恩納村塩屋の藁算
2018年9月9日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
今年の春、恩納村の塩屋で見た「藁算(わらざん)」が付け替えられるというので、8月6日、調査に向かった。
この日は旧暦6月25日、六月カシチー。稲の収穫祭で、新米の強飯を食べて祝う日とされるが、数を数えるワラ算とどう結びつくのかいまひとつ飲み込めないまま、神アサギの下で行われる作業を見せてもらい、そのあとの拝所巡りにも同行させていただいた。
ワラを綯うところから始まった作業。みるみるうちに3mほどの縄2本が出来上がり、そこに村人の数より少し多めのワラ束(一つが25本ほど)が差し込まれる。ワラは人の数を表し、450余名の村人の繁栄を願って、人口より多い500本ほどのワラを差し込んだ綱は、そのあと三つ編みにされ、正月のシメ縄を複雑にしたような形に仕上がった。
時刻は5時。区長や役員、5人ほどが集まり、すぐそばのノロ殿内に藁算を捧げると、村人の数を報告して子孫繁栄を祈願した。
そのあと連れ立って部落の南にある産井を拝み、高台にある御嶽に移動して祠で再び祈願した。
以前はマツの大木に縛っていたそうだ。
また、御嶽の後ろはクバ(神様が降りてくる神聖な木)の林で、お産の場所だったと伝えられる。
御嶽の下にある東のカーを拝んで一連の行事が終わると、もとの神アシャギに戻る。一息ついている皆様にお礼を言って現場をあとにした。あたりはようやく日が陰り、夜の気配が漂い始めていた。
それにしても、ほかの地域で見たことがない伝統行事。かつては隣部落の真栄田と宇加地、塩屋をひとつにして仲宗根門中の人々が取り仕切っていたそうで、藁算の形も中央が太いシルエットだったと聞くが、多少の変容を経ながらも、歴史を継承してきた方々の熱意が十分に感じられ、静かな感動を覚えずにはいられなかった。
<三嶋>
6月4日(日)、「渡久地あるき」をやります!
2017年5月17日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
このところ訪れる機会が多い本部町、せっかくなので、みなさんにもっと知ってもらおうと、沖縄ある記主催の「渡久地あるき」を実施することにしました。
梅雨に入ったし、本部町浜崎でハーリー大会もあるようなので、当日はどうなることか不安もありますが、何とか成功するよう応援のほどよろしくです。
って、ヒマな人は(そうでない人も)是非来てください。一緒に歩きましょう!
渡久地あるきチラシ
<三嶋>
「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」のこと
2017年4月26日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
県立博物館・美術館で、2011年に開催した「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」は、今にして思えば懐かしい記憶ですが、テーマは、今も古びていないように思います。
キーワードとなった「ちゅくいむじゅくい」は、建築家の佐久川一さんが提示し、そのおかげで曖昧だったプロジェクトに一本スジが通って、一気に作業が前進したことを覚えています。
言葉の意味は「手作り」となるのでしょうが、それだけでなく、手近にあるモノや知恵を生かして何かを産み出す力やセンス、創意工夫の意義なども含む、生き方を示している言葉のように感じます。
フランス語には、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」という意味の、「ブリコラージュ(Bricolage)」という言葉があるそうですが、これも同義でしょう。
これらの言葉の背後には、人生を幅広くとらえる価値観があり、費用対効果ばかりが問われる現在の閉塞状況の中では、それが、新鮮に映っているように思います。
で、実を言うと、そんな生き方や感覚こそ、ウチナーンチュが元来備えていたものではないか、というのがボクの持論なのです。
合理性や計画性がなく、洒脱な表現などは出来なくとも(結構失礼ですね)、目の前にあるモノやワザを駆使して、何かを作り出そうとする感性や、のんびりと一連のプロセスを楽しむイイ意味のルーズさが、この島には備わっていると思うんです。
島嶼環境の過酷な暮らし生み出したものなのかどうか、よくわかりませんが、とにかく強い生をつなごうとする本能が、荒廃した戦後社会の暮らしを、庶民レベルで支えてきたことは確かでしょう。
県立博物館・美術館で開催した「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」では、佐久川一さんのアイデアで、かつて身近な素材だった竹と建築との関わりを考えるワークショップを行い、竹のオブジェをみんなで創りました。
名護の島袋正敏さんの協力を得て竹を切り、ワラを綯い、星型に組んだ竹を骨格にして、細く裂いた竹をまわりに編み込んでいく大きなミノムシのような作品は、会期中も観覧者が差し込む竹で成長を続けました。
内部にできたトンネルを歩くと、出口では海の映像が壁面に映し出される仕掛けでしたが、それは、竹(自然)を背にして眼前に海を眺めて暮らした、かつての集落(暮らし)を想起させるものでした。
自然と暮らしが密着していた時代が遠ざかり、自然は管理できると戦後の私たちは思ってきましたが、3.11の災禍を見れば、それが幻想だったことは明白でしょう。
少子高齢化、人口減少が喫緊の課題となった今日、単なるノスタルジアではなく、生き延びる術の一つとして、「ちゅくいむじゅくい=ブリコラージュ」の思想に学ぶことは、決して無駄ではないと思えてなりません。
<三嶋>
『しまたてぃ』No.80が発刊されました
2017年4月25日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
今回は本部町渡久地の市場や十字路界隈、満名川周辺を、中村英雄さんの案内で歩き、氏の体験などを交えながら、戦後の町の変遷を書いています。是非ごらんください。
しかし、今季号で特に読んでいただきたいのは、「沖縄の公共建築を考える」と題した特集のなかにある、戦後の建築史年表(みたいなもの)。ボクの原稿を下地吉高がうまくレイアウトしてくれたので、「読んで面白い年表」が出来た(しかも8ページも)と自負しているのです。
沖縄戦後の建築史は、2011年に県立博物館・美術館で「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」を開催したことがきっかけとなり、かなり関係資料を集めていたので、ページに納まるよう割愛するのに苦労しました。紹介できなかったネタも多かったんで、それが少し心残りですね。
<三嶋>
本部追伸
2017年3月16日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の追加取材と、場所がわからなかった琉米歴史研究会所蔵の写真のひとつを確かめようと、本部町に行って来ました。
背後に見える島が、右端の形から瀬底島ではないかと玉城一男さんが指摘していましたが、比べてみると見事、ピタリと一致しました。
ずっと恩納村の名嘉真ふきんではないかと考えていたので、けっこう驚きました。思い込みはいけないですね。
次に、写真左の松が生えた岩はどこだろうかと探した結果、次の場所ではないかと思い、撮影してみた次第(いまいち説得力に欠けますが)。
でも、現在の道路の右側が海だったことは、中村英男さんも話していました。
狭かった本部港南側の土地を拡大するのは住民の悲願であり、戦後の埋め立てが続いた結果、今の街並みが出来上がったことになります。
山の上から見た本部町谷茶。渡久地港の前にかかる本部大橋や、伊江島も一望できる場所。だからこそ、戦時中には、敵を監視する見張所(監視哨)が置かれたのでしょう。
ということで、お馴染みの中村英男さんに案内してもらい、監視哨を訪ねました。
中村さんは15歳の時、「十・十空襲(1944.10.10)」の前日、9日の夕方までこの場所で実際に勤務していました。
ここでは米軍機のシルエットを覚えたり、遠くに見える伊江島タッチューの高さを目安に、飛行機の高度を推定したりしていたそうです。
痛ましいのは、任務を引き継いだグループの中にいた同級生(比嘉君)が、空襲のさなかに亡くなったことで、一番若かった彼は、空襲で電線が不通となったため、敵機来襲を那覇に伝達する指示を受けて山道を駆け下り、近くの本部警察署を目指したのですが、その後、消息が途絶えてしまいました。
この同級生の死はほとんど知られておらず、今は語る者もいなくなったそうですが、その中村さんも「十・十空襲」で壮絶な体験をしたことは、以前ここで書いた(はず)と思うので割愛です。
<三嶋>