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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
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思い出の十貫瀬

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20年以上前、那覇市の十貫瀬(じっくゎんじ)にあった事務所に、しばらく務めていました。
毎日がせわしなく、寝る間も惜しんで働きましたが、不思議とあまり疲れなかったのは、まだ若かったからでしょうね。
今はジュンク堂になったダイナハにもよく通い、この写真を撮った「みどり駐車場」も、よく利用していました。


「みどり駐車場」の屋上からながめた風景。
空地の向こう、左右に延びる通りがかつての長虹堤跡(分からない人は検索してね)。モノレールも走っています。右端ギリギリに見えるのは、那覇新都心のツインマンション(のひとつ)です。


こちらは2000年4月の同じ場所。
このころから周辺の建物が取り壊され始めたので、撮影したような記憶がありますが、14年たってもあまり変わらないような気がするし、変わったような気もするし・・・。
そういえば、写真を右にパンしたあたりには、『死者たちの切り札』(あまり売れなかったのは弊社の装丁のせい?)の著者、十貫瀬和雄氏が経営する「カンヅメハウス」が一時期ありましたね。猥雑で物悲しい十貫瀬を愛するオヤジたちが、夜な夜な集まる場所でしたが、周囲がみょうにキレイに形を変えつつある昨今、老兵たちはどこへ行ったんでしょうか。行く場所あるのかな?


ビルの裏に、お墓や雑草が生い茂る空地が残っているのを見ると、みょうにホッとするのは何故でしょう。
きらびやかな表の世界が虚飾であることを、実はみんな知っていますよね。生と死が隣り合う日常こそ、沖繩らしい風景だと思うんですが、たぶんそのうちテナントビルやマンションが建つんだろうな。
(三嶋)

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招き猫

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事務所で飼ってる猫のバグが7月12日に天国に逝きました。
22歳と、人間に例えたら100歳越えの大往生になります。
招き猫として商売繁盛や招福といった役割を発揮してたのかは疑問だけど、むさくるしい事務所の中を癒してくれていて有り難い存在でした。
ちょっと寂しくなりますが、後任はクロが引き継いでくれるでしょう。


●昔作ったバグの日記「わらわはバグじゃ!」

(下地)

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渡嘉敷の村は静かでした

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国定公園に指定されたばかりの慶良間諸島・渡嘉敷に行ってきました。
何の準備もしない日帰りツアーでしたが、レンタカーであちこち走ったり村を歩いたり、充実したホリデーとなりました。この島は、思えば、大学1年生の夏休みにキャンプし、あまりの海の透明度に感動したところ。
今から数えると40年前(え!)になりますが、観光客やダイバーが増えた以外、島の姿は当時とあまり変わっていないように感じました(港や道路・建物は立派になってます)。
でも、道で出会った95歳(!)になるというお婆さんが言うには、「島は若い人が減って寂しい」とか。観光関連の仕事は増えても、第一次・第二次産業はこの島も苦しい状況のようです。


港から続く通り沿いの壁に描かれたペンキ画。手づくり感があふれ、訪問者を温かく迎えます。


阿波連小学校の前の道には、子供たちの描いた魚の絵が並んでいます(消えかかっているのが残念)。
在校生は20名ほどのようです(津堅島の小学生ぐらいでしょうか)。
すぐそばは阿波連ビーチで、目の覚めるような青い海と白砂が広がっていますが、半裸の観光客が小学校周辺をかっ歩する環境が、いいのか悪いのか複雑な気分になります。


典型的な沖縄の集落といった風情の昼下がり。歩いている人がいないのは、40年前と変わりません。
だって暑いもんなあと考えていたら、道の向こうから一人で歩いてくるお婆さんと遭遇。
あいさつすると、何と95歳で、しかも散歩中とのこと(え!)
体に気をつけて長生きしてくださいと別れましたが、上品な笑顔と語り口が印象的で、こちらも優しい気分になれました。
(三嶋)

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外人住宅がなくなる日

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事務所近くにあった外人住宅が取り壊され、更地になりました。
69年前の4月には日米の将兵が交戦し、多数の血が流された土地だという情報は、資産価値が下るだけにタブーでしょうか。
営業妨害を企てている分けではありませんが、戦後建てられた、米兵・軍属相手の貸し住宅(いわゆる外人住宅)が、壊されているのを見ると複雑な気持ちではあります。
負の遺産という捉え方も、耐用年数などの問題もあるのでしょうが、戦後沖縄を象徴する風景のひとつであるだけに、延命をはかるアイデアや別の活かし方がないものかと考えます。
また、戦後史のなかの位置づけや、建築史的な研究や検証がなされたのかも気になります(不勉強な私はあまり読んだことがありません)が、「外人住宅」が、戦後沖縄で生み出された建造物であったことは間違いありません。
スクラップ&ビルド的なイージーな手法ではなく、例えば保存・修復してアーティストのアトリエとして安く提供し、地域をアートビレッジにするような、住民参画で地域おこしにつながる文化・教育的な使い方なども、検討してもいいのではないでしょうか。
時間もないことだし、行政に期待しても無理でしょうから、「歴史的建造物として保存・活用しよう」というような、心の広い企業や篤志家はいないんでしょうかね。


南城市玉城で2011年2月撮影。琉球ゴルフ倶楽部西側に残っていた建物。現在、その後の再開発で取り壊されています。


空き家になった普天間のキャンプフォスター西地区。2013年6月撮影。返還後に琉大医学部の移転が計画されている。
(三嶋)

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なつかしの団地生活

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モノレール古島駅のすぐ近くにある古島団地を、久しぶりに訪ねました。
十数年前、自分たち家族が住んでいた所です。2LDKに子ども2人という家族構成。子供たちは団地内の保育園でお世話になり、近くの小学校、中学校に通い、お陰で元気に大きくなりました。
仕事に追われてバタバタと走り回り(今もだけど)、狭い空間で川の字に寝る毎日でしたが、子供たちが成長した今、あの頃が妙に懐かしく思い出されます。自分たち夫婦もまだ若かったし、子どもたちの成長を見守ることが、日々の活力になっていたんでしょうね。
また、近隣との付き合いが、当初は疎ましかったのですが、同じ環境に居ることの安心感や連帯感が生まれ、仲間意識が芽生えてきたのには自分でも驚きました。家族がいることで、ムラ社会の必然性のようなものを素直に受け入れられたのかもしれません。
とまれ、かつての時代にタイムスリップしたような、不思議なひと時を過ごしたのでした。


ほとんどの住人が転居した団地内。かつての我が家の前。


ガジュマルの大木が繁る団地内の広場。夏休みには、子供たちのラジオ体操に付き合いました。


今も営業中の文具店。店内は以前より寂しくなっていますが、10数年ぶりの再会に嬉しくなりました。
古島団地が、建て替え問題でゴタゴタしている様子は、新聞で目にしていました(ようやく和解が成立したとか)が、気になるのは一人暮らしの高齢者の処遇。行き場のない老人を見捨てるようなことのないよう、関係者には配慮して欲しいものです。
(三嶋)

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