喜瀬武原あるき本番
2017年3月4日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
喜瀬武原あるき本番。どれだけの人が集まるか、直前まで心配でしたが、区長はじめ地域のお年寄りや子供達も参加。結果オーライでしたね。
農村広場に集合し、顔合わせして出発。
散策にはうってつけのいい天気ですね、と知り合いになったお婆さんに声をかけると、だから彼岸用のキクの出荷でみんな忙しいとのこと。この数日がそのピークのようで(知らんかった)、思ったより参加者が少なかったわけが判明した次第。
戦時中の弾の跡が残る壁。何気なく呟いたお婆ちゃんの一言で、みんなビックリ。地元の若いお母さんも知らなかっ田とか。
すぐ近くの拝所、御待毛(ウマチモー)でも、以前の古い祠に弾痕があったということです。
喜瀬武原公民館の名が壁に残る建物の前で休息をとりながら、体験者の話を聞きました。ここには以前、共同売店や精米所もあり、薪や木炭の集積場にもなっていたため、ムラの人たちがいつもユンタクする和みの空間だったようです。
「陸の孤島」と例えられる時代が続いたこの地で、人々は多くの労苦を重ね、現在のムラを築いて来ました。身をもって体験した方々は今、誇りとともにその歴史を子供たちに伝えようとしています。
<三嶋>
喜瀬武原(キセンバル)をあるく
2017年2月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
一昨年、恩納村の集落あるきを2ヶ所(仲泊・字恩納)で実施しましたが、今回、その続きを喜瀬武原で行うことになり、事前調査に行ってきました。
歴史が浅い屋取集落ということは、前回調べて知っていましたが、「とはいえ今度は何か見つかるかも」と歩いてみた結果、期待は見事に打ち砕かれました。
う〜ん。
こうなれば、聞き込みしかないですね。
集落のほぼ中央。
のどかなキャベツ畑の向こうに見えるのが、キセンバル闘争で知られるようになったブート岳。
かつては住民や学生たちが激しい抗議運動をおこない、連日、新聞をにぎわしていたことを思い出します。体を張った彼らの抵抗に、喝采を送っていた人たちも多いでしょう。なので、“キセンバル”と聞くと、何か熱くなる気がしますね(ボクだけか?)。
かつての公民館。1階は売店です。
店の前の県道104号線を飛び越えて、かつては105mm大砲の実弾射撃訓練が行われていたのですが、実は小火器の射撃は今も続いていて、工事現場の騒音のような発射音が集落からも聞こえます。
そういえば、金武町に行った時も聞こえていたなあ。
日常に同化して見えにくくなっている戦争に、こちらも馴れてしまっているのだなと反省です。
<三嶋>
渡久地をあるく2
2017年2月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
本部町渡久地のレポート第2弾。
今回は一人でぶらつきました。
細い通路で区切られた町営市場のなか。
薄暗くて、足を踏み入れるのに躊躇しますが、若者が立ち上げたとおぼしき小さな雑貨店などあって、掘り出し物を捜す人にはいいかも。
町の衰退を食い止めるべく、いろんな企画やイベントが行われている所なので、少しでも貢献したいところでしたが、この日は(も?)金がなかったので、ヒヤカシに終わってしまいました(トホホ)。
街のなかで見つけた戦後史を物語る塀。
丸い穴が規則的に並ぶこの鉄板は、たぶん米軍が使っていたもの。正式名称は知りませんが、ぬかるみや滑走路などで、足下を固めるために敷き詰めていたものですね。たぶん。
満名川に架かる第一渡久地橋(昭和50年3月竣工)。
本部市場から北に抜ける古い方の橋ですが、もとはこちらが大通りで、蔡温時代に最初の木橋が造られています。
戦災にもあわず、戦後も石橋が残ったのですが、橋の向こう側の急なカーブを、米軍の大型トレーラが曲がり切れずに転倒したそうで、その後、新しい橋が渡久地十字路から北に続く道に架けられました。
満名川河畔。
1946(昭和21)年9月、戦後初の水産関係教育機関、沖縄開洋高等学校が開校した所です。
バラック小屋が2〜3棟と、米軍払い下げのコンセットがあるだけの貧弱な校舎でしたが、沖縄各地から集まった60名の若者たちが、海の男になる夢をもって勉学に励んでいたそうです。
しかし、学校はその後、那覇市泊に移転、沖縄水産高校と改称して再出発します。
本部町民は期待を裏切られ、肩を落としたといいますが、幻の学校を知る人も、今となってはほとんどいなくなったようです。
今回はこれまで。次があるかな?
<三嶋>
中村英雄さんと渡久地をあるく
2017年2月8日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材で、本部町健堅に住む中村英雄さんと、町の中心地である渡久地界隈を歩きました。
渡久地は、戦前から本部半島で一番のマチで、カツオ漁や町営市場、岸本食堂など、ネタはたくさんあります。
そこに、中村さんの体験談も加わるため、紙面に納まり切らないかも…と心配になりました。
本部に行く前に立ち寄った、名護市場にあるギャラリー「スケッチ」前の広場で食べた昼食。
隣の食堂から取り寄せた料理ですが、戸外でユンタクしながら、別け合って食べる味は格別でした。
※試みられる方は、ハンパナイ量なのでご注意を。
本部町市場の角に立つ復帰前の道標。起点羽地村、終点本部町とあり、側面にはR124(軍道124号)と刻まれています。
通りの向いの路地には、超有名店・岸本ソバがありますが、あいかわらず観光客でいっぱい。行列が途切れません。
ここから、中村さんと一緒に伊豆味線を歩き、満名川に出て、川沿いに市場に戻り、港まで往復というのがこの日のコース。
見どころ満載で、面白い所だらけという感じでしたが、88歳になる中村さんのシャベリと元気な姿が、一番の見どころだったかも。
ウミンチュのDNAか、追込み漁やダイビングで鍛えたせいか、丈夫な体と衰えない記憶力にはビックリでした。
渡久地港を歩く中村さん。
カツオ漁でにぎわった町も、今は1隻が漁を続けるのみとか。
マキが積み上げられた戦後の渡久地港(写真提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
漁港であると同時に貨物の中継港でもあり、やんばると那覇をむすぶ重要拠点として機能していました。
まだまだ続きます(たぶん)。
<三嶋>
久手堅の豊年祭
2017年1月30日 Category: 沖縄ある記, Myある記, スクガー事業 Comment : 0
字知念の公民館で、地域作品展を先日行いましたが、そこで公開した写真の1枚が、久手堅で撮影されたものではないかと数人から指摘がありました。
そこで、この日、字知念の前城さんと確かめた次第で、その結果、指摘された通り、写真は久手堅にある知念中学校の、グランド付近だろうということになりました。
撮影ポイントを探す前城さん。
背後の山の形や、土手の位置などが新旧同じだと思われます。
NPO法人琉米歴史研究会が所有するこの写真は、撮影時期(1950年代初頭)しか情報がなかったので、場所が分かっただけでも嬉しい限り。
豊年祭の一コマと思われますが、同時に撮影されたらしい別の写真も残されているので、今後はそこに写る人たちの何人かでも、どこの誰かが判明するといいんですけどね。
<三嶋>