『しまたてぃ』No.80が発刊されました
2017年4月25日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
今回は本部町渡久地の市場や十字路界隈、満名川周辺を、中村英雄さんの案内で歩き、氏の体験などを交えながら、戦後の町の変遷を書いています。是非ごらんください。
しかし、今季号で特に読んでいただきたいのは、「沖縄の公共建築を考える」と題した特集のなかにある、戦後の建築史年表(みたいなもの)。ボクの原稿を下地吉高がうまくレイアウトしてくれたので、「読んで面白い年表」が出来た(しかも8ページも)と自負しているのです。
沖縄戦後の建築史は、2011年に県立博物館・美術館で「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」を開催したことがきっかけとなり、かなり関係資料を集めていたので、ページに納まるよう割愛するのに苦労しました。紹介できなかったネタも多かったんで、それが少し心残りですね。
<三嶋>

本部追伸
2017年3月16日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の追加取材と、場所がわからなかった琉米歴史研究会所蔵の写真のひとつを確かめようと、本部町に行って来ました。
背後に見える島が、右端の形から瀬底島ではないかと玉城一男さんが指摘していましたが、比べてみると見事、ピタリと一致しました。
ずっと恩納村の名嘉真ふきんではないかと考えていたので、けっこう驚きました。思い込みはいけないですね。
次に、写真左の松が生えた岩はどこだろうかと探した結果、次の場所ではないかと思い、撮影してみた次第(いまいち説得力に欠けますが)。
でも、現在の道路の右側が海だったことは、中村英男さんも話していました。
狭かった本部港南側の土地を拡大するのは住民の悲願であり、戦後の埋め立てが続いた結果、今の街並みが出来上がったことになります。
山の上から見た本部町谷茶。渡久地港の前にかかる本部大橋や、伊江島も一望できる場所。だからこそ、戦時中には、敵を監視する見張所(監視哨)が置かれたのでしょう。
ということで、お馴染みの中村英男さんに案内してもらい、監視哨を訪ねました。
中村さんは15歳の時、「十・十空襲(1944.10.10)」の前日、9日の夕方までこの場所で実際に勤務していました。
ここでは米軍機のシルエットを覚えたり、遠くに見える伊江島タッチューの高さを目安に、飛行機の高度を推定したりしていたそうです。
痛ましいのは、任務を引き継いだグループの中にいた同級生(比嘉君)が、空襲のさなかに亡くなったことで、一番若かった彼は、空襲で電線が不通となったため、敵機来襲を那覇に伝達する指示を受けて山道を駆け下り、近くの本部警察署を目指したのですが、その後、消息が途絶えてしまいました。
この同級生の死はほとんど知られておらず、今は語る者もいなくなったそうですが、その中村さんも「十・十空襲」で壮絶な体験をしたことは、以前ここで書いた(はず)と思うので割愛です。
<三嶋>

喜瀬武原あるき本番
2017年3月4日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
喜瀬武原あるき本番。どれだけの人が集まるか、直前まで心配でしたが、区長はじめ地域のお年寄りや子供達も参加。結果オーライでしたね。
農村広場に集合し、顔合わせして出発。
散策にはうってつけのいい天気ですね、と知り合いになったお婆さんに声をかけると、だから彼岸用のキクの出荷でみんな忙しいとのこと。この数日がそのピークのようで(知らんかった)、思ったより参加者が少なかったわけが判明した次第。
戦時中の弾の跡が残る壁。何気なく呟いたお婆ちゃんの一言で、みんなビックリ。地元の若いお母さんも知らなかっ田とか。
すぐ近くの拝所、御待毛(ウマチモー)でも、以前の古い祠に弾痕があったということです。
喜瀬武原公民館の名が壁に残る建物の前で休息をとりながら、体験者の話を聞きました。ここには以前、共同売店や精米所もあり、薪や木炭の集積場にもなっていたため、ムラの人たちがいつもユンタクする和みの空間だったようです。
「陸の孤島」と例えられる時代が続いたこの地で、人々は多くの労苦を重ね、現在のムラを築いて来ました。身をもって体験した方々は今、誇りとともにその歴史を子供たちに伝えようとしています。
<三嶋>

喜瀬武原(キセンバル)をあるく
2017年2月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
一昨年、恩納村の集落あるきを2ヶ所(仲泊・字恩納)で実施しましたが、今回、その続きを喜瀬武原で行うことになり、事前調査に行ってきました。
歴史が浅い屋取集落ということは、前回調べて知っていましたが、「とはいえ今度は何か見つかるかも」と歩いてみた結果、期待は見事に打ち砕かれました。
う〜ん。
こうなれば、聞き込みしかないですね。
集落のほぼ中央。
のどかなキャベツ畑の向こうに見えるのが、キセンバル闘争で知られるようになったブート岳。
かつては住民や学生たちが激しい抗議運動をおこない、連日、新聞をにぎわしていたことを思い出します。体を張った彼らの抵抗に、喝采を送っていた人たちも多いでしょう。なので、“キセンバル”と聞くと、何か熱くなる気がしますね(ボクだけか?)。
かつての公民館。1階は売店です。
店の前の県道104号線を飛び越えて、かつては105mm大砲の実弾射撃訓練が行われていたのですが、実は小火器の射撃は今も続いていて、工事現場の騒音のような発射音が集落からも聞こえます。
そういえば、金武町に行った時も聞こえていたなあ。
日常に同化して見えにくくなっている戦争に、こちらも馴れてしまっているのだなと反省です。
<三嶋>

渡久地をあるく2
2017年2月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
本部町渡久地のレポート第2弾。
今回は一人でぶらつきました。
細い通路で区切られた町営市場のなか。
薄暗くて、足を踏み入れるのに躊躇しますが、若者が立ち上げたとおぼしき小さな雑貨店などあって、掘り出し物を捜す人にはいいかも。
町の衰退を食い止めるべく、いろんな企画やイベントが行われている所なので、少しでも貢献したいところでしたが、この日は(も?)金がなかったので、ヒヤカシに終わってしまいました(トホホ)。
街のなかで見つけた戦後史を物語る塀。
丸い穴が規則的に並ぶこの鉄板は、たぶん米軍が使っていたもの。正式名称は知りませんが、ぬかるみや滑走路などで、足下を固めるために敷き詰めていたものですね。たぶん。
満名川に架かる第一渡久地橋(昭和50年3月竣工)。
本部市場から北に抜ける古い方の橋ですが、もとはこちらが大通りで、蔡温時代に最初の木橋が造られています。
戦災にもあわず、戦後も石橋が残ったのですが、橋の向こう側の急なカーブを、米軍の大型トレーラが曲がり切れずに転倒したそうで、その後、新しい橋が渡久地十字路から北に続く道に架けられました。
満名川河畔。
1946(昭和21)年9月、戦後初の水産関係教育機関、沖縄開洋高等学校が開校した所です。
バラック小屋が2〜3棟と、米軍払い下げのコンセットがあるだけの貧弱な校舎でしたが、沖縄各地から集まった60名の若者たちが、海の男になる夢をもって勉学に励んでいたそうです。
しかし、学校はその後、那覇市泊に移転、沖縄水産高校と改称して再出発します。
本部町民は期待を裏切られ、肩を落としたといいますが、幻の学校を知る人も、今となってはほとんどいなくなったようです。
今回はこれまで。次があるかな?
<三嶋>
