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「大山ターンムfanクラブ」の散策に参加しました

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 ひょんなきっかけで、「大山田芋(ターンム)fanクラブ」という、宜野湾市大山のターンムをこよなく愛する人たちと一緒に、現地を散策してきました。この場所はバードウォッチングに凝っていた10年ほど前、しばしば訪れた所ですが、周囲に建物が多くなったこともあって何となく足が遠のいていました。
 しかし、今回はfanクラブの仲村さんの呼びかけで、宜野湾市文化課の呉屋課長と生産者の伊佐さんという強力なガイド付きでしたので、楽しみながら学ぶ散策ができたと思います。
 お二人から聞く地元に伝えられている話や当事者ならではの体験談は、面白いだけでなく、地域への愛情があふれていて気持ちが和むものでした。当事者の話を現場で聞くことの醍醐味と重要性をあらためて感じますね。


 かつては海岸線だった場所。写真右側部分が1974(昭和49)年から埋め立てられた部分。両者の間は現在、コンクリートで三面が固められた溝(川)となっています。川沿いに続く護岸は、現在のような立派な道ではないものの戦前からあったようです。


 護岸に残る戦前の石積みと、戦後になって積まれたコンクリート・ブロックの境が分かる部分。


 ブルーのシートの向こう、木が生い茂っている付近にあるヒージャーガーから流れる水を利用して、階段状に開かれたターンムの畑(水田)。
 水のない溝(水路)が近くで確認できましたが、それは大雨の際、上部にある土を低い土地に運ぶための工夫だったとのこと。代々にわたって土を守り、土地(水田)を守ってきた人々の知恵と努力の跡ということです。
 何気なく見ていた畑ですが、上部から下流に流れる水を巧みに利用しながら、棚田として長年にわたって整備されてきたことに驚かされました。

 周辺の宅地化にともなって耕作地は年ごとに狭まっているようですが、畦道沿いの水路は清らかで、カニやメダカ(?)、昆虫や野鳥などもチラホラ。今でもまだこれだけの環境が残されているのは、ある意味「豊か」なのかも知れませんが、見渡せばすでに引き返せないラインを越えているのではないかと素人的には思えます。
 だからといって自然を残せ、農業を守れと無責任に言うこともできませんが、こういった問題を、これまでのように経済性優先の価値観で捉えていては、やがて究極の選択を迫られないとも限らないでしょう。
 そうならないためにも、生産者だけでなく、この地が置かれている状況を地域の問題として捉え、経済とは別のカテゴリーの中に新たな価値を見出すオルタナティブな実践が必要ではないかと考えます(言うのは簡単ですけどね)。

 fanクラブの仲村さんから当日いただいた地図に、情報を付け加えた改良地図を作りましたので、参考にしていただければ幸いです。
※地図は厳密なものではありません(修正点をご指摘いただければ助かります)


PDFを表示

(三嶋)

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ウチナーセーク親泊次郎さん

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沖縄の大工・棟梁として知られる、親泊次郎さんのお宅を訪問しました。
数年前には南風原の工房を訪ね、金武の観音寺の図面や大工道具などをお借りしたことがあり、70代後半という年齢をものともせず、緻密な計算をする集中力と作図の見事さに驚いた覚えがあります。
床に広げた大きな紙やベニヤ板に引かれた線が、尋常ではないクオリティを持つことは素人の自分にもはっきりと分かりましたし、そこに、少年期から現場でたたき込まれた経験と、独学で身に付けた専門知識が詰め込まれていることも、十分に推察することができました。


久しぶりにお会いした親泊次郎さんは、柔和なお顔がいっそう柔らかくなったようでした。
いろいろなお話を聞かせてもらいましたが、詳細はまたの機会に譲ります。もう少しこちらが勉強しなければ、うまく書けないと思うからです。


ベニヤ板に描かれた図面(板図)。寺社仏閣の屋根の反り(曲線)も、曲尺1本で割り出せるとのこと。サイン・コサインを使いこなす大工の技術と、今もフル回転する次郎さんの頭脳に驚くばかり。


那覇の町中に建つ、木造3階建ての次郎さんの自宅。京都から取り寄せたスギを使い、さまざまな技巧が駆使されていますが、若い人にその技を伝承したいと壁や天井の一部は取り外され、内部を見ることができるようになっています。写真はその3階部分で、寸分の狂いもなくさまざまな木が組み合わされていることが分かります。
木材の切り込みは地上に横たわった状態で入れられるため、大工には組み上がった姿を頭に描く能力が求められます。また、現場の状況や木材の状態に合わせて調整する能力も、棟梁には求められるとのこと。
培った技や知識を次世代に引き継ぎたいという、次郎さんの願いが実現することを願わずにはいられません。
(三嶋)

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大城勝遺作展が始まりました

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「大城勝遺作展 正方形の偶有」が、何とか期日に間に合い、12日から始まりました。
ツメが甘いのは昔からで、アレコレもう少しやれたかと多少の悔いがない分けではありませんが、今となってはどうしようもない話です。
しかし、12日の夜のオープニング・セレモニーには、学生時代の恩師や久しぶりに合う仲間も集合。卒業以来の再開に驚かされる人たちもいて、思った以上に盛り上りました。琉大美工科を70年代半ばに過ごした世代の、恐らく初めての同窓会的集まりになったのではないでしょうか。
これも、大城勝がつくってくれたものでしょうね。人の出会いや交流の大切さを、彼のお陰で再認識したような気がします。
(三嶋)

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糸満市兼城マーイ(まわり)

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南城市佐敷小谷の人たちと、糸満市観光協会の「あ・るっく糸満」を、兼城で体験してきました。
市内にいくつか設定されたコースのひとつで、地元の方(玉那覇さんと大城さん)の案内で、楽しく廻ることが出来ました。
兼城は、1961(昭和36)年10月1日に糸満町・高嶺村・三和村と合併するまで独立した村であり、現在も糸満市で一番人口が多い所とか。中国と交易を行っていた歴史や数多く点在する拝所、集落のあちこちに残る立派な石積みなどを見ても、歴史と伝統が横溢する地域であることが分かりました。
糸満では、旧市街地や発展が著しい西海岸に注目が集まりがちですが、こんなに興味を引かれる地域が近くにあったとは、まったく驚きです。


案内していただいた大城さんの住居。代々受け継がれた風格あるたたずまいが、圧倒的な存在感を放ちます。地域の暮らしがこの屋敷から見えてくる、と言っても過言ではない気がしました。


大城家を取り囲む石積みの一部。接合面をよく見ると、曲線や直線の組合せなどがあり、しかもそれらがみんなピタリと密着していることに気付きます。素晴らしいイシゼーク(石大工)の技量と、それを命じたエーキンチュ(豪農)の力に驚嘆させられました。また、ここまで凝った石積みにした理由は、耐久性もさることながら、腕を競う心理が彼らに働いたのではないかと勝手な想像を巡らしました。
(三嶋)

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やんばるの川歩き

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名護市で行われた天仁屋川の川歩きに参加しました。
少しヒンヤリする水温でしたが、濡れながら川の中をジャブジャブ歩く感覚は、思えばずいぶん久しぶり。参加者も同じ気分なのか、ウキウキした様子でずんずん上流に向かって歩きます。
途中途中で島袋正敏さんの解説や実演もあって、それも聞き逃せません。
正敏さんの話からも、濃密だった川と人の暮らしは、自然豊かなこの地でも過去のものになっている様子。
かつての暮らしを記録することが、ここでも喫緊の課題のひとつといえるようです。


天仁屋川の河口から、上流の滝つぼを目指します。滑りやすい足下に気をつけながら、みんな楽しそうに川の中を歩いています。


三面張りが途切れるころから岩のゴロゴロ地帯が続きます。本土の河川を思わせるような光景ですが、見上げると亜熱帯の樹木が空を覆うように繁茂しています。


最終目的地の滝(名前を聞きわすれた)に着きました。直前にはかなりの傾斜のガケをよじ登ったりしたので、かなり達成感もあります。
写真左側に切れている斜面中腹には、ネコの額ほどの平地があり、大正期には水車が設置されていたそうです。沖縄で水車はあまり馴染みがありませんが、ここでは滝の水を利用した水車で、製糖を行っていたとのこと。
重いキビを背負ってガケを下り、でき上がった黒糖を詰めた樽(60〜70kg)を背負って再びガケを登っていた、との話に一同ビックリ。
たどり着くにも一苦労するようなこの場所で、人々はどんな思いで激務に耐えたのでしょう。
遠い時代の人々に思いを馳せました。
(三嶋)

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