謝苅を歩きました
2015年11月15日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』連載「戦後の沖縄を歩く」で、2回目の謝苅取材を行いました。
前回は晴天の暑い日で、10名が同行しましたが、今回は曇り時々雨という生憎の天気。
教育長の玉那覇さん、前町長の辺土名さんといった、偉い方々に案内してもらうということで、ビビリながらでしたが、何とか一巡りして終了。ホッとしました。
謝苅(ジャーガル)は、「ジャー」が「蛇」を連想させるのか、耳に残る独特の響きが気になりますよね(ボク一人かな?)。
しかし、こちらの勝手な思い込みとは関係なく、調べてみると、この地が沖縄の置かれたいびつな戦後史を映し出す、鏡のような場所のひとつだということが分かってきました。
中央左の三角屋根が元の謝苅琉映、その右上の段々になった屋根がナポリ座跡。
頭の上を車が走るような狭隘な土地ながら、肩を寄せ合うように戦後を生き抜いてきた人たちの絆は強く、コミュニティは健在なようです。
県道24号線が走る謝苅三差路。
シャッターを閉める店が多いなか、今も幸地書店が頑張って営業を続けています。中央の道に入るとすぐ左に旧ナポリ座が見えます。
謝苅三差路の東南部に広がる住宅街。左の建物がユーフル屋(謝苅湯)跡。
集落の南を流れる白比川の近く。この場所に、北谷町唯一の泡盛工場、「北谷長老」がかつてあったようです。近くにはダンスホールや料亭もあって、にぎやかな一角だったと聞きましたが、今ではウソのような静けさが広がっていました。
戦後、米軍基地に土地を奪われた北谷町の住民は、ほとんどが傾斜地の、小さな山間のこの土地に居住するしか術がなく、1万人を超える人々であふれたといいます。
現在は、若者や観光客でにぎわう西海岸と、沖縄市を結ぶ道(県道24号線)沿いにある通過点、といった認識しかないかもしれませんが、最近まで町役場もあった謝苅は、戦後の北谷町の政治・経済を支えてきた中心地でした。
道沿いにあった商店や飲み屋が減少し、多くの人でにぎわった通りに人影はまばらとなりましたが、混乱と困窮の戦後を生き抜いてきた、バイタリティーあふれる人々のDNAは今も息づいているはず。先人の労苦やジンブンを推進力に、明日を切り開いて欲しいと願いました。
<三嶋>