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ニクブクはムシロでムシロはゴザ?

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今月末に予定しているワークショップに向けて、城間光雄さんのギャラリー・木創舎(知念)でニクブクの勉強会を開催しました。
講師は那覇市繁多川公民館でも教えている与儀善邦さん。
材料は本来ならワラ(藁)やイグサ(藺草)なのですが、城間さんの提案で、サンニン(月桃)の茎を裂いた繊維を使ってやってみることにしました。継続的にやるなら、入手しやすい材料がいいし、サンニンの香りも効果的ではないでしょうか。

沖縄の敷物では、ニクブクのほかにムシロ(莚)があります。子供時分の記憶では、宮崎では前者をムシロ、後者をゴザと呼んでいたので、話が混乱していたんですが、調べてみるとどうやら呼称が違うようですね。

ニクブク(宮崎ではムシロ)は、庭先で脱穀などをする時に敷いたりしたもの。以前は普通に自作したそうですが、1960年代中ごろから需要が減って、急速に姿を消していったと思われます。そのころ田んぼがサトウキビに替わって、ワラの入手が困難になったことも一因でしょうか。

しかし、子供の時には自分も作っていた、とか見ていたという人は以外に多いため、今のうちに聞き取りを行ったり、できれば技術も伝えられるようにしたいとの希望も込めて、今回の講習会となったのでした。

実際にやってみると、思いと現実のギャップに打ちひしがれたのですが、なるほど難しいというのが分かっただけでも収穫でしょう(と負け惜しみ)。いつかリベンジを果たしたいものです。
DSCF9280
小さな練習用キットを作り、編み方を説明する与儀さん。サンニンの繊維を小さな束にして、ねじりながら縦糸を前後ではさむように織っていきます。
見ていると簡単そうなのですが、やってみるとこれが難しいんです。
昔は三畳敷き(約180cm×約270cm)が普通だったようですが、気が遠くなる大きさです。

ムシロ織り
戦後の暮らしが分かる写真の一枚(写真提供:NPO法人 琉米歴史研究会)。
女性が編んでいるのは、ムシロ(宮崎ではゴザ)でしょうか。家の柱と柱のあいだに横木を取り付け、大きな機のようにして編むことが多かったようです。

原料にはイグサなどの植物が使われ、夏の夜などにはその肌触りが寝苦しさを軽減させてくれたものですが、防犯上からも窓を閉めてクーラーを使うことが当たり前になると、影が薄くなった感は否めません。

うるま市照間などは今でもビーグ(イグサ)の産地として知られますが、かつては沖縄中でつくられ、特産品として本土に出荷されていたこともあるだけに、消滅させてしまうのは惜しいように思います。
新聞
1965年9月10日付の沖縄タイムス「おらが村の特産盛衰記(1)」では、上記写真とともに、糸満町(現糸満市)兼城では、イグサがキビにつぐ換金作物と紹介しています。
しかし、このころから生産に陰りがみられるようになり、その後、同地からムシロつくりは消滅しました。
<三嶋>

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今帰仁村の中心はどこでしょう?

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今帰仁村といえば今帰仁グスク、古宇利島、仲原馬場などが浮かぶと思いますが、その中心は村役場がある仲宗根、なかでもAコープや大井川橋ふきんになります。
知ってました?
知らなかった人も、知ってた人も『しまたてぃ』No.74の、好評(ほんとか)連載中「沖縄の戦後を歩く」シリーズを読めば、いろんなことが分かりますよ〜と宣伝です。
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今回取り上げた大井川橋周辺は、再開発事業が進行中の場所。
昭和の街がどんな風に変わるのか興味津々ですが、地域の歴史や人々の思い出は大事にして欲しいもの。
ツルンと小奇麗なだけの街にはして欲しくないんですが、そうなるんだろうなあ、おそらく。
<三嶋>

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スクガーで植物観察会

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スクガー(南城市知念)集落跡で、植物調査を実施しました。
参加者は「キバナノヒメユリを守る会」のメンバーに、いつもの顔ぶれ。先生は樹木医の屋比久勉さん。スクガーに最後まで住んでいたという照喜名さんも一緒です。

目的は、来月に予定されるスクガーマーイに合わせたマップ作成のため、その調査・下見というところ。
植物名を書いたプレートを取り付けようとの声も上がっていたため、情報収集でもあったのですが、こちらの思惑はあっさり撃沈。
山に入るとみんなバラバラに動き、勝手に喋り、人の話を聞かないんですよ。
ひっきりなしに思い出話も飛び出ると(しかも面白い)、ついついこちらも引き込まれ、聞いているうちに記録をとる気も失せてしまったのです。

また、植物名もなかなか覚えられず、覚えた名前もすぐ忘れるし。あっちで見た木と、こっちの木が同じか違うか分からなくなりテンヤワンヤ。
方言名は入り乱れ、食い違い記憶違いで情報は錯綜するし、もう喧々諤々がエンドレス。とほほな体験学習だったのですが、みんなが楽しそうだったのでまあいいか。
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いろんな樹木の話が飛び出すものの、実物と名前を一緒に覚えるのが難しい。
記憶力の衰えに愕然とします。
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子供のころは、根っ子の丸い玉のような部分をかじって水の代わりにしたと年輩者の話。
地域には、地域ならではの自然との付き合い方があったはずです。が、そこにあったはずのジンブン(知恵)は、ほとんどが過去形になったのではないでしょうか。
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スクガーの植物相などの解説を、屋比久さんから教えてもらって勉強会はお開き。

学術的な話ではなく、暮らしに根ざしていた植物や自然環境の話が興味深く、面白く感じますね。身の回りにある素材を上手に取り込みながら、自然と共生してきたのが日本の生活文化といえるでしょうし、その土地と環境に合わせた暮らしや文化が、かつては各地に根付いていたはずです。
今日の私たちの社会では、自然と暮らしが分離してしまいましたが、かつての暮らしをノスタルジーで語るのではなく、防災や環境保護に活用していくような、新しい視点や実践が今こそ必要な時期ではないかと感じます。
<三嶋>

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活動クリップ 今帰仁村仲宗根

 Category: 沖縄ある記, 活動クリップ  Comments : 2


しまたてぃの取材に同行して今帰仁の仲宗根を歩いてきました。
最終的にはコンテンツとして完成しますが、こちらは短いクリップ動画です。
活動の履歴として後で見直せるように「活動クリップ」としてアウトプットしていこうかな思ってます。


(下地)

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屋慶名ある記

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


『しまたてぃ』(60号)の取材をかねて、屋慶名ある記を実施しました。

屋慶名というと、路線バスでよく見る地名ですが、屋慶名線(27番)を利用する人でも、終点まで乗ったという人は、そう多くないでしょう。
そこでこの際、意外に知られていない屋慶名をみんなで学ぼう!と、地元の上門(うえじょう)さん・森根さんの案内で、あちこち散策した次第。

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屋慶名港で話す上門(うえじょう)さん。色の黒さ(失礼)と、豪快な笑いが持ち味の、屋慶名を愛して止まない闘牛フリーク。

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屋慶名港の南西部に広がる農地。
何の変哲もない土地ですが、ここには1946年から翌年初めにかけて、金武村屋嘉の捕虜収容所から移動してきた、朝鮮人捕虜が収容されていました。

約1万坪の土地にいくつものテントが張られ、200〜300人の元軍夫が暮らしていたようですが、住民は具志川前原に収容されていたことから、接触したり目撃した人はいないとのこと。
しかし、収容所が撤去されたころ、上門さんのおじいさんが近くにあった祖先の墓に行ってみたところ、元軍夫と思われる遺骨5柱が置かれていたため、それから毎年、花や線香をあげて供養していたそうです。
そして27年後の1972年8月、来島した調査団関係者に遺骨は引き取られたのですが、この地にあった収容所の詳細は今もって分からないようです。
※参考:沖縄タイムス1972.8.28

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また、朝鮮人捕虜収容所跡地のさらに西側には、“チャイナ部隊”とよばれた中国軍(国民党)の陣地がありました。
地元以外ではほとんど知られていませんでしたが、昨年、識者による共同研究の成果が新聞で報道されてから、注目を集めるようになりました。

上門さんに案内された写真の場所がその跡地で、あたり一帯が陣地だったようです。
上門さんによれば、部隊の隊長の家がこの丘の上にあり、写真中央手前に見える、草に埋もれたコンクリートの箱のようなものが、その家の浄化槽だったそうです。

チャイナ部隊については、前述の朝鮮人捕虜収容所と同様、詳細が分かっていないため、これからの調査や研究が待たれます。
また、われわれも、お手伝い出来ることがあれば、参加したいものだと思いました。
※参考:沖縄タイムス2014.5.6、5.20〜5.22
(三嶋)

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