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県民集会と国際通りデモ

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県庁前広場で安全保障関連法案の成立に抗議する県民集会と、国際通りデモに参加。
「戦争法案廃案!」「辺野古新基地建設断念!」「安倍政権退陣!」を求めて、声を上げてきました。
「何をしても無駄だ」というアキラメ感を持つことがダメですよね。
せめてこれくらいは自分にも出来るかなという思いです。
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<三嶋>

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住民自治の拠点としての公民館

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 今年で築40年となる、今帰仁村中央公民館を訪れました。
 この建物が建設された1975(昭和50)年9月といえば、沖縄中をかき回してその後もさまざまな禍根を残した、沖縄国際海洋博覧会が開催したばかりの時期。
 それ以前から、「伝統的な山原型」の土地利用を基にした今帰仁村のマスタープラン作りなどに関わっていた象設計集団と、その代表である大竹康市氏(故人)の手によって、開館にこぎ着けたものでした。

 大竹氏が、1977(昭和52)年3月23・24日付の沖縄タイムス新聞に掲載した文章によれば、村民が主体的に関わる村民センター的な施設を目指したとあります。
 その前提にあるのは「安易な大企業誘致や無理な公共投資による振興策にたよらずに、まず農業を中心に地場産業を育てて自立経済の基盤をつくってゆくこと」であるとし、「字単位にある住民の自治活動や優しい人間関係を積み重ねて新しいコミュニティーをつくってゆくこと」を目指したと書いています。

 戦禍ですべてを失った戦後が始まった時期、相互扶助はどの地域でも普通のことでした。それは生きるための術であり、その交流拠点として地域の公民館は重要な役割を果たしたと思います。
 しかし、本土では経済成長が進むにつれ、沖縄では本土復帰のころから地域社会は様変わりします。地域の相互扶助より個人の暮らしが優先されるようになり、セーフティーネットも機能不全に陥るようになったように思われます。
 
 今帰仁村中央公民館は、そのような時期、変容しつつある地域に住民がもう一度目を向け、自ら主体的に地域づくり関わることを主張した施設だったのではないでしょうか。
 それは、地域の価値を見直そうとする試みであり、野心的な実践だったと思います。

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緑の芝生と林立する赤い柱が、鮮やかなコントラストを描いています。
柔らかな曲線をもつ大屋根が強い陽射しを遮り、涼しい日陰を提供しています。
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芝生の庭とつながっている半屋外のスペース。学校帰りの子どもたちが集まり、宿題を広げている姿も見られます。誰もが気軽に利用できる理想的な空間でしょう。

以上、この施設の素晴らしさを書きましたが、以前は屋根を覆って咲き乱れていたブーゲンビリアが今は姿を消し、建物のあちこちに剥落や痛み、汚れも目立ちます。

補修費がつかないのか(よく知らないけど)、再開発事業のエリアになっているからか(よく知らないけど)、メンテナンスも不十分な建物の姿は見ていて悲しくなります。全国的に注目された歴史的な建造物でもあるし、価値ある建物の保存と活用がなされることを望みたいですね。
よもや、老朽化を理由に取り壊すとかはないですよね(よくある話だからサ)。
<三嶋>

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続アメリカ人の沖縄戦

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前回紹介した、デール・マハリッジ著『日本兵を殺した父』の続きです。

この本の後半、著者は沖縄に足を運び、父親とその仲間が戦ったシュガー・ローフや摩文仁などを歩き、沖縄戦を追体験しています。
そして、米軍が「ヒル27」と名付けた那覇市楚辺の丘を歩き、父親を苦しめた戦争後遺症(OTSD)の原因ともなった爆発現場を探し出します。

根気強く真実に肉薄する、その熱意には驚くほかありません。
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火炎放射器で焼かれた焦げ跡が見える、ヒル27に残る古い墓。

この本を読み終わり、著者が見つけたという現場を知りたくなったので、ボクも足を運んで古墓群の中を探してみたのですが、掲載された写真や文章だけではやはり突き止められず、やむなく引き返しました。
しかし、火炎放射器で焼かれたような焦げ跡が残る、古い墓があったので、現場は遠くないはずです。もう少し調べて、リベンジしたいと思いました。

それにしても、70年を経てなお多くの人々を苦しめる戦争の悲惨を思います。
家族をあの戦争で命を落とした人々や、苦しみながら戦後を生きた人々の魂は、はたして癒されたのでしょうか?

戦禍のなかで倒れた日米双方の兵士の多くは、仕方なく戦場に駆り出された市井の人々でした。勝者として帰還したにもかかわらず、それまでのような市民生活に戻ることが容易ではなかった著者の父親や、戦友たちの戦後を考えると、おびただしい数の人生を狂わす戦争を、呪わずにはいられません。
そして、一般市民も巻き込んで本土の「捨て石」となった沖縄では、今も戦後が続いています。
<三嶋>

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アメリカ人の沖縄戦

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デール・マハリッジ著『日本兵を殺した父』を読み、いろいろ考えさせられました。

著者は父親の死を契機に、父が体験したガダルカナル〜沖縄の戦いを長期にわたって調べ、帰還した兵士たちと家族の戦後に肉薄します。
彼らの多くは戦争後遺症(PTSD)で苦しみ、その家族にも陰鬱な陰を落としますが、赤裸々にあばかれるそんなアメリカの戦後は、これまであまり語られなかったのではないでしょうか。
戦争に勝利して帰還した兵士たちが、ほんとうに戦場で経験したことや、彼らが家に戻ったあとのことは無視されてきた、と著者は書いています。
戦争に勝者はいないということです。
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著者は父親の死後、戦友だった人たちをアメリカ中から探し、訪ね、彼らの戦争を追体験します。
12年をかけて行われたその追跡で、著者の家族を含めた兵士たち(ほとんど労働者階級出身)の、戦争に翻弄された人生や戦後の実像が明らかになります。
戦勝国の英雄譚や美談ではなく、あくまでも真実に迫ろうとする真摯な態度は、悲惨や怨嗟に満ちた戦争関連の書籍と一線を画すように思います(もちろんそれらの書籍に意味がないということではありません)。

著者の父親と同じく、兵士として戦ったボクの父親も心に闇を抱いたままだったか、何も語らないままずいぶん前に他界しましたが、どんな思いで戦後と向き合ってきたのか気になります。
そして、その体験を聞いていなかったことが悔やまれます。
<三嶋>

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1万ドルの貝

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「生きている化石」といわれる幻の貝、リュウグウオキナエビスをヤンバルで見ました。
1978年10月26日、沖縄で初めて捕獲された個体です。
場所は伊江島沖で、水深120mの地点でした。
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調べてみると、1969年8月には、同種の貝がフィリピンと台湾の間の深海で採れ、沖縄の青年が持ち帰って、「世界でわずか3個」と新聞で話題になっています。
また、記事中には、世界で2個目といわれる個体が、日本の水族館に1万ドルで買い取られたとあって、注目されました。

面白いのはそのあと、同年9月4日の琉球新報夕刊に掲載された、「ちっとも珍しくない“幻の貝”」「台湾漁民が大量採取」との記事。
それによると、前出の新聞を読んだ沖縄在住のコレクターが、自分も1個(もらったものを)持っていると名乗り出たほか、高値で売れた情報を知った台湾漁民が「それっ!」と採りに出かけると、たちまち200個以上が捕獲され、そのため相場が急落したとあります。

その後、沖縄初となる写真の個体が生きたまま捕獲されると、再び注目されるようになったので、今でも貴重な「幻の貝」であることは間違いないようです。台湾での価値がどうなったのか、はよく分かりませんが。
<三嶋>

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