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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

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琉米歴史研究会の資料寄贈

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以前からボクが関わっている(現在は理事)NPO法人琉米歴史研究会が、写真資料などを中城村と北中城村に寄贈しました。今後は、三者で保存・活用することになります。

4月18日には、そのための記者会見が、両村の村長や教育長なども出席して開かれました。

これで、琉米歴史研究会の喜舎場さんも、枕を高くして寝られるんではないでしょうか。

おもにアメリカの個人から預かった写真の、保存問題にはかなり頭を痛めていましたからね。

また、NPOと行政が一緒になって、資料のアーカイブ構築を行うのもあまり聞いたことがないので、おそらく新しい試みになるんではないでしょうか。

ボクはこれまで、琉米歴史研究会が持つ約1万5000点ほどの写真のなかから、1万点ほどを使って画像データベースを作って来ました。しかし、一人で出来ることは限られていますから、行政の人たちの知見が加えられると、いっそう充実するだろうと期待しています。

ただ、一般公開するまでには、まだ数年かかるんじゃないかと思うので、それまで待っててもらわなければなりませんね。

これらの写真は沖縄各地で撮影されたものだけに、前述の2村だけのものではなく、いわば沖縄全体の財産ともいえるものです。それだけに、これからは、もっと県民に広く使ってもらえるようなものになって欲しいと願うばかりです。

今後ともよろしくお願いします。

中城村の護佐丸資料館で、マスコミの取材を受ける理事長の喜舎場静夫

<三嶋>

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名護ある記

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先月2月13日についで、復活地域ある記の第2弾、「名護ある記」を華々しく(?)実施しました。

ガイドは名護生まれの玉城一男さん。10年ぐらい前に帰郷して、ヤンバルに飽き足らずあちこち歩き回っているオジサンです。って失礼、ボクの大学の先輩だった(笑)。

名護は以前、仕事でよく来ていたし、このHPでも書いたことがあると思うが、歩くのは久しぶりでなんだか懐かしい。

あるきのコースは、漁港を出発して、そこから国道58号を横切って城に入り→名護市営住宅からみどり町を通り、→津嘉山酒造で説明を聞いたあと→十字路公民館そばを抜けて幸地川に出て、漁港に帰ってくるというもの。

名護はやはりヤンバルを代表する街のため、見どころは限りない。2~3時間ではやはりうわべだけの散策になったが、また来たくなったら第2弾、第3弾をやりましょう、と語り合った次第。

名護湾の美しさと、娘たちの情の深さを歌った「浦々の碑」のすぐそばには、城公民館。そのそばから北東に伸びる小道は、「会社通り」と呼ばれていたとか。
目の前に広がる名護湾にはかつて、那覇とむすぶ船が往来する港があり、周辺にはその倉庫や会社があったのだろう。その名残が「会社通り」なのだろう。
セメン瓦の民家もあるが、この瓦が台湾から名護に持ち込まれ、名護で生産されるようになったのは有名な話。
今も生産する工場が残っている。
会社通りから名護大通りに抜ける途中。ガイドの玉城さん(中央)も、この周辺で生まれたとか。かつては映画館が数軒あり、1957年にはそのうちの一つ、大丸映画館が焼失して大きな話題となっている。 しかし、現在、当時の繁華街の面影を残すものは見当たらない。
ヤギ肉の刺身や、ヤギ汁の自動販売機。600gで1500円とかが並んでいる。
ヒージャー好きにはたまらないでしょうね。
津嘉山酒造の屋敷内。昭和2年に建造された赤瓦の屋敷・工場で、今も昔ながらの泡盛「国華」がつくられているが、忙しい中、屋敷内を見せてもらい、解説を聞かせていただいた。少し前に国指定文化財に登録されて話題となったが、それだけの価値がある建物だと思う。
沖縄戦のころは米軍の司令部として使われたようで、その痕跡として柱に刻まれた「OFFICERS QUARTERS(将校宿舎)」の文字が残る。
沖縄県公文書館所蔵の、1945年当時の航空写真。中央下部に焼け残った津嘉山酒造が確認できる。周辺が焼き払われるなか、この建物が残ったのは、米軍が戦後処理の拠点とするためだったとか。抜け目のない米軍の思惑が、ここでは文化財の保護というイイ結果を産ん出したということだろう。

う~ん、名護はいろいろあり過ぎて、やっぱり見切れない感じ。

またやろうね、玉城さん。

<三嶋>

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糸満ある記

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コロナが少し弱まった感があるのでは、と勝手に解釈して、久しぶりの散策を行いました。

ヤーグマイ(家篭り)が続いて、結構キツかったため、お互い気をつけることを条件にすれば許されるかなと、大甘な解釈で踏み切りました(怒られるかな)。

でも、予想外に参加者が多くて、同じように考えている人が多いんじゃないかなあと、思いましたよ。

というわけで、今回は「糸満ある記」の報告です。

幸い、糸満市教育委員会にいた加島さんがガイドを引き受けて下ったので、嬉しい限り。

彼女は現在、「NPO法人ハマスーキ」という、ウミンチュ に関する資料保存や展示に関わっていて、その資料館もあるので丁度いいかとお願いした次第。

本部にいる中村英雄さんとも交流したいということだったので、今後も交流が深まればいいなと考えています。

散策のコースは、糸満海のふるさと公園から新しい道路を渡り→漁港、市場を抜け→ロータリー からサンティンモー(山巓毛)に登り→海人の住宅街を歩き→白銀堂にお参りして公園に帰り、最後にハマスーキが運営している資料館(海人工房)を見学するというもの。

天気もよく、気持ちのいい1日でした。


最近(でもないか?)できた新しい道路の下。見慣れないモダンなフォルムが新鮮でした。




糸満漁港。魚市場があった場所は更地になっています。
再開発なんでしょうが、少し寂しいですね。このあと行った市場も、古い建物がリニューアルされたりして綺麗になっていますが、昔やっぱり何だっか薄っぺらな感じが拭えない。住民の結論だから、外野があれこれ言うのも失礼ですが。

山巓毛(サンティンモー)に行ったが、そこで思い出したのが、琉米歴史研究会が所有する1950年に撮影されたとされるこの写真。戦前に使われていた梵鐘で、1958(昭和33)年5月8日付の沖縄タイムスが、「再びこの場所に吊るされる」と報じているが、写真は1950年撮影とされるため、食い違いがよく分からない。
知っている方がいれば教えて欲しいと公開した次第。

最後に訪れた「海人工房・資料館」の内部。
糸満は、ミーカガン(水中眼鏡)の発明やアギヤー(追い込み漁)で知られるように、漁業の町として黄金時代を築いた所。その漁具や漁法、地域ならではの暮らしや歴史など、次代に継承べきモノやコトはたくさんあふれている。海人の知恵や文化は沖縄の宝のひとつだけに、活動が今後いっそう発展するようエールを送りたい。

<三嶋>

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手元からなくなりました

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昨年春から発売していた『沖縄の戦後を歩く』が、おかげさまで手持ちの分が完売いたしました。

ありがとうございました。

書店にはまだわずか残っていますので、購入希望の方はそちらでお求めください。

なんせ書籍販売はわれわれも初めてなので、当初は完売まで数年はかかるのではないかと心配していました。こんなに早く売り切ることが出来たのは、皆様のおかげでと感謝いたしております。

これに味をしめたわけではないのですが、たまたま次の出版計画も(嬉しいことに)持ち上がっていますので、それもまた、よろしくお願いしますね。

<三嶋>

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1周忌と沖縄ある記

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先日、沖縄ある記の初代会長、國吉宏昭の1周忌に行って来た。

オシャレな身なりと、相反する飾らない言動で、多くの人に愛された人だった。アートと音楽をこよなく愛し、携わる若者(特に女性)に声援を送り続けた一生は、まだ若かったとはいえ、悔いのないものだったかもしれない。

國吉さんが生まれ育った那覇市神里原は、『しまたてぃ』に連載した「戦後の沖縄を歩く」の第1回目で取り上げた。隣の壺屋とともに、那覇市の戦後が始まった土地であり、國吉さんの生家である國吉ミシン店が誕生した所だったからだ。

そして、戦後の混乱期をたくましく生きる大人たちの姿や、復興していく街の風景が、國吉少年に多大な影響を与えたことが、彼の話からもうかがい知れた。

“アメリカ世”の沖縄を語れる先輩が、また一人消えたことに、改めて寂しさを覚えた。

神里原の大洋劇場跡を訪ねた、在りし日の國吉さん。2011年6月

その國吉さんと立ち上げたNPO法人沖縄ある記は、気心の知れた人たちと何となく繋がり、ユンタクしながら地域に携わる集団となることを目指した。

激しく主張したい分けではないが、失われゆく景観や社会に危機感を覚え、沖縄の行く末にいささかの疑問を持っていることは事実である。

定期的なユンタク会でグダグダと語り合う。2013年11月。

本土復帰後、急激なヤマト化と反比例して、それまでの沖縄の暮らしや景観は急速に失われ、今や絶滅が危惧される状態となっている。

グローバリズの流れは加速度的に全国を覆い、その末端に沖縄をも位置づけてきたが、コロンという予期せぬ出来事で、否応なく変化することが求められるだろう。

行き過ぎた資本主義の流れを変えるキッカケとなるなら、不幸中の僥倖ともいえる。自ら導いたものではないが、社会を変える前触れとして期待したい。一部の人だけが富を得るのではなく、みんなが安心して過ごせる共存社会の実現が理想だと思うからである。

「辺野古ある記」と題した自主企画。名護博物館にて反省会。2014年9月。

環境に負荷を与えない社会をつくる動きは、オイルショックで揺れた1970年代から目立つようになったが、自然との共存が当たり前の地域では、「昔に学ぶ」ということであろう。

自然との距離が開く一方の現在は、右肩上がりの成長曲線を疑い、社会の真の成熟を願って実践する時期といえる。

戦後社会は、モノを買い揃えることを豊かな社会と設定し、その実現に汗を流してきたが、置き去りにしてきた自然の豊かさや文化の価値が、今は切実に求められている。

「恩納村仲泊ある記」にて。2014年2月

国頭村奥の集落では昔、川から水を引く際には、ピーと呼ぶ掛樋(かけひ)を作った。それは50年以上を経たリュウキュウマツを山から切り出し、半分に割ってくり抜いたものだ。

かつては、50年以上先の子孫が使うことを考えて、木を植える祖先や集落があったし、そのようなスパンで地域の時間軸は設定されていた。

家々の写真を持ち寄り写真展の準備をする石嶺の人たち。2020年3月

だが、このような制度設計が通用しなくなったのはいつ頃からだろう。

便利で要領のいいライフスタイルを追求するあまり、街に住む人々の多くは、息絶え絶えになっている。

失われた自然や伝統も多く、ヤマトと同じ建物・景観が出現するようになって久しい。コンビニの陰でマチヤグヮーが消え、昔ながらの路地がコンクリートの街に変わり、語り合う住民の姿も減った。

これが、ボクらが望んだ社会?

そして、本当の豊かさなのだろうか?

石嶺の「地域写真展」。狭い会場だが多くの人々が集まり、ユンタクの輪が広がった。

 

<三嶋>

 

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