那覇市上之屋(うえのや)のこと
2013年6月2日 Category: Myある記 Comment : 0
「那覇新都心かわら板」に連載中の、「新都心を歩く」に上之屋のことを書きました。
那覇市上之屋は、北に隣接する字天久から1934(大正9)年に分離した字です。南は泊(以前は高橋町)、西は外人墓地の上あたり、東は安里と接する東西に細長い地域でした。
現在の国道58号にある上之屋交差点付近から、200mほど南に下った辺りまでが中心地で、今より西側を迂回する戦前までの道路(県道)沿いに、いろいろな店舗が軒を並べていました。
上之屋の繁栄は、久米と首里をむすぶ電車の開通を前に、潟原(現在の前島)にあった乗り合い馬車(客馬車)の駐車場が移転してきた、1913(大正2)年ごろから始まるようです。
1915(大正4)年6月には、那覇と名護をむすぶ国頭街道が開通したので、那覇と中北部を往来する人々が増え、その客をあてこんだ人々も各地から集まるようになり、いっそうにぎわうようになりました。
しかし、戦争の影が迫る頃から衰退しはじめ、沖縄戦と戦後の土地収用で、地域は破壊と混乱に見舞われました。
現在は大きく様変わりした上之屋ですが、それにしても、沖縄にはそんな地域が本当に多いですね。
(三嶋)

復帰前の庁舎
2013年5月31日 Category: Myある記 Comment : 0
中城村の庁舎は、ワトソン高等弁務官や松岡行政主席も出席するなか、1965(昭和40)年10月15日に竣工しました。
起工式は1964(昭和39)年11月11日。東京オリンピックが行われた翌月のことです。
総面積約810㎡。建設費6万ドル。村内初となるホールを2階に備え、中部一といわれたモダンな設計のこの建物は、キビ畑の真ん中に立つ「白亜の庁舎」として、注目を集めました。
国道329号の下に、隠れるような恰好になってしまった現在の姿から、竣工時の輝きは正直、感じられませんが、復帰前から半世紀にわたって、地域にある建物の歴史と価値は、決して減ずるものではないでしょう。
庁舎入口は、国道329号からシーサーを頂く正門を下った場所。どこが正面玄関かよく分かりませんけど・・・
三角の波形屋根をもつ建物が、当初からのもの。後年、右側に増築されてL字形になった(?)。
三角の波形屋根は、米軍関係の建物に多く見られますが、あの形は暑さ対策でしょうか? 専門家ではないのでよく分かりませんが、実利主義の米軍が、単なるデザイン性だけで採用するとも思えないし・・・
またひとつナゾが増えた感じです。
後ろ(東側)からの眺め。半円形の屋根の意匠は、三角の波形屋根に張り合ったのでしょうか。
(三嶋)

吉浜加那翁の胸像
2013年5月29日 Category: Myある記 Comment : 0
うるま市勝連の平安名と内間の境、JA前の馬場跡に、吉浜加那という人物の胸像があります。
平安名出身(明治16年生まれ)の吉浜氏は、1908(明治41)年6月18日、ブラジルのサントス港に入港した笠戸丸に乗っていた日本初のブラジル移民の中の一人です(781人のうち沖縄出身は325人)。
翌年には、沖縄人として初めてアルゼンチンに入国し、20年近く現地で働きました。その間に氏は故郷・平安名から多くの人々を呼寄せ、同村の発展に尽くしたということです。
この胸像は、アルゼンチンから20年後に帰村したあとも、村民の尊敬を集めた吉浜氏を讃えて設置されたもので、
1972(昭和47)年1月9日、盛大な序幕式が挙行されました。
ボクはこの胸像をネットで知ったのですが、現地に行くと、何やらゴツゴツしたタッチに見覚えが・・・帰ってから調べると、やはり、学生時代の恩師・玉那覇正吉先生の作に間違いありません。タバコとニット帽を手放さなかった先生の姿を、久しぶりに思い出したのでした。
それにしてもブロンズの像は古びて、あんまり手入れされていない感じです。
胸像が立つ敷地の門の上には、ペンギン? しかもクチバシが折れてるし。片っぽうは破壊されてるし。アルゼンチンにゆかりということで、シーサーの変わりに置いたのか? 真相はナゾです。
胸像のバックにある存在感タップリの建物。花ブロックも面白いし、垂直に屋上までのびる不定形の壁の意匠が、那覇市にあった少年会館(取り壊された)を思い出させます。
このところ、勝連方面にハマっているので、また、何かあればレポートしたいと思います。
(三嶋)

繁多川のカーと真珠道
2013年4月29日 Category: Myある記 Comment : 0
那覇市繁多川は、首里城の南を流れる安里川を挟んだ反対側の高台で、識名霊園を少し含む地域です。
水が豊富な所として知られ、そのため昔から豆腐屋さんが多かったようです。
この日は、識名宮の近くにあるウフカー(大川)と、ボージガー(坊主川)に立ち寄りました。ボージガーでは、ザリガニや魚捕りに夢中の子供たちに遭遇。今では珍しい光景ですね。
カーの前の道は、守礼門から金城町を下り、識名坂を登って続く旧道、真珠道(まだまみち)。外敵の侵入に備えるため、那覇港と首里城をつなぐ軍用道路として整備されました。
大通りを横切り、識名霊園の方に向かって小道を進むと、三差路に解説板を発見。住民の地域に対する愛着がうかがえてイイものですね。
繁多川に関する記事は新聞でよく見かけますが、地域活動が盛んな所で、伝統文化の継承や在来種の再生などに積極的な印象です。教えられる事が多いので、これからも注視していきたいと思います。
(三嶋)

4.28県民大会
2013年4月28日 Category: Myある記 Comment : 0
4.28の政府式典に抗議する県民大会に出かけました。参加者の平均年齢の高さは、悲しいかな予想通り。
「沖縄を返せ」の合唱には少々うろたえましたが、復帰闘争のころから沖縄の位置づけは変わっていない分けですから、この歌もナツメロではないんですよね。リアリティーをもって再びこの歌が歌われる時代が来た事に、驚きと悲しみを禁じ得ません。
沖縄をめぐるワジワジ〜感を共有できる人たちが、少数派になりそうで不安を覚えるこの頃ですが、大会で見かけた先輩方のエネルギーに励まされる思いがしました。
(三嶋)
