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活動クリップ 屋慶名大綱引き〜宮城島

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旧暦6月15日の「6月ウマチー」に行われる屋慶名の大綱引きを見に行きました。
那覇方面は雨で心配してましたが、屋慶名は晴れ。天気同様、暑い綱引きでした。
帰りに涼を求めて宮城島へ寄り道。綺麗な景色で締められました。


(下地)

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屋慶名綱引き

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屋慶名の大綱引きに行ってきました。
ここでは西と東の二カ所で、二日に分けてやるそうですが、前日の熱気を引き継いだのか、最終日のこの日もすごい盛り上り。

屋慶名の綱引きで面白いのは、東西の綱の上に、若按司のほかに地域の子どもたちを乗せ、みんなで道ジュネーするところでしょう。
綱の上で踏ん張る子供や泣き出す子供、それを見守りながら一緒に歩く家族など、地域が一体となって祭を楽しむ雰囲気があふれていました。
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子供を綱の上に乗せ、通りを練り歩くのが屋慶名流。
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綱引き前に、東西の若者たちが体をぶつけ合うガーエーで、気勢を上げます。
屋慶名では「ヤーサイモー」というようです。
沿道から撒かれる景気づけの水と汗で、みんなずぶ濡れです。
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後方の人たちを置いてきぼりにして、雄綱と雌綱をつなぐ際の駆け引きが繰り広げられたあと、カヌチボウが入れられて接合すると、いよいよ綱引きがスタート。
大綱に取り付いた誰もが、力水と汗に濡れながら全力で引き合う1本勝負。
しばらくののち凱歌は西に上がりました。

屋慶名は1960(昭和35)年5月24日未明、チリ津波に襲われ集落の4分の1が水没しています。沿岸部に広がっていた水田が全滅し、稲作が途絶えた今、大綱引きのワラを調達することも容易ではないようです。

しかし、外部から取り寄せながらも地域一丸となってワラを綯い、大綱に仕上げてこの日をむかえたのは、人々の地域を思う気持ちが結集したからでしょう。
いつもは人影まばらな大通りですが、詰めかけた大勢の人々を見ていると、地域の意地と希望があふれているように感じたのでした。
(三嶋)

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国際通りをデモ

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戦争法案廃止を求める県民大会に出かけてきました。
県庁前広場の集会には間に合いませんでしたが、国際通りのデモに参加。蔡温橋手前まで夫婦で歩き、いい汗をかきました。

主催者発表で1500人ということでしたが、若者や赤ちゃんを連れた若いお母さんが目に付いたのは、身近な問題として敏感に反応したのでしょうね。
ボクも、彼女たちと同じ年代の娘や孫を持つ身ですので、国の行く末や身の危険を感じながらの子育ては、させたくないと願います。
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県庁前から出発するデモ隊。
がなり立てるヘイトスピーチの幼稚さに苦笑。
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国際通りでは道行く人とエール交換。
なかには観光客や、バスの中から手を振る人の姿もあって、思わずウルウルしたんです。
(三嶋)

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比謝橋の今昔

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比謝橋の模型を作った池原さんにちなんで、比謝橋の歴史をふり返ってみました。

比謝橋は、伝説の女流歌人・吉屋チルーが辻に売られる際、「うらむ比謝橋や情ねん人ぬ、〜」とよんだ1667年当時、まだ木造でした。その後、度重なる改修を経て1717年、石橋になったようです。

1909(明治42)年には県道が新設されますが、この道は比謝橋に続く天川坂(アマカービラ)が急すぎたため、西側に大きく迂回するほかなく、設計者にちなんで「シブヤマガイ(渋谷曲い)」とよばれていたようです。

比謝橋は、4つのアーチと1つの予備アーチをもったままの姿で、沖縄戦に生き残りました。
しかし、道幅の狭い石橋では物資の輸送に支障があったのでしょうか、1945(昭和20)年、米軍は石橋と並行して鉄橋を3本架けます。
そして道路拡張工事が行われた1953(昭和28)年、美しさを誇った石橋は壊され、現在の鉄桁コンクリートの橋が米軍によって造られたのです(工事は本土企業)。

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1945(昭和20)年4月から、米軍はベイリーブリッジとよぶ簡易な鉄橋を、石橋のすぐそばに3本架けました。写真では確認できませんが、一番上に見える橋の陰に石橋があるはずです。
<写真提供・NPO法人 琉米歴史研究会>

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現在の比謝橋は、1953(昭和28)年製。
橋には丸いリベットがたくさん見え、時代を感じさせます。
リベットは鋼材を接合する際、真っ赤に焼いたボルトを穴に差し込み、反対側を叩きつぶして固定させる方法。現在ではあまり見ないものだけに、建築史的にも貴重な資料ではないでしょうか。

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現在の比謝橋は還暦を過ぎたシニア。メンテナンスはされているでしょうが、沖縄島を南北に貫く要衝でもあるのですから、くれぐれもご自愛ください。
(三嶋)

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比謝橋の模型が完成です

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嘉手納町と読谷村の境にある比謝橋は、1700年代に架けられた美しい石橋が、戦後まで残っていました。

かつての姿は、今、嘉手納町青少年センターの入口付近に置かれた模型でも、ある程度想像できますが、その姿に納得がいかなかった池原芳英さん(読谷村古堅)は、自分の手で模型製作を思い立ちました。
建築士だった氏は、少年時代から比謝川や比謝橋を遊び場として育っただけに、正しい橋の形を残したいと復元模型製作に執念を燃やし、このほどようやく完成させたということです。

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読谷村立歴史民俗資料館に置かれた比謝橋復元模型(1/50)。
樹脂製とはいえ、重量感あふれる全長2メートルほどの模型は、迫力があります。上部の道幅が微妙に異なっている点や、写真では分かりにくいアーチの形を再現するのが難しかったとのことです。

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肩の荷を下ろしてホッとした表情の池原芳英さん。
ボクは7〜8年前に写真資料を提供して以来のおつき合い。
無事に完成して、こちらも安堵いたしました。おめでとうございます。
(三嶋)

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