糸満ある記
2022年2月26日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
コロナが少し弱まった感があるのでは、と勝手に解釈して、久しぶりの散策を行いました。
ヤーグマイ(家篭り)が続いて、結構キツかったため、お互い気をつけることを条件にすれば許されるかなと、大甘な解釈で踏み切りました(怒られるかな)。
でも、予想外に参加者が多くて、同じように考えている人が多いんじゃないかなあと、思いましたよ。
というわけで、今回は「糸満ある記」の報告です。
幸い、糸満市教育委員会にいた加島さんがガイドを引き受けて下ったので、嬉しい限り。
彼女は現在、「NPO法人ハマスーキ」という、ウミンチュ に関する資料保存や展示に関わっていて、その資料館もあるので丁度いいかとお願いした次第。
本部にいる中村英雄さんとも交流したいということだったので、今後も交流が深まればいいなと考えています。
散策のコースは、糸満海のふるさと公園から新しい道路を渡り→漁港、市場を抜け→ロータリー からサンティンモー(山巓毛)に登り→海人の住宅街を歩き→白銀堂にお参りして公園に帰り、最後にハマスーキが運営している資料館(海人工房)を見学するというもの。
天気もよく、気持ちのいい1日でした。

最近(でもないか?)できた新しい道路の下。見慣れないモダンなフォルムが新鮮でした。

糸満漁港。魚市場があった場所は更地になっています。
再開発なんでしょうが、少し寂しいですね。このあと行った市場も、古い建物がリニューアルされたりして綺麗になっていますが、昔やっぱり何だっか薄っぺらな感じが拭えない。住民の結論だから、外野があれこれ言うのも失礼ですが。

山巓毛(サンティンモー)に行ったが、そこで思い出したのが、琉米歴史研究会が所有する1950年に撮影されたとされるこの写真。戦前に使われていた梵鐘で、1958(昭和33)年5月8日付の沖縄タイムスが、「再びこの場所に吊るされる」と報じているが、写真は1950年撮影とされるため、食い違いがよく分からない。
知っている方がいれば教えて欲しいと公開した次第。

最後に訪れた「海人工房・資料館」の内部。
糸満は、ミーカガン(水中眼鏡)の発明やアギヤー(追い込み漁)で知られるように、漁業の町として黄金時代を築いた所。その漁具や漁法、地域ならではの暮らしや歴史など、次代に継承べきモノやコトはたくさんあふれている。海人の知恵や文化は沖縄の宝のひとつだけに、活動が今後いっそう発展するようエールを送りたい。
<三嶋>
手元からなくなりました
2021年4月13日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
昨年春から発売していた『沖縄の戦後を歩く』が、おかげさまで手持ちの分が完売いたしました。
ありがとうございました。

書店にはまだわずか残っていますので、購入希望の方はそちらでお求めください。
なんせ書籍販売はわれわれも初めてなので、当初は完売まで数年はかかるのではないかと心配していました。こんなに早く売り切ることが出来たのは、皆様のおかげでと感謝いたしております。
これに味をしめたわけではないのですが、たまたま次の出版計画も(嬉しいことに)持ち上がっていますので、それもまた、よろしくお願いしますね。
<三嶋>
1周忌と沖縄ある記
2020年7月18日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
先日、沖縄ある記の初代会長、國吉宏昭の1周忌に行って来た。
オシャレな身なりと、相反する飾らない言動で、多くの人に愛された人だった。アートと音楽をこよなく愛し、携わる若者(特に女性)に声援を送り続けた一生は、まだ若かったとはいえ、悔いのないものだったかもしれない。
國吉さんが生まれ育った那覇市神里原は、『しまたてぃ』に連載した「戦後の沖縄を歩く」の第1回目で取り上げた。隣の壺屋とともに、那覇市の戦後が始まった土地であり、國吉さんの生家である國吉ミシン店が誕生した所だったからだ。
そして、戦後の混乱期をたくましく生きる大人たちの姿や、復興していく街の風景が、國吉少年に多大な影響を与えたことが、彼の話からもうかがい知れた。
“アメリカ世”の沖縄を語れる先輩が、また一人消えたことに、改めて寂しさを覚えた。

神里原の大洋劇場跡を訪ねた、在りし日の國吉さん。2011年6月
その國吉さんと立ち上げたNPO法人沖縄ある記は、気心の知れた人たちと何となく繋がり、ユンタクしながら地域に携わる集団となることを目指した。
激しく主張したい分けではないが、失われゆく景観や社会に危機感を覚え、沖縄の行く末にいささかの疑問を持っていることは事実である。

定期的なユンタク会でグダグダと語り合う。2013年11月。
本土復帰後、急激なヤマト化と反比例して、それまでの沖縄の暮らしや景観は急速に失われ、今や絶滅が危惧される状態となっている。
グローバリズの流れは加速度的に全国を覆い、その末端に沖縄をも位置づけてきたが、コロンという予期せぬ出来事で、否応なく変化することが求められるだろう。
行き過ぎた資本主義の流れを変えるキッカケとなるなら、不幸中の僥倖ともいえる。自ら導いたものではないが、社会を変える前触れとして期待したい。一部の人だけが富を得るのではなく、みんなが安心して過ごせる共存社会の実現が理想だと思うからである。

「辺野古ある記」と題した自主企画。名護博物館にて反省会。2014年9月。
環境に負荷を与えない社会をつくる動きは、オイルショックで揺れた1970年代から目立つようになったが、自然との共存が当たり前の地域では、「昔に学ぶ」ということであろう。
自然との距離が開く一方の現在は、右肩上がりの成長曲線を疑い、社会の真の成熟を願って実践する時期といえる。
戦後社会は、モノを買い揃えることを豊かな社会と設定し、その実現に汗を流してきたが、置き去りにしてきた自然の豊かさや文化の価値が、今は切実に求められている。

「恩納村仲泊ある記」にて。2014年2月
国頭村奥の集落では昔、川から水を引く際には、ピーと呼ぶ掛樋(かけひ)を作った。それは50年以上を経たリュウキュウマツを山から切り出し、半分に割ってくり抜いたものだ。
かつては、50年以上先の子孫が使うことを考えて、木を植える祖先や集落があったし、そのようなスパンで地域の時間軸は設定されていた。

家々の写真を持ち寄り写真展の準備をする石嶺の人たち。2020年3月
だが、このような制度設計が通用しなくなったのはいつ頃からだろう。
便利で要領のいいライフスタイルを追求するあまり、街に住む人々の多くは、息絶え絶えになっている。
失われた自然や伝統も多く、ヤマトと同じ建物・景観が出現するようになって久しい。コンビニの陰でマチヤグヮーが消え、昔ながらの路地がコンクリートの街に変わり、語り合う住民の姿も減った。
これが、ボクらが望んだ社会?
そして、本当の豊かさなのだろうか?

石嶺の「地域写真展」。狭い会場だが多くの人々が集まり、ユンタクの輪が広がった。
<三嶋>
『沖縄の戦後を歩く』を発売します
2020年5月7日 Category: 沖縄ある記, 案内 Comments : 5
昨年の後半から執筆・編集をしていた書籍『沖縄の戦後を歩く』が、今月、ようやく発売の運びとなりました。
コロナの厄災でタイミング的には最悪ですが、「ステイ・ホーム」の有効利用でもありますよ。
本はA4サイズ、172ページ。
その内容は、一般社団法人しまたて協会が発行する季刊『しまたてぃ』に連載していた「沖縄の戦後を歩く」の25回分や、その他の事業で回った集落の情報、10人ほどの方々の書き下ろし記事なども加えて多彩です。
紹介地域に偏りがあったり、バラバラな印象が気になるかもしれませんが、われわれ「NPO法人沖縄ある記」の活動報告ともいえますので、お手にとっていただければ幸いです。

販売価格は1,800円(税込1,980円)。
一般書店で手に入らない場合はメール等でお知らせください。郵送いたします(送料のご負担をお願いします)。
よろしくお願いします。
<三嶋>
「谷茶あるき」が終了
2020年3月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
3月22日(日曜)、「谷茶あるき」を実施した。
谷茶は恩納村で一番小さな字のため、どのくらい参加者があるか心配したが、糸満、那覇から来る人もいれて20名弱が集合。ちょうどいいぐらいの人数に安心し、いつものようにユンタクしながらみんなで歩き回った。

谷茶集落の入り口を流れるメンカーに掛かる谷茶橋。道路はかつての県道。河口では戦前、山原船2隻が入って来るほどの広さだったという。手前にある新しい橋の建設記念碑には、1923(大正12)年11月建立と刻まれている。

集落を流れるもう一つのせせらぎ、シリンカーを見ながら地元の年配者の話を聞く。
もう少し東に行くと戦前に造られたミージマ橋があり、明治の大火を被った後は、この橋より東側に人家が広がったと文献にある。

静謐な空間が広がる「お宮」。御嶽に次ぐ集落の拝所とされ、行事の際に拝まれているが詳細はよく分からない。

小さな集落のため、見て回るのにさほどの時間はかからないが、地元の方の話を聞いていると、いろんなエピソードが出てきて面白い。地元でないと味わえない出会いと体験であった。
<三嶋>
