宿泊あるきin浜比嘉
2026年6月8日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
初の試みとして「宿泊あるき」を実施した。浜比嘉島で「比嘉あるき」を行い、そのまま同島で宿泊し、翌日、「伊計島あるき」を行う連チャンあるきである。
当時は、悪天候が続いていてヤキモキしたが、二日とも本格的には降られず何とか無事に終了。ホットした次第である。
ここで、まずは浜比嘉島の「比嘉あるき」のようすを紹介する。
浜比嘉島は通称「バマ」と呼ばれ、西側の「浜」、東側の「比嘉」という二つの集落で構成されている。両地域とも、防風対策の石垣やフクギの並木が残っており、かつての沖縄の風情が偲ばれ、とても魅力的な島である。
1997年2月、平安座島とつながる浜比嘉大橋が開通し、シマチャビ(離島区)は過去のものとなったが、人口減が止まらず苦労の種は尽きない、と案内をお願いした平敷区長さんは語った。比嘉集落の人口は現在390人ほどである。

1965(昭和40)年1月(沖縄県公文書館蔵)

1965(昭和40)年1月(沖縄県公文書館蔵)

比嘉部落は戦火をまぬがれたため、昔ながらの古い家屋や家並みが残り、昔ながらの風情を醸し出していた。しかし、大橋が完成して島に入る車が増えると、道路拡張の必要が生じ、石垣が壊され、フクギ並木が切られたという。そして、観光客の急増で、風景は加速度的に変容しているようである。
確かに以前来た時よりも、道路が整備され、石積みがブロック塀になった箇所が増えていると感じたが、かつての風情がなくなって寂しく思うのはよそ者の感傷であろうか。生活する上で便利さを求めるのは当然であり、仕方がないのかもしれない。

厳かな空気に支配された森は神秘的で、
積み重ねられた人々の想いの一端に触れたような気がした。
浜比嘉島の比嘉集落は、琉球開びゃく(はじまり)の祖神アマミチュー(アマミキヨ)降臨の地として知られ、集落の南西部(兼久)にあるシルミチュー(シネリキヨ)とともに、この二神は今も大切に守り伝えられている。
しかし、この神様は、奄美から来たという話や、南の久高島から来たとする話などもあるほか、「アマミチュー墓」とされる場所が墓なのかどうかも疑わしいとも言われるようで、多くの参拝者が訪れる割には、詳細がよく分からなりようだ。
とはいえ、厳しい自然と対峙してきたであろう島の暮らしを思うと、アマミチュー墓をはじめとするあちこちの拝所も、安寧を願う必要が生み出した場所なのかとも考える。


文頭にある約60年前の写真と比べて欲しい。
かつて、ハンタビラの途中には比嘉小学校があり、両方の集落から子どもたちは通学していた。
中学生は浜にある「浜中学校」に通っていたのだが、学校の統廃合が進んだ現在、浜比嘉島にあった二つの小中学校は、宮城島・伊計島の小中学校とともに、平安座島に新しくできた「綾橋小中学校」に統合された。
廃校になり、雑草が生えた運動場や比嘉小学校の校舎を見ていると、シーンとした空気のなか、朝夕の通学時や、校庭から聞こえていたであろう子どもたちの歓声が遠くで聞こえるような気がしていくる。
子どもたちの姿が見えない島では、いっそう寂しさが募るのではないだろうか。高齢者には、子どもたちの姿をながめ、話し声、笑い声を聞くだけでも喜びである。明日の希望をそこに見ているというと大袈裟だろうか。
あちこちで見聞きする学校の統廃合だが、経済だけでは測れない側面が忘れられているように思う。共同体の歴史や住民が積み上げてきた暮らし、そこに残る文化やジンブン(知恵)のを、次代に伝える上でも学校の存在は欠かせないと思うのである。

「ハマチュー」は、廃校となった浜中学の校舎を利用した島の交流拠点。浜集落や行政、民間企業などが共同で運営しているとのころ。
改装された内部は思いのほか清潔で使いやすく、料金もリーズナブル。料理提供がないため、対岸のスーパーで料理や飲み物、酒などを仕入れて翌日の「伊計あるき」にそなえた。
それにしても施設のスタッフの対応が行き届き、フレンドリーでもあったため、誰もが十分癒され、満足させてもらった。


<三嶋>
