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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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小谷歩きpart3

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 旧佐敷村(現南城市)の字小谷(おこく)は、「チンシワイドゥクル(ひざを割る所)」と歌われたほど坂の多い、山の斜面にある集落です。
 これまで、地元の方々と一緒に2回の地域歩きを行いましたが、忘れたり見ていなかった所が少なくないことに気がつき、3度目の調査を一人で行ってきました。
 これから、現場で集めた話や文献資料をまとめ、地域マップに落としていきたいと思いますので、請うご期待というところ。

集落に登る坂の途中にある、「美ら石」付近から見た佐敷津波古方面。中城湾を見下ろす絶景ポイント。かつては、眼下に広がる水田から坂を登って家路につく村人が、この場所できまって一休みしたとか。

小谷の代名詞といえる竹と石畳道。文化財にも指定されているものの、ここだけになってしまった石畳道の状態は「放置」に近く、県下に知られた竹細工も1960年代末には姿を消したようである。

山側の道。小谷の背後に迫る山の向こうは旧大里村稲福集落で、かつては山道を往来する関係にあった。が、本土復帰ごろから押し寄せた車社会の到来で、小さな山道は無用のものとなり、いつしか両村の交流は途絶えたようだ。
(三嶋)

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安謝ある記

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 『しまたてぃ』(66号)の取材を兼ね、那覇市安謝を歩いてきました。
 案内は、字誌編さん員の普久原さんにお願いしました。
 安謝は新都心と隣接するマチ、というイメージを持っていたのですが、道幅以外さほど戦前と変わらないという筋道を歩くと、あちこちの御願所が今も大切にされていたりして(龕屋が残っているのにはビックリ!)、ムラの面影が随所に垣間見える地域でした。
 奪われた土地に造られた目の前の米軍基地を尻目に、たくましく戦後を生き抜いた人々の証しは、今はもう時間とともに埋もれてしまったようですが、かつての商店街を歩くと、あまたの人々の話し声や笑い声が、行き交う車の狭間から立ち昇ってくるような気がしたのでした。


今も残る龕屋(ガンヤー=死者を乗せるガンをしまう場所)。入口はブロックでふさがれ、封印されたまま。


安謝小学校の東側に走る「学道(がくどう)」。かつては、南(写真手前)に進むと基地のフェンスに遮られた。


高層の安謝市営住宅手前、現在、墓地になっている中ほどを、かつて基地のフェンスが東西に伸びていた。

軍道1号線(国道58号)下のトンネルを抜けた、西側地区にあった安謝劇場の跡。
1号線のかさ上げ工事で東西に分断された安謝は、トンネルを挟んだ通りに繁華街が形成され、安謝港で働く人々相手の飲食店や、料亭・旅館などが軒を並べてにぎわった。
(三嶋)

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『しまたてぃ』(65号)発刊

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 『しまたてぃ』(65号)が発刊されました。
 「戦後を歩く」シリーズでは、5月に行った旧石川市歩きをもとに、銀座通り・栄通り・南栄通りの歴史と住民の暮らしについて書いています。
 原稿がこちらの手を離れてから、あーすればよかった、こーすればよかったと後悔の念がわき上がるのはいつものこと。
 案内いただいた松田さんや、お世話頂いた宮里さんに喜んでいただけたので、ヨシとしたいのですが、甘い?

(三嶋)

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那覇新都心の変遷

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 那覇新都心は、沖縄の戦後を象徴する場所だと思う。
 沖縄戦による破壊と、米軍による収奪をへて返還された土地は、基地の跡地利用の成功例といわれるまでに経済復興を成し遂げ、日々増殖し続けているようである。
 70年ほどの間に起こった、農地→戦災→米軍基地→都市という目まぐるしい変化は、土地や景観だけにとどまらず、居住する人々にも大きな変化を強いてきた。米軍基地の跡地に出現したキラビヤカナなこの街に、かつての住民の暮らしをしのばせる痕跡は消え失せている。
 那覇新都心の誕生が大きな経済効果をもたらし、那覇市だけでなく沖縄県全域に大きなインパクトを与えた事を否定する人はいないだろう。しかし、この全国標準の金太郎飴的な新しい街に、違和感を覚えるという声は少なくない。
 「ヤマト化」が完遂すると、その違和感も過去のものとなるのかもしれないが、土地に刻まれた歴史だけは消してはいけないことだろう。
 モノや形が失われたのなら、なぜそうなったのかという物語を語り継ぐ事はできるはずだ。

 古島団地(モノレール古島駅近く)から、ほぼ同じ位置で写した新都心方面の写真に、変遷を見ていただきたい。


1995(平成7)年5月。整備事業が動き始めて3年目、返還が決定してから10年後の風景


1999(平成11)年12月。前年に開校した県立那覇国際高校が中央に見える。新町名「おもろまち」が6月に決定している


2001(平成13)年1月。左右にのびる舗装道路が県道251号線(新都心中央線)。左に進むと、翌2002年に開店したサンエー那覇メインプレスにいたる


2003(平成15)年1月。ビル建設が急ピッチで進んでいるころ。2002年入居開始の県営天久高層住宅が、写真左側に位置する


2005(平成17)年4月。現在の街並みがほぼでき上がっている
(三嶋)

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総会が終了し、ネット中継の話にジャンプ

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 地域文化支援ネットワーク(沖縄ある記)の、平成24年度総会が終了しました。
 出席は5人(残りは委任状提出)でしたが、名称の変更(「沖縄ある記」を正式名称に)や、副理事の入れ替え、今年度の事業計画などについて活発な意見交換が出来ました。
 また、今回はじめてやってみた、ネットのライブ中継に手応えを感じたので、今後も積極的にやってみようということになりました。
 そのためには、ヨンナーヨンナー続けられる体制や方法を固めることが重要でしょう。
 みんなで語り合える場をつくり、茶飲み話で盛り上ることを基本に、来られない人にも、その場の雰囲気をネットで味わってもらうという感じでしょうか。
 でも、茶飲み話を垂れ流すだけでは、怒り出す人がいるかもしれません。たまにはタメになる話を聞いたり、勉強したりするのも、イイんじゃないかということになりました。 
 という分けで、第1弾として急きょ、ブラジル帰りの金城さつきさんを実験台(?)に選び、かの地の様子や移民・移住者の話などについて、語ってもらおうということになりました。
 あんなこと、こんなこと、お土産話は山ほどあるようなので、みんなで(ツッコミを入れながら)語り合いましょう。
 当日のリアル参加、およびバーチャル参加へのご協力をお願いいたします。

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