糸満市兼城マーイ(まわり)
2013年11月10日 Category: Myある記 Comment : 0
南城市佐敷小谷の人たちと、糸満市観光協会の「あ・るっく糸満」を、兼城で体験してきました。
市内にいくつか設定されたコースのひとつで、地元の方(玉那覇さんと大城さん)の案内で、楽しく廻ることが出来ました。
兼城は、1961(昭和36)年10月1日に糸満町・高嶺村・三和村と合併するまで独立した村であり、現在も糸満市で一番人口が多い所とか。中国と交易を行っていた歴史や数多く点在する拝所、集落のあちこちに残る立派な石積みなどを見ても、歴史と伝統が横溢する地域であることが分かりました。
糸満では、旧市街地や発展が著しい西海岸に注目が集まりがちですが、こんなに興味を引かれる地域が近くにあったとは、まったく驚きです。
案内していただいた大城さんの住居。代々受け継がれた風格あるたたずまいが、圧倒的な存在感を放ちます。地域の暮らしがこの屋敷から見えてくる、と言っても過言ではない気がしました。
大城家を取り囲む石積みの一部。接合面をよく見ると、曲線や直線の組合せなどがあり、しかもそれらがみんなピタリと密着していることに気付きます。素晴らしいイシゼーク(石大工)の技量と、それを命じたエーキンチュ(豪農)の力に驚嘆させられました。また、ここまで凝った石積みにした理由は、耐久性もさることながら、腕を競う心理が彼らに働いたのではないかと勝手な想像を巡らしました。
(三嶋)

やんばるの川歩き
2013年10月21日 Category: Myある記 Comment : 0
名護市で行われた天仁屋川の川歩きに参加しました。
少しヒンヤリする水温でしたが、濡れながら川の中をジャブジャブ歩く感覚は、思えばずいぶん久しぶり。参加者も同じ気分なのか、ウキウキした様子でずんずん上流に向かって歩きます。
途中途中で島袋正敏さんの解説や実演もあって、それも聞き逃せません。
正敏さんの話からも、濃密だった川と人の暮らしは、自然豊かなこの地でも過去のものになっている様子。
かつての暮らしを記録することが、ここでも喫緊の課題のひとつといえるようです。
天仁屋川の河口から、上流の滝つぼを目指します。滑りやすい足下に気をつけながら、みんな楽しそうに川の中を歩いています。
三面張りが途切れるころから岩のゴロゴロ地帯が続きます。本土の河川を思わせるような光景ですが、見上げると亜熱帯の樹木が空を覆うように繁茂しています。
最終目的地の滝(名前を聞きわすれた)に着きました。直前にはかなりの傾斜のガケをよじ登ったりしたので、かなり達成感もあります。
写真左側に切れている斜面中腹には、ネコの額ほどの平地があり、大正期には水車が設置されていたそうです。沖縄で水車はあまり馴染みがありませんが、ここでは滝の水を利用した水車で、製糖を行っていたとのこと。
重いキビを背負ってガケを下り、でき上がった黒糖を詰めた樽(60〜70kg)を背負って再びガケを登っていた、との話に一同ビックリ。
たどり着くにも一苦労するようなこの場所で、人々はどんな思いで激務に耐えたのでしょう。
遠い時代の人々に思いを馳せました。
(三嶋)

工芸品調査
2013年9月28日 Category: Myある記 Comment : 0
沖縄市と名護市を中心に、モノづくり(工芸)の現場を訪ねてきました。
この分野にはあまり明るいとはいえませんが、このところ暮らしとモノづくりのリンクについて考えているので、たいへん勉強になりました。お相手いただいたみなさま、ありがとうございました。
森林資源研究センターで作られたデイゴの木片と子供用イス。「軽い」が「安全」「持ちやすい」につながることから、子供用の木製グッズを思いついたとか。可能性を感じました。沖縄を代表するデイゴの花もこのところあまり見ないので、デイゴ並木の復活も含めて地域おこしにつながらないか考えてみたいですね。
同センターで作られたガジュマルの木皿。木目が綺麗で重厚なイメージ。沖縄ソバ屋などでマカイ(お椀)として使い、木灰ソバ(ガジュマルを燃やした灰を使って作るソバ)を盛ると、ひとつのストーリーが成り立つので面白いんじゃないかなあ、と研究員の伊波さんがおっしゃっていました。
島袋正敏さんの「蔓草庵」を訪ね、古酒やバーキ作りの話をうかがいました。博学多才な正敏さんの世界に引き込まれ、モノづくりの神髄に触れたような気がします。これからもイロイロ学びたいと思います。
(三嶋)

第2回知念ある記
2013年9月24日 Category: Myある記 Comment : 0
南城市知念の字知念を歩いてきました。
前回お願いしていたこともあって、地元の方々10人ほどが参加されたので、あちこち歩きながらユンタクに花が咲きました。
残念だったのは、知念の方言をこちらがよく分からなかったことで、ニュアンスは伝わるんですが、仲間同士の会話を聞いていると、?が浮かぶばかり。う〜ん、ウチナー口は深いですね。
古い石積みと新しい家が混在しているような集落の中。夕方には、のんびりとしたアナウンスが拡声器から部落内に流れます。
字知念は北側にある平仲(ひらなか)と、南側の久美山(くびやま)に分かれています。写真は平仲の「中の道」そばにある拝所(根屋)から撮ったものです。
古い石積みで囲まれた知念ノロの屋敷跡。正面に見えるヒンプンは竹です。屋敷内にはノロが使ったというカーや、文化財指定のサキシマスオウノキが繁っています。この日はウルトラマンの顔に例えられる楕円形の実がたくさん実っていました。
久美山(くびやま)地域にある知念大屋(ウフヤ)の拝所。集落背後の山腹にある知念グスクの城主・知念按司と、知念ノロのウコール(香炉)を代々守ってきた家にある拝所です。知念按司の刀も伝わっていたそうですが、いつのころか盗まれたそうで、その替わりに泥棒が置いていったという錆びた刀らしきものが今も残っています。替わりの刀を置いていった泥棒って・・・律義なのか何ナノか不思議。
あちこちにたくさんあるヒヌカン(火の神)のひとつ。ヒヌカンのことは、知念ではカママーイとも言うそうです。平仲にも久美山にもたくさんあり、この日だけでも9ヶ所を確認しました。
数が多い分けを聞くと、昔から火事が多かったので、火の用心のためということでした。昔はカヤ葺き家が多く、火が着くとまたたくまに焼け落ちたとか。
しかし、知念に限らず、沖縄ではどこも同じ条件だったはず。なぜこれだけ火の神が多いのか、という疑問に対する答えとしては、少し弱い気がするんですが・・・。宿題です。
(三嶋)

名護の「やんばる山学校」
2013年9月19日 Category: Myある記 Comment : 0
中城の旗立て岩を見た日の夜、名護博物館友の会を中心に行っている「やんばる山学校」プロジェクトの、伊平屋島調査報告に出席。
ボクも実行委員会メンバーの一人だし、これまで何もしていないので伊平屋に同行したかったのでが、諸々の事業で行けず残念でした。「田名池再生プロジェクト」で数年前に訪ねていたことや、沖縄戦との関わりなどを調べていたこともあって、伊平屋はボクにとっても気になる存在でした。これを機に、またイロイロ勉強したいと感じた次第です。
熱心かつ気の置けない会話が飛びかった報告会(名護博物館ギャラリー)。
伊平屋村野甫島の飯井敏雄氏宅(現在は空家?)にあった慰霊碑の一部。旧日本海軍パイロットだった同氏は、昭和20年5月17日、伊平屋北方で撃墜・墜落したあと島民に救助され九死に一生を得る。戦後、その恩に報いるため同地に移住し、かつての仲間の供養も行っていた。写真は2011年撮影。
(三嶋)
