと、地下駐車場の入口右に「甲辰尋常小学校・甲辰国民学校跡」という石碑が、ひっそりと建っています。
甲辰小学校は、1904(明治37)年の甲辰(こうしん・きのえたつ)年に設置され(開校は翌年)た学校で、校名は日露戦争開始を記念して名付けられました。
国民の熱狂的な支持を受けた日露戦争は、沖縄では立派な日本人になるための「踏み絵」のような役割を果たしました。出兵者の約1割が死傷したものの、この戦争を契機に県内の就学率が上昇し(昭和2年に99%に達した)たことからも、皇民化教育が「成果」を挙げたことがうかがい知れます。
県外からの転勤族の子弟も多い甲辰小学校は、県内有数のエリート校でしたが、昭和19年8月には疎開船「対馬丸」に乗船した学童100人余が犠牲となり、那覇市の9割が焼失した同年10月の「十・十空襲」で完全に校舎を失ったまま、現在まで再建されることはありませんでした。
戦争の時代につくられ、戦争とともに消えていった学校の名は、社会や政治の要請によって教育や学校が、容易に変質してしまう事を今に伝える意味でも、忘れてはいけないでしょう。
甲辰小学校は二重の意味で「悲劇の小学校」ではないでしょうか。
(三嶋)

大城勝君の作品調査
2013年3月24日 Category: Myある記 Comment : 0
昨年亡くなった大城勝君の遺作展を、1周忌にあたる11月に開催しよう、と仲間で考えています。
そのため、作品が置いてある大宜味の実家までみんなで行って、調査しました。
天地・左右が分からない作品が多く、結構みんなで悩みました(笑)が、作品の質はどれも高いと感じました。
(三嶋)

高倉の葺き替え2
2013年3月23日 Category: Myある記 Comment : 0
名護博物館の高倉葺き替え続報。
学芸員・職員・サポーター、一丸となって作業に取り組んでいます(あんまり変わってないか?)
中南部と異なり、山が身近な沖縄島北部(やんばる)では、さまざまな形で自然の恵を暮らしに取り入れてきましたが、戦後、私たちの社会は、その多くを不必要なものとして忘れ去ろうとしています。
失われつつある山の文化や、自然との共生の中で育まれたジンブン(暮らしの知恵)を、次代に伝えることも博物館の大きな役割のひとつでしょう。
また、アイデンティティの自覚という視点からも、 “ワッターシマ”の暮らしや文化の保存や継承に、地域住民も積極的に関わることが求められています。
(三嶋)

高倉の葺き替え
2013年3月20日 Category: Myある記 Comment : 0
名護博物館にある高倉が化粧直しをしています。
古くなった屋根を葺き替える大仕事で、材料のタケ(琉球竹)を集めたり、技術をもったお年寄りの助けを借りたり、博物館はこのところ大忙しのようです。
外野からは応援しかできませんが、手仕事の伝承という意味からも、しっかりとデータを残したり、後継者を育成したりして欲しいところですね。
(三嶋)

汀間の散策に行きました
2013年3月18日 Category: Myある記 Comment : 1
名護博物館主催のワークショップに参加し、名護市の汀間(ティーマ・ていま)に行ってきました。
汀間川にかかる嘉手苅橋の工事はまだ始まっていないようなので、対岸に渡り「1962年3月竣工」と刻まれているのを確認しました。カマボコ形の欄干のデザインが、何とも味があります。
汀間の集落は山原船の寄港地で、明治・大正期にはマキや炭、木材の積み出しでにぎわいました。
山原船は現在の三原の共同売店あたりまで川をさかのぼっていたようで、船の帆が引っかかるため、それまで橋は架けらなかったのでしょう。以前は渡し舟が使われていたそうです。
橋からも見える対岸の御嶽には、新しい鳥居が建っていますが、壊れた以前の鳥居が近くに置かれていました。注目はその中が空洞になっている点。資材不足を補うために木材を芯にしていたため、中が腐ってコンクリートだけになったんですね。
糸満市の金城善さんから聞いた話では、戦前の墓石や建築物には、竹や木材がよく使われたということでした。
御嶽からそのまま川沿いを歩くと、右手に山が見えますが、そこに猪垣(いのがき)があるというので見せてもらいました。
石を積み上げた大宜味や国頭の猪垣と異なり、盛り上げた土の上にテーブルサンゴを乗せた形です。放置されてかなり経つためか、崩れてしまい、それと分からないようなカ所もありました。
築かれた場所や長さなども、今では正確にわからなくなっているようですが、一部を見るだけでも、自然の力に抗いながら暮らしてきた、人々の執念のようなものがヒシヒシと伝わってきました。
(三嶋)
