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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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移民の町をあるく

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 今回の「金武・並里あるき」は、地元史を研究し、案内ボランティアなどもされている仲地暁さんにガイドをお願いし、特に當山久三に焦点をあてたものとなった。

 よく知られているように、金武は移民の町である。

 1899(明治32)年に、當山久三がハワイ移民を送り出して以来、多くのウチナーンチュが海を渡ったが、その先駆けとなった地が彼の出身地・金武なのである。

 そのこともあって当日は、當山久三の像がある役場裏の山に集まり、東にすすんで「オランダ森」や當山の生家跡を訪ね、大川(ウッカガー)までのコースとなった。

 しかし、当日の天気は朝から雨模様。

 「晴れ男」の小生の神通力も通じず、崩れた天気を恨んだが、何とか予定のコースを歩き、胸を撫で下ろした。

リニューアルなった當山紀年館で、地元の嘉数さんから、當山久三の資料や移民に関する情報を聞く。(撮影:佐藤)

 當山紀年館は、當山久三の功績を記念し、1935(昭和10)年建設されている。県内でも数少ないコンクリート建造物で、昭和期の沖縄を代表する、地元出身の建築家・大城龍太郎が設計した。

 しかし、長く放置されていたため、取り壊し案も出ていたというが、有志が立ち上がって保存が決定し、立派な展示室に生まれ変わったものである。

大田政作主席も参加して行われた、當山久三の銅像再建除幕式。1961(昭和36)年9月30日。
写真:沖縄県公文書館蔵

 紀年館の前にある當山久三の像は、彼の功績を記念して1931(昭和6)年に建立された。戦時中には金属回収のため撤去されたが、1961(昭和36)年に再建。写真はその時のものである。

 写真にあるように、主席が来たり、子どもも集まるほど当日はにぎわったようだが、意外にも、當山久三は地元ではあまり理解されていない、と案内の仲地さん。

 理由はよく分からないが、新しい考えに目覚め、社会を変革しようと立ち上がる人物は、古い体制にある人たちにとっては、受け入れられなかったのかもしれない。

 當山は、自由民権家の謝花昇と活動をともにし、その紹介で、足尾鉱毒問題を世に問いかけた田中正造とも、交流があったという。社会変革の運動を経て行き着いた先が、移民だったのかもしれない。

 それは「ソテツ地獄」を逃れる手段だったのか、新天地への雄飛だったのかよく分からないが、複数の謎がまだ解明されない人物として、當山久三は興味深い。

1945(昭和20)年4月26日の金武の町並み。写真:沖縄県公文書館蔵

 沖縄戦がはじまり、恩納・安富祖・喜瀬武原から金武村に侵入した米軍は、1945(昭和20)年4月5日一帯を占領。5月6日には、米海軍建設大隊が金武飛行場建設を開始した。

沖縄戦がまだ終結をみない、1945(昭和20)年6月11日に撮影された金武観音寺。寺の周りに張り巡らされた有刺鉄線が確認できるが、寺にある財宝を狙って侵入する、米兵を防ぐためのものという。写真:沖縄県公文書館蔵
1946(昭和21)年12月12日に撮影された、戦災の傷が残る金武小学校校舎。
写真:沖縄県公文書館蔵

 金武小学校は、沖縄初の鉄筋コンクリート2階建て校舎。熊本出身の清村勉が設計し、1925(大正14)年8月に完成したものである。

 10・10空襲後はアダンの葉などで擬装されていたが、翌1945(昭和20)年3月24日に周辺が爆撃を受け、学校周辺の数十戸の家屋は焼失したという。

オランダ森入り口。あいにくの雨の中、傘をさして話を聞く。(撮影:佐藤)

 オランダ森の入口近くには、松岡政保の生家跡を示す石碑がある。松岡は金武出身のハワイ移民体験者。行政職や企業経営を経て保守政治家となり、1964(昭和39)年、任命されて行政主席となった。

 英語が堪能なこともあって、米軍に近い人物だったと思われているが、主席公選を求める声が高まるなか、就任の際に「最後の任命主席でありたい」と語り、話題を集めたエピソードが残るように、ウチナーンチュとしてのアイデンティティは失わなかったのだろうか。

オランダ森に立つ松岡政保銅像。

 1853年5月26日、浦賀に姿を見せる前に沖縄を訪れたペルリ艦隊の調査隊は、石川から金武に入り、オランダ森で宿営した。

 その後、北に位置する漢那を経て西海岸に向かったが、金武に留まった際の話のひとつとして、『ペルリの琉球訪問記』に、「琉球の海岸の如き美しき景色を未だかつて見たことがない。また琉球人の智力の鋭いことは勿論、服装や風貌は、はるかに支那人よりはよく、かつ上品できまりよい所があった」と書かれているという。

開設した水道施設を視察するキャラウェイ高等弁務官。1962(昭和37)年11月17日。
写真:沖縄県公文書館蔵

 写真は金武でもっとも知られる名勝のひとつ、大川(ウッカガー)と思われる。渇水の時にも渇れたことがない、といわれるほどの豊かな水量を誇り、地域の人々の暮らしを支え、見守って来た場所である。

キャンプ・ハンセン米軍基地。1998(平成10)年

 金武の村は、豊かな耕地や豊富な水に恵まれた農業地帯だったが、戦争を経て環境が激変した。68%の土地が米軍の軍用地に接収され、1956(昭和31)年に米軍基地キャンプ・ハンセンが完成すると、「基地の街」と化したのである。

 そして、実弾演習や基地がらみの事件・事故が繰り返され、今にいたるも何一つ解決に至っていないのは周知の事実だろう。

 金武町にはハワイを目指した當山久三のほか、フィリピン移民の父ともいわれる大城孝蔵も生まれている。彼らが移民に託した精神は、子どもたちにも受け継がれるよう、現在の行政も力を入れているようだ。

 しかし、その一方では、町には巨額な軍用地料が落ちてくるため、本音では基地返還を望まない軍用地主が多いという町の現実がある。

 大国のパワーバランスの上に立たされ、常に複雑な思惑が入り乱れる沖縄ならではの事だが、シンドイ生活からの脱出を願った移民も、ぬるま湯でいいとは思わなかったのではないか。

 しかし、「武士は食わねど高楊枝」と強がりを言うと、「武士じゃねーし」と返って来た。

<三嶋>

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戦後が続く天願を歩いて

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 10月に行った「天願あるき」実施報告。

 台風接近で、9月の散策が出来なかったせいか、いつも以上に参加者が多く、配布マップが足りなくなる嬉しい悲鳴。

 また、区長をはじめとする地元の方々の参加も多く、かつてのエピソードなどで盛り上がり、楽しく歩くことができた。地域の皆様に感謝である。

 地区では丁度、月に一度の大掃除の日だったため、人手を借りて迷惑をかけたが、それにもかかわらず親切に対応していただき、恐縮した次第。そのこともあって、天願は開放的で、明るい地域だなあという印象を強く受けた。

キャンプ・コートニーのゲート1付近から見た天願集落。天願の集落は旧具志川市の北側に位置する。南側には、うるま市役所などがある「みどり町」が隣接する。もともと天願地区で、1994(平成6)年に分離し、急速に都市化が進んでいるエリアである。
米軍が上陸する直前、1945(昭和20)年2月に撮影された天願集落。旧天願川の川筋と、そこに架かる天願橋や茶木根橋のほか、家並みもまだしっかりと残っているのが分かる。
天願自治会発行『常しえに輝く天願の彩~写真に見る天願の今・昔~』より。

天願は戦後沖縄の、出発点のひとつとなった場所である。

 地域の歴史は古く、戦前までのどかな農村だったが、戦時中から米軍が広範囲にわたって占領し、現在のキャンプ・コートニーに引き継がれている。

 戦後、天願の人々が、収容所からムラに戻れるようになったのは、1945(昭和20)年10月以降だが、すでに軍の管理下に置かれた集落に、住民はバスなしでは自由に出入りすることは出来なかった。

 1947(昭和22)年には、軍で働く人たちのための住居を百軒つくることが許され、「百軒部落」と呼ばれた集落に、11月2日から人々が移り住んだ。

天願川をまたぎ、県道75線に架かる現在の天願橋。安慶名十字路を北上し、この橋を渡るとすぐ左が天願集落。右手に見える森林から先がキャンプ・コートニー。
天願川の南にある、かつての旧闘牛場(現在はゲートボール場)近くに置かれた石(コンクリート)。戦後、この場所に出来た天願小学校で、旗やポールなどを立てたと思われるもので、「天願校」の文字が読み取れる。参加者のなかには、ここの小学校に通っていたという女性たちもいて、当時の話を聞くことができた。
ターチ橋と呼ばれていた旧天願橋で、案内役をお願いした照屋さんから説明を聞く参加者。橋の下には、今もかつての天願川の流れがあり、河川改修で真っ直ぐになった天願川に注いでいる。すぐそばにある、かつてティーチ橋と呼ばれた茶木根橋とともに、二つの橋はムラの名所だった。しかし、旧天願橋は、米軍の侵攻を阻止するため日本軍が爆破した。現在は、平和教育の場として利用する小中学校が多いようだ。
集落内を走る通りのあちこちで目にした、英語を使った注意書き。米兵は基地の中では交通ルールを守るが、基地の外ではそうでもなくて、危険運転も少なくないそうだ。
天願集落の北から、キャンプ・コートニーのPXゲートに通じる道路。道路の右側にはモータープールがあり、道路沿いにはフェンスが続いている。周辺には、戦時中までクムイ(溜池)や製糖工場があったが、現在は広大な米軍基地と、牧草が生えた土地が見られるだけである。

 現在、天願地区にある米軍基地は、字の70パーセントほどを占めるという。戦前の集落は基地に取られたため、行事などで墓や御嶽に行く場合、役所の許可を得て入らなければならない煩わしさがある。

 軍用地にまつわる話には借地料に関するものも絡むが、センシティブな事柄だけに、気軽に尋ねるのはためらわれた。米軍に対する抵抗・協調の意識が個人の中にも渦巻き、現在進行形なのだろうと想像したからである。

 しかし、天願がどんな歴史を背負い、何があった場所なのかを受け取り、記録することも、沖縄の戦後史の一断面を、風化させることなく伝える一助になるだろう。

 地元の方々の笑顔を思い浮かべながら、わずかではあっても沖縄の戦後史の一部を窺い知れたことに、感謝した次第である。

<三嶋>

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路線バス無料の日

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 9月の水曜日と日曜日は、路線バスが無料になるというので、家内にさそわれ乗ってみることにした。

 どこまで行ってもタダというので、遠くまで行ってもいいのだが、若かったころの冒険心が消え失せた老境の身としては、とりあえず恩納村ぐらいは大丈夫か、と同村の図書館を目指して足をすすめてみた。

 バスに乗るのは何年ぶりかと思いながら、ネットで路線図やら調べると、複雑で分かりづらいのは相変わらず。

 とにかくバス停まで行ってみたが、なかなか目当てのバスが来ない。やっと来たかと思ったら満員(やっぱりタダだから人が多い)で乗れず。ようやく来た次のバスで目的地に着き、時計を見て結構時間がかかったことに驚いたが、時間を気にしていてはバス移動はダメだわね。

ワンマンカーになったころの首里バス。1965(昭和40)年6月撮影。首里バスが、首里市営バスとして再び那覇~首里間を走り出したのは、1950(昭和25)年7月。翌年、(株)首里バスになり、撮影された年からワンマンカーとなるが、本土復帰後の1974(昭和49)年8月に銀バスと合併し、首里バスは姿を消している。
(写真:沖縄県公文書館)

 時間はかかったものの、久しぶりに乗ったバスは、思っていたより快適だった。なにより、運転手の対応が以前(ずいぶん前だけど)より格段によくなっていることに驚いた。英語での対応もスムーズだったし、丁寧な運転で好感がもてた。

1960(昭和35)年撮影の那覇バスターミナル。前年の8月に造られたもので、現在は同じ場所に新しい施設が建っている。いろいろな組織や図書館も入った建物の、1階部分がバスターミナルとして機能し、観光客なども多く利用している。(写真:沖縄県公文書館)
1961(昭和36)年9月、やんばると思われる道路(悪路ですね)を走る貸切の昭和バス。昭和バス(その後の琉球バス)は、1953(昭和28)年ごろ国頭線に参入し、業界の競争が激しくなったと新聞にある。1960年前後は多くのバス会社が、ワンマンカーや観光バス、急行バスを登場させ活気があふれている。しかし、1963年4月にバス争議が持ち上がり、全面ストが長期間続き大混乱。このころからモータリゼーションが始まり、利用者が減り始めたことも、バス業界が陰りを見せた背景にはあるのだろうか。(写真:沖縄県公文書館)

そういえば学生時代、たまに首里バスに乗ったが、あのころを思いだすと、運転が荒かったなあ。運転手もやる気がないのか、格好も結構ラフだった。乗客にお構いなしに発車したり急停車していたし。今よりはるかに道が混んでいたし、給料も良くなかったんでしょうね。

 このバス事情のように、沖縄らしいといえば沖縄らしい、いい(イイ)加減さがボクは決して嫌いではなく、あのころ本土から沖縄に来た人が、バス事情の酷さを新聞投書欄で嘆いたりすると、同感よりも「本土と違う価値観や感覚もあるんだよね~」と沖縄側を擁護する気持ちが強かったのだが、しかし、あれは確かに酷かったよなあ。

<三嶋>

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海中道路の先にある宮城・上原集落をあるく

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 8月の定例あるきは、かつての与那城村(現うるま市)の宮城島。

 この島は、小生が来沖した1974(昭和49)年に初めて連れて行ってもらったところである。それがちょうど50年前ということに気づいて、年の経つ早さに驚かされたのだが、島の裏側にある集落の佇まいや、細い坂道がうねうねと続く姿から、ずいぶん遠くに来たような、うら寂しい気持ちになった(島の人には失礼だが)ことは、薄らと覚えている。

シヌグ堂展望台から見た上原集落。左側奥に伊計島が見え、手前に池味湾が見える
電柱がずらりと並ぶ海中道路。左に平安座島、右に浜比嘉島が見える。
CTS(石油備蓄基地)闘争は、地域に禍根と環境破壊を残して終わていた。1995(平成7)年5月

 そのごこの地には何度も来たが、辺土名島・宮城島・伊計島と走るとつい宮城島をスルーしてしまう事が多く、立ち寄った記憶も乏しい。

 そのため、あらためて宮城島をあるきながら、知らない場所を訪ね、地元の人の話を聞いてみたいと考え、小学校跡地に建つコミュニティーセンターに行き、区長さんに話を聞いてみたのである。

 すると、地元の有志で観光案内の組織をつくっているというので、ガイドをお願いし、一緒に宮城・上原集落を散策してみたのである。

コミュニティーセンター敷地に建つ、宮城小学校閉校記念碑。
宮城小学校と隣の宮城中学校は、2012(平成24)年廃校となった。現在、島の子どもたちは平安座島にある、「うるま市立彩橋(あやはし)小中学校」に通っている。
周辺4つの島の小中学校はすべて廃校となり、地域の学校は彩橋小中学校だけである。
宮城集落。中央右の大きな施設が宮城コミュニティーセンター。
上原・宮城の公民館も老朽化のためここに移動しているため、二人の区長が同じ建物にいる。
宮城集落内。たいへん暑い日が続く毎日である。
家の中に引きこもっているのが賢明だ。通りに人影もない。
スンチナーと呼ぶ広場の展望台から見た池味集落と漁港。
海中道路が建設される以前は、この入江の右側にある桟橋(写真には写っていない)から、
与勝半島の屋慶名に渡る船が出入りした。
上原のメインストリート(?)に建つ新里商店。
店の前を西に向かい、坂道を登り切ると、
島とは思えないような広い耕作地がある高台(イーバル)に出る
宮城島で一番有名と思われるヤンガー。
ムラのカーには水量に応じて百千萬億の名が割り振られ、2番目に水量が多いこのカーは「萬川」とも呼ばれた。確かに水量が豊富で澄み切っており、まとまった雨がしばらく降っていないこの日も、溢れるほどの水が下のグムイ(池)に流れていた。
集落よりも高い、山の中腹にあるハルガー。
ムラで1番の水量があることから「億川」とも呼ばれた。ここから小学校や集落に水が引かれ、タンクに溜められ、簡易水道として利用されていた。

 最近は、コロナ禍の反動とも思えるほど沖縄中が喧しく、あちこちで観光客の姿を目にしない日はないほどだが、海中道路を渡った島々では、表の通りから一歩中に入ると、昔ながらの静かでおだやかな風景が広がっていた。

 しかし、少子高齢化がすすむ昨今、島チャビ(離島苦)の悲哀を味わってきたこの地では、橋が架かって利便性が高まったものの人口減少が続き、空き家も増えている印象だ。

 「限界集落だよ」という言葉も聞いた。確かに、学校がなくなり、若者が家を離れた地域に取り残された高齢者は、どうしろというのだろう。

 政治や行政批判を繰り返してもラチが明かないが、厳しい環境のなかで生き抜いてきたシマの歴史や住民の気持ちを考えると、腹立たしさや悔しさ、悲しさ、諦めなど、割り切れない思いがフツフツと湧き上がる。

 ただ、コミュニティセンターに集って夏休みを過ごす地域の子供たちの駆け回る姿は、危機的状況を何度も乗り越えてきたであろう住民の血を受け継ぐものであり、そのバイタリティーや明るさに希望が見える思いがした。

 それは宮城島だけの話ではない。沖縄に住む誰にも当てはまる事ではないだろうか。

<三嶋>

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熱中症にも負けず、「天底あるき」無事終了

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 天底(あめそこ)は、今帰仁村の集落である。

 屋我地島につながるワルミ大橋はあるが、観光の目玉になるようなモノは見当たらない農村である。そんな「何もない」地域の散策に、クソ暑いなか、はたして人は集まるのだろうか? と正直不安だったが、あにはからんや当日はいつものメンバーが顔をそろえ、ホッとした。

 「何もない」地域にも歴史はあるし、人が住んでいれば物語はあるものだ。

 どんな地域であっても「何かある」のである。そのことに、人は気づけないだけなのではないか? と考える。

 地域には地域ならではの暮らしがあり、悲喜こもごものドラマがあるものだ。その「面白さ」は、身近すぎて気がつかないこともあろう。外部の眼だからこそ、新鮮に映る時もあるのだ。

 地域を歩き、地域の人々と交わる魅力は、そこにあるのではないだろうか。ガイドしていただいた小浦建夫さんの話を聞きながら、そんなことを改めて感じた次第である。

ワルミ大橋から見た海。遠くに古宇利島と橋、左奥に運天港が見える。
写真右手の島が屋我地島。
その海岸に見える三角形の砂地が、沖縄に初めて伝えられた塩田の跡という。

 製塩を伝えた人物は、運天に渡来したと伝えられる源為朝に同行した僧侶・開山長老(かいざんちょうろう)。ワルミ大橋に続く、ワルミ小橋の下にあるティラガマという洞窟で生涯を閉じたという。

 製塩に関わる拝所のせいか、ティラガマは、製塩が盛んだった南隣の湧川の人たちが、今も拝んでいるという。

ワルミ小橋の下にあるティラガマで、小浦さんの話を聞く。
氏によれば、ワルミ小橋はティラガマを避けるために設計変更され、
カーブしているらしい。

 この日は熱中症を警戒して、車での移動を実施。ワルミ大橋付近から、集落発祥の地とされるクシムイの杜に移動する。ムラウチの南側に位置する、草深い場所である。

 神アサギや御嶽、根神屋、ノロ殿内が近距離に集まっているため、順番に回りながら小浦さんの話を聞く。

ヌンドゥンチ(ノロ殿内)と、説明する小浦さん。
コンクリートの階段の上にある天底御嶽。女性や区長が登って拝んでいるらしい。
かつては短い参道の両側に、マツの並木があったという。

 文献を読むと、天底はもともと本部間切内の呉我山(伊豆味)にあったムラで、1719年、現在地に移動したという。蔡温が行った集落整備事業の一環だったのだろう。

 しかし、天底ノロの権限は強く、1713年の『琉球国由来記』によると、天底だけでなく伊豆味と嘉津宇も管轄し、大正時代まで馬に乗って各地の拝所をまわり、祭祀を執り行っていたという。

御嶽の近くに置かれた神アサギ。きれいに草が刈られた広場があり、
静謐な空間をつくり出している。
1990(平成元)年に行われた神アサギでの行事。
(写真:『なきじん研究』11号・2002年)

 神アサギから西の方に道を下ると、チマチスジノリが自生するという産井、アミスガーがある。

 シマチスジノリは、長さ20~30cmの細い糸状の姿をした淡水産の藻の一種だという。

 発見したのは、地元の天底小学校で教鞭をとった大城長二郎先生。1931(昭和6)年のことで、1955(昭和30)年、天然記念物として県から指定された。

 事前調査で訪れた際、この泉で何事かを祈る親娘らしい人影をチラリと見たが、アミスガーは今も地域の人々の信心を集める、崇高な場所なのだろう。それだけに水質が悪く、水量も乏しいような現在の姿を見ると、何とかならないものかと残念である。

1964(昭和39)年のアミスガー。現在、シマチスジノリはアミスガーから消滅しつつあるとされ、井戸を使わなくなったことや日光不足、水脈の変化などがその理由だという。
(写真:『なきじん研究』11号・2002年)
現在の天底公民館。裏手にはかつて天底馬場があり、
地域内外から見物人が集まったという。
公民館で一休み。冷たいお茶や手作りのお菓子に生き返る。(写真:久部良)

 最後に公民館に帰って来て一休み。冷たい飲み物や手作りのオヤツという、予期せぬ歓待に疲れを忘れて喜ぶ。

 また、地域の方にも参加してもらい、しばらくみなさんでユンタク。自然や人の暮らしが垣間見え、楽しいひと時を過ごすことができた。小浦さんの気配りに感謝である。

 暑い日差しに恐れをなしていたが、美味しいオヤツにお話もいただき、終わってみればたくさんの笑顔。「何もない」所はどこにもない、と確信したのだった。

<三嶋>

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