2回目の渡久地
2025年11月18日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
渡久地を歩くのは、2018(平成30)年3月に、『しまたてぃ』連載の「沖縄の戦後を歩く」で取材して以来、2度目である。その際は、本部町健堅に在住の中村英雄さんに案内してもらったが、今回は、渡久地の前区長・中曽根さんと一緒である。
そのため今回は、以前の取材時に集めた資料に、中曽根さんの話などを加えてお届けしたい。
●渡久地の町
「カツオの町」として知られる渡久地だが、陸路より海路の利便性が高かった当時、伊平屋・伊是名・伊江島や奄美諸島から、那覇に物資を運ぶ際の中継地として、渡久地は地の利があり、海上交通が盛んになる明治期から同時に発展することとになった。
原田という鹿児島の人が開いた店が初の商店となり、那覇の商人や地元の人々が次々と店を開き、そば屋や飲み屋なども誕生した。
渡久地港が完成して市場が整えられると、周辺からも買物客が押し寄せ、名護をしのぐにぎやかさだったといわれる。
●戦後の発展と海洋博後
戦後には、大浦崎(辺野古)の収容所から住民が帰り、物々交換による商業も再開すると、たちまちさまざまな物売りのテントが道路沿いに立ちならんだ。
戦後復興の勢いは止まらず、1955(昭和30)年に渡久地港が開港し、2年後に町営市場が完成すると、周囲はいっそう活気に満ちあふれた。
渡久地港は水深が浅く、船舶の出入りが難しくなっていたほか、街の中心部が狭すぎるという問題もあったため、1960(昭和35)年に浚渫が行われ、市場から南側の土地が埋め立てられた。港が拡張したころ、中心街となった本部大通りには銀行や食堂、料亭、呉服店、電気店、雑貨店が立ち並び、地域の政治・経済を担う地域として栄えていた。

しかし、その繁栄に陰りをもたらすこととなったのが、1975(昭和50)年に開催された沖縄国際海洋博覧会である。
港の眼前をさえぎるように架かった本部大橋のため、大型船の出入港ができなくなり、離島航路の船着き場が崎本部の新港に移ったことを手始めに、沖縄中が見舞われた海洋博不況が追い打ちをかけ、深刻な経済不況に町は覆われたのである。
●カツオ節
カツオ漁でにぎわった渡久地では、カツオはカツオ節を作ることが一番とされ、刺身を食べる人はいなかったという。しかし、腹身などの部位などはテンプラにされ、市場で売られていた。一般の人には高級なソバより、安くて美味しいこのテンプラがこのまれ、よく食べられていたそうだ。

●名護の道
渡久地交差点を東に進むと、県道84号線の伊豆味線である。この道を車が通れるようになったのは、1916(大正5)年だが、戦後も長いあいだ舗装されず、沖縄海洋博が始まるころようやく舗装された。
しかし、伊豆味線が開通しても、名護に行く際には昔のように本部役場(本部小学校跡)の裏手から山に登り、安和を経て名護にいたるルートを庶民の多くは歩いたそうだ。

側面にはR124(軍道124号)と刻まれている。


渡久地公民館前の通りは、かつて街の中心をなす通りだった。5年越しに大勢の人を集める名物の綱引きは、部落を東西にわけて引いていたものだが、いつのころからか町全体で行う大綱に発展した。牛若丸と弁慶の大立ち回りに喝采が送られ、盛り上がりを見せた。
また、旧暦7月のウスデークや旧暦8月9日から3日間行われる豊年祭りも、通り沿いの渡久地神社境内で催され、住民の思い出がつまった道といえる。
●仲宗根源和と貞代
前区長の中曽根さんは、琉球独立論で知られた仲宗根源和の遠縁にあたり、終の住処となった家の世話などしたという。そして貸してもらった『仲宗根源和伝』(著者の仲宗根みさをは仲宗根源和の3番目の妻)を読み、いろいろと調べてみた。
仲宗根源和は大正期に日本共産党の設立に関わり、戦後はいち早く沖縄の民主化・独立を主張したことで知られる人物だが、ボクが興味を持ったのは、最初の妻となった貞代(サダヲ)である。
熊本県生まれの仲宗根(旧姓・緒方)貞代は、アダン葉帽の製造を行っていた父親に呼ばれ、家族で沖縄に移住。親の反対を押し切って豊見城の小学校教諭となり、そこで知り合った仲宗根源和と結婚したのち、1919(大正8)年上京する。
そこで夫妻は社会主義運動に目覚め、貞代は社会主義婦人グループ「赤瀾会(せきらんかい)」を堺真柄(堺利彦の娘)らと結成し、女性初のメーデーにも参加するが、弾圧・投獄されたのち源和と別れ、以後、消息不明となった。
ところが1979(昭和54)年、熊本の老人ホームにいるのを研究者が見つけ、かつての同志・近藤(堺)真柄とも50数年ぶりに再開したという。
本土の研究家のほか、沖縄の女性史研究家・宮城晴美氏も1980年にインタビューしたが、その1年後、貞代は86歳で亡くなった。
仲宗根貞代は、戦前の厳しい時代にありながら、さまざまな弾圧に屈せず、熱い思いを抱いて社会主義運動や女性解放運動に突き進んだ女性である。さまざまな苦労を重ねてそれなりの蓄えを得たせいか、晩年は静かで穏やかな暮らしを送ったそうだが、幸せな人生だったと思えたのだろうか。
若い血潮をたぎらせ、権力に立ち向かった当時の人々の思いに同調するのは難しいが、誰が何を思い何をしようとしたのか、歴史を遡って考えてみることは重要だろう。それは過去の話として片付けられるものではなく、現在を考える上で有益であると思うからである。

<三嶋>
