復帰前の庁舎
2013年5月31日 Category: Myある記 Comment : 0
中城村の庁舎は、ワトソン高等弁務官や松岡行政主席も出席するなか、1965(昭和40)年10月15日に竣工しました。
起工式は1964(昭和39)年11月11日。東京オリンピックが行われた翌月のことです。
総面積約810㎡。建設費6万ドル。村内初となるホールを2階に備え、中部一といわれたモダンな設計のこの建物は、キビ畑の真ん中に立つ「白亜の庁舎」として、注目を集めました。
国道329号の下に、隠れるような恰好になってしまった現在の姿から、竣工時の輝きは正直、感じられませんが、復帰前から半世紀にわたって、地域にある建物の歴史と価値は、決して減ずるものではないでしょう。
庁舎入口は、国道329号からシーサーを頂く正門を下った場所。どこが正面玄関かよく分かりませんけど・・・
三角の波形屋根をもつ建物が、当初からのもの。後年、右側に増築されてL字形になった(?)。
三角の波形屋根は、米軍関係の建物に多く見られますが、あの形は暑さ対策でしょうか? 専門家ではないのでよく分かりませんが、実利主義の米軍が、単なるデザイン性だけで採用するとも思えないし・・・
またひとつナゾが増えた感じです。
後ろ(東側)からの眺め。半円形の屋根の意匠は、三角の波形屋根に張り合ったのでしょうか。
(三嶋)

吉浜加那翁の胸像
2013年5月29日 Category: Myある記 Comment : 0
うるま市勝連の平安名と内間の境、JA前の馬場跡に、吉浜加那という人物の胸像があります。
平安名出身(明治16年生まれ)の吉浜氏は、1908(明治41)年6月18日、ブラジルのサントス港に入港した笠戸丸に乗っていた日本初のブラジル移民の中の一人です(781人のうち沖縄出身は325人)。
翌年には、沖縄人として初めてアルゼンチンに入国し、20年近く現地で働きました。その間に氏は故郷・平安名から多くの人々を呼寄せ、同村の発展に尽くしたということです。
この胸像は、アルゼンチンから20年後に帰村したあとも、村民の尊敬を集めた吉浜氏を讃えて設置されたもので、
1972(昭和47)年1月9日、盛大な序幕式が挙行されました。
ボクはこの胸像をネットで知ったのですが、現地に行くと、何やらゴツゴツしたタッチに見覚えが・・・帰ってから調べると、やはり、学生時代の恩師・玉那覇正吉先生の作に間違いありません。タバコとニット帽を手放さなかった先生の姿を、久しぶりに思い出したのでした。
それにしてもブロンズの像は古びて、あんまり手入れされていない感じです。
胸像が立つ敷地の門の上には、ペンギン? しかもクチバシが折れてるし。片っぽうは破壊されてるし。アルゼンチンにゆかりということで、シーサーの変わりに置いたのか? 真相はナゾです。
胸像のバックにある存在感タップリの建物。花ブロックも面白いし、垂直に屋上までのびる不定形の壁の意匠が、那覇市にあった少年会館(取り壊された)を思い出させます。
このところ、勝連方面にハマっているので、また、何かあればレポートしたいと思います。
(三嶋)

繁多川のカーと真珠道
2013年4月29日 Category: Myある記 Comment : 0
那覇市繁多川は、首里城の南を流れる安里川を挟んだ反対側の高台で、識名霊園を少し含む地域です。
水が豊富な所として知られ、そのため昔から豆腐屋さんが多かったようです。
この日は、識名宮の近くにあるウフカー(大川)と、ボージガー(坊主川)に立ち寄りました。ボージガーでは、ザリガニや魚捕りに夢中の子供たちに遭遇。今では珍しい光景ですね。
カーの前の道は、守礼門から金城町を下り、識名坂を登って続く旧道、真珠道(まだまみち)。外敵の侵入に備えるため、那覇港と首里城をつなぐ軍用道路として整備されました。
大通りを横切り、識名霊園の方に向かって小道を進むと、三差路に解説板を発見。住民の地域に対する愛着がうかがえてイイものですね。
繁多川に関する記事は新聞でよく見かけますが、地域活動が盛んな所で、伝統文化の継承や在来種の再生などに積極的な印象です。教えられる事が多いので、これからも注視していきたいと思います。
(三嶋)

4.28県民大会
2013年4月28日 Category: Myある記 Comment : 0
4.28の政府式典に抗議する県民大会に出かけました。参加者の平均年齢の高さは、悲しいかな予想通り。
「沖縄を返せ」の合唱には少々うろたえましたが、復帰闘争のころから沖縄の位置づけは変わっていない分けですから、この歌もナツメロではないんですよね。リアリティーをもって再びこの歌が歌われる時代が来た事に、驚きと悲しみを禁じ得ません。
沖縄をめぐるワジワジ〜感を共有できる人たちが、少数派になりそうで不安を覚えるこの頃ですが、大会で見かけた先輩方のエネルギーに励まされる思いがしました。
(三嶋)

高良を歩きました
2013年4月21日 Category: Myある記 Comment : 0
那覇市小禄の高良地区は、現在の姿からは想像できませんが、戦後、大勢の人でにぎわった場所です。
部落の北西に位置する小禄飛行場を米軍が接収したため、自分の土地に帰れない人々があふれたのです。
交差点の写真に写る、右側のビル(1階がローソン)はかつて風呂屋で、その奥には映画館がありました。
この交差点(高良交差点)から、東に続く「高良市場」周辺が戦後の中心地で、さまざまな物が売り買いされたほか、料亭や食堂などもあったようです。1954(昭和29)年当時、小禄村の人口1万4400人のうち、7割強が高良に住んでいたと字誌にありますから、いかに大勢の人が暮らしていたかが分かります。
しかし、他字の人々が「新部落」を建設し、移動しはじめた昭和30年ごろから人口が減り、交通網の整備や商圏の移動が進むと、高良はもとの静かな住宅地へ戻ったようです。
現在、戦後の姿をしのぶものは見当たりません。
バス停に残る市場の名と、狭くて曲がりくねった路地だけが、往時の混乱と喧騒を伝えているようです。
最後に、集落の南側の高台にある小禄南公民館・図書館(旧小禄村役場)を訪ねました。屋上緑化を先取りしたユニークかつエコな建物です。スタッフからは地域に寄せる愛情が感じられ、イイ感じだったことを付け加えます。
(三嶋)
