アギヤーの話
2017年5月23日 Category: Myある記 Comment : 0
本部の中村英雄さんに、アギヤー(追い込み漁)の話を聞きました。
中村さんはかつて沖縄中の漁港を訪ね、漁法や漁具などの調査を行なっています。漁のようすを説明するために描いた、大きなイラストも見事で、海人の経験や各地を回って得た知見には驚かされました。
本部の追い込み漁は1970年ごろはまだ盛んで、海洋博が来たからダメになったそうです。グラフを見ると、沖縄本島では、本部・伊江の追い込み漁(グルクン)の水揚げが60%を占め、それ以外の漁港では行われていないことが分かります。
詳しく紹介するスペースがありませんが、糸満からはじまったアギヤーが、やんばる各地で盛んに行われていたころの中村さんの話は、体験者ならではの迫力があります。
ぶっきらぼうな言葉の端はしに、透明な海の輝きや男たちの躍動する肢体、獲物で湧き返る市場の姿が垣間見えたようで、胸が熱くなるのを覚えました。
と、同時に、海とともに生きてきたそんな人々が、工夫と努力を重ねて作り出してきた道具や技術が、永遠に失われつつある現実を思うとなんとも言葉が継げません。
かつてのきれいな海が汚され、次第に姿を変えて行く様を日々見ている中村さんの心中は、いかばかりでしょう。
<三嶋>
6月4日(日)、「渡久地あるき」をやります!
2017年5月17日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
このところ訪れる機会が多い本部町、せっかくなので、みなさんにもっと知ってもらおうと、沖縄ある記主催の「渡久地あるき」を実施することにしました。
梅雨に入ったし、本部町浜崎でハーリー大会もあるようなので、当日はどうなることか不安もありますが、何とか成功するよう応援のほどよろしくです。
って、ヒマな人は(そうでない人も)是非来てください。一緒に歩きましょう!
渡久地あるきチラシ
<三嶋>
本部半島今昔
2017年4月28日 Category: Myある記 Comment : 0
このところ、本部町に出没する回数が増えています。
今日は、以前から撮影ポイントが気になって探していた、NPO法人琉米歴史研究会が所有する写真の場所をあれこれ尋ねてきました。
結果、たぶん、ここで間違いないと思う2カ所をご報告です。
(1)屋部の海岸
名護の市街地から名護湾沿いに走って屋部に入ると、ホテルの手前に二つの岩が見えてきます。
この日は大潮にあたっていたため、かなりの部分が干上がっていましたが、普段は海中に没している岩です。
同じ場所から、戦後まもない時期に撮影されたカラー写真が、以下ですね。
岩の形から、撮影されたのはこのあたりでしょう。
時期は情報がないのでわかりませんが、1950年前後ではないでしょうか。
婦人が頭に乗せたバーキ(カゴ)に、シークヮーサーにしては大きなオレンジ色のミカンが見えます。名護の市場に売りに行く途中なのでしょうか。
遠くの陸地は、名護湾越しに見える恩納村と思われます。
(2)本部の漁師村
本部町の渡久地港は、戦前からやんばると那覇を結ぶ航路の要衝であり、同時にカツオ漁が盛んな漁師町としても知られていました。
大正時代には40隻ものカツオ船が活躍し、たくさんの鰹節が出荷されていたそうです。
しかし、エサ不足や不漁、漁師の高齢化などの要因で、現在はカツオ漁はほぼ途絶え、渡久地の町も、海洋博時に完成した本部大橋の開通をさかいに、かつての活気は遠のいてしまったようです。
ここで紹介する写真は、1952(昭和27)年ごろの本部町大浜、大小堀川(ウフグムイ)の集落。
網の手入れを行う漁師の傍らのカゴは、直径2mほどもある生簀(いけす)です。ジャコーバーキと呼ぶ、カツオのエサにするスルル(キビナゴ)を入れるもので、山からとって来た竹を使い、自分たちで作ったそうです。
本部町渡久地・谷茶では、戦後おこなわれた大規模な埋め立てで、海岸線が大幅に遠ざかったため、写真に写る海人たちも、この場所では操業が困難になったものと思われます。
大通りの三叉路が目の前を通り、大型スーパーが海を遮って立地する現在の風景から、かつての生業を想像することは不可能でしょう。
<三嶋>
本部追伸
2017年3月16日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の追加取材と、場所がわからなかった琉米歴史研究会所蔵の写真のひとつを確かめようと、本部町に行って来ました。
背後に見える島が、右端の形から瀬底島ではないかと玉城一男さんが指摘していましたが、比べてみると見事、ピタリと一致しました。
ずっと恩納村の名嘉真ふきんではないかと考えていたので、けっこう驚きました。思い込みはいけないですね。
次に、写真左の松が生えた岩はどこだろうかと探した結果、次の場所ではないかと思い、撮影してみた次第(いまいち説得力に欠けますが)。
でも、現在の道路の右側が海だったことは、中村英男さんも話していました。
狭かった本部港南側の土地を拡大するのは住民の悲願であり、戦後の埋め立てが続いた結果、今の街並みが出来上がったことになります。
山の上から見た本部町谷茶。渡久地港の前にかかる本部大橋や、伊江島も一望できる場所。だからこそ、戦時中には、敵を監視する見張所(監視哨)が置かれたのでしょう。
ということで、お馴染みの中村英男さんに案内してもらい、監視哨を訪ねました。
中村さんは15歳の時、「十・十空襲(1944.10.10)」の前日、9日の夕方までこの場所で実際に勤務していました。
ここでは米軍機のシルエットを覚えたり、遠くに見える伊江島タッチューの高さを目安に、飛行機の高度を推定したりしていたそうです。
痛ましいのは、任務を引き継いだグループの中にいた同級生(比嘉君)が、空襲のさなかに亡くなったことで、一番若かった彼は、空襲で電線が不通となったため、敵機来襲を那覇に伝達する指示を受けて山道を駆け下り、近くの本部警察署を目指したのですが、その後、消息が途絶えてしまいました。
この同級生の死はほとんど知られておらず、今は語る者もいなくなったそうですが、その中村さんも「十・十空襲」で壮絶な体験をしたことは、以前ここで書いた(はず)と思うので割愛です。
<三嶋>
渡久地をあるく2
2017年2月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
本部町渡久地のレポート第2弾。
今回は一人でぶらつきました。
細い通路で区切られた町営市場のなか。
薄暗くて、足を踏み入れるのに躊躇しますが、若者が立ち上げたとおぼしき小さな雑貨店などあって、掘り出し物を捜す人にはいいかも。
町の衰退を食い止めるべく、いろんな企画やイベントが行われている所なので、少しでも貢献したいところでしたが、この日は(も?)金がなかったので、ヒヤカシに終わってしまいました(トホホ)。
街のなかで見つけた戦後史を物語る塀。
丸い穴が規則的に並ぶこの鉄板は、たぶん米軍が使っていたもの。正式名称は知りませんが、ぬかるみや滑走路などで、足下を固めるために敷き詰めていたものですね。たぶん。
満名川に架かる第一渡久地橋(昭和50年3月竣工)。
本部市場から北に抜ける古い方の橋ですが、もとはこちらが大通りで、蔡温時代に最初の木橋が造られています。
戦災にもあわず、戦後も石橋が残ったのですが、橋の向こう側の急なカーブを、米軍の大型トレーラが曲がり切れずに転倒したそうで、その後、新しい橋が渡久地十字路から北に続く道に架けられました。
満名川河畔。
1946(昭和21)年9月、戦後初の水産関係教育機関、沖縄開洋高等学校が開校した所です。
バラック小屋が2〜3棟と、米軍払い下げのコンセットがあるだけの貧弱な校舎でしたが、沖縄各地から集まった60名の若者たちが、海の男になる夢をもって勉学に励んでいたそうです。
しかし、学校はその後、那覇市泊に移転、沖縄水産高校と改称して再出発します。
本部町民は期待を裏切られ、肩を落としたといいますが、幻の学校を知る人も、今となってはほとんどいなくなったようです。
今回はこれまで。次があるかな?
<三嶋>