繁多川のカーと真珠道
2013年4月29日 Category: Myある記 Comment : 0
那覇市繁多川は、首里城の南を流れる安里川を挟んだ反対側の高台で、識名霊園を少し含む地域です。
水が豊富な所として知られ、そのため昔から豆腐屋さんが多かったようです。
この日は、識名宮の近くにあるウフカー(大川)と、ボージガー(坊主川)に立ち寄りました。ボージガーでは、ザリガニや魚捕りに夢中の子供たちに遭遇。今では珍しい光景ですね。
カーの前の道は、守礼門から金城町を下り、識名坂を登って続く旧道、真珠道(まだまみち)。外敵の侵入に備えるため、那覇港と首里城をつなぐ軍用道路として整備されました。
大通りを横切り、識名霊園の方に向かって小道を進むと、三差路に解説板を発見。住民の地域に対する愛着がうかがえてイイものですね。
繁多川に関する記事は新聞でよく見かけますが、地域活動が盛んな所で、伝統文化の継承や在来種の再生などに積極的な印象です。教えられる事が多いので、これからも注視していきたいと思います。
(三嶋)
4.28県民大会
2013年4月28日 Category: Myある記 Comment : 0
4.28の政府式典に抗議する県民大会に出かけました。参加者の平均年齢の高さは、悲しいかな予想通り。
「沖縄を返せ」の合唱には少々うろたえましたが、復帰闘争のころから沖縄の位置づけは変わっていない分けですから、この歌もナツメロではないんですよね。リアリティーをもって再びこの歌が歌われる時代が来た事に、驚きと悲しみを禁じ得ません。
沖縄をめぐるワジワジ〜感を共有できる人たちが、少数派になりそうで不安を覚えるこの頃ですが、大会で見かけた先輩方のエネルギーに励まされる思いがしました。
(三嶋)
高良を歩きました
2013年4月21日 Category: Myある記 Comment : 0
那覇市小禄の高良地区は、現在の姿からは想像できませんが、戦後、大勢の人でにぎわった場所です。
部落の北西に位置する小禄飛行場を米軍が接収したため、自分の土地に帰れない人々があふれたのです。
交差点の写真に写る、右側のビル(1階がローソン)はかつて風呂屋で、その奥には映画館がありました。
この交差点(高良交差点)から、東に続く「高良市場」周辺が戦後の中心地で、さまざまな物が売り買いされたほか、料亭や食堂などもあったようです。1954(昭和29)年当時、小禄村の人口1万4400人のうち、7割強が高良に住んでいたと字誌にありますから、いかに大勢の人が暮らしていたかが分かります。
しかし、他字の人々が「新部落」を建設し、移動しはじめた昭和30年ごろから人口が減り、交通網の整備や商圏の移動が進むと、高良はもとの静かな住宅地へ戻ったようです。
現在、戦後の姿をしのぶものは見当たりません。
バス停に残る市場の名と、狭くて曲がりくねった路地だけが、往時の混乱と喧騒を伝えているようです。
最後に、集落の南側の高台にある小禄南公民館・図書館(旧小禄村役場)を訪ねました。屋上緑化を先取りしたユニークかつエコな建物です。スタッフからは地域に寄せる愛情が感じられ、イイ感じだったことを付け加えます。
(三嶋)
キャンプ端慶覧とデイゴ通り
2013年4月15日 Category: Myある記 Comment : 0
普天間デイゴ通り(県道81号線)から、キャンプ端慶覧内の外人住宅街をスーミしてきました。2001年に撮影した当時と違い、返還に向けて、今はゴーストタウンになっているようです。
基地内には戦前まで、新城、安仁屋、喜友名といったムラがありましたが、戦後米軍に接収されたため、住民は金網の外から、変わり果てた集落跡を眺めたといいます。
ところで、このデイゴ通りには現在デイゴはほとんどありませんが、かつては400本もの並木が続いていました(ボクは見てないけど)。
それは、普天間から焼失した松並木の再生を願い、ジロー・ベーカリーの店主・照屋さんがみんなに呼びかけて植樹したもので、松のかわりに県花の候補だったデイゴが使われたと「沖縄タイムス」1965.5.14にあります。
デイゴの花が咲き乱れると、夏の到来を実感したものですが、害虫の被害が深刻なためか、最近はあまり見かけなくなりましたね。
(三嶋)
ウガン森の住人
2013年4月13日 Category: Myある記 Comment : 0
名護市許田のインターから、国道58号に降りてくるカーブの左側には、名護湾に突き出た森があります。
地元でウガンムイ(御願森)と呼ばれるこの森に、自分たちで家を建て、自給自足に近い形で住んでいる夫妻の話が新聞に出ていました(沖縄タイムス1960.07.24)。
人が住めるような所には見えないと思いつつも、以前から気になっていたので、浜降り(大潮)の翌日、現場に行ってみました。
で、海側から森を見上げながらグルッと一周したのですが、文字通り「取り付く島もない」状態。
どうすれば、あんな所で暮らせたのか・・・まあ50年以上前の話だし・・・今度は地元の方に聞きに来ようかと思いつつ、不完全燃焼のまま引き揚げました。
社会が豊かになりはじめた当時、世間の人たちとは逆にスローライフを志向した人がいたことに、ボクは軽い衝撃を受けたのですが・・・どなたか情報をお持ちの方はいないでしょうかね。
森の頂きに近い場所に御嶽があったので、撮影させてもらいました。
(三嶋)