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安座真あるき

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 南城市の知念半島には、世界遺産となって観光客があふれる斎場御嶽があるが、山を越えた北側にある安座真(あざま)は、対照的にひっそりとしたたたずまいを見せている。

 今回、「あるき」を実施した安座真は、急斜面の丘を背負い、眼前に広がる海との間の狭い農地を耕してきた集落である。

 戦前は多くの家が馬を飼い、100頭以上もいた時があったといわれるほど畜産が盛んだったと伝えられるが戦後は寂れ、斜面はキビ畑に変わった。

 以前は水田もあり、漁業も行われていたことから、半農半漁のムラだったといわれていた。

 「安座真」の地名は、1649年の『絵図郷村帳』という古文書にあるそうなので、ムラの成立はかなり古い。集落はもともと、安座真グスク(集落南の山中)のふもと近くにあったとされ、ムラの草分けといえる4つの元家が、祭祀などを取り仕切っていたと考えられるが、現在、詳細はよく分からないという。

国道331号から見た安座真地区。背後の山の反対側に斎場御嶽がある。

 安座真の住民はかつて、南側に位置する久手堅に行く際には徒歩で山を越えていた。子どもたちも裸足で山道を歩き、久手堅にある知念小学校に通っていたというが、現在、それらの山道は通る人もいなくなり、かつての役目を終えて樹木に埋もれつつある。

 今は道がなくなって近寄れないという安座真グスクも、おそらく同じような状況なのだろうか。石積みも確認されているといわれるが、その全貌は山中に没し、詳細は分からないという。

海岸沿いにはユウナやアダンが茂っていたが、護岸・道路建設工事で失われた。

安座真では戦前まで漁業が盛んであり、30隻以上のサバニがあったという。現金収入があるため、ウミンチュは戦後も豊かだったようだが、その後、漁業が振るわなくなり、廃れたようだ。

 旧暦5月4日にはハーリーも行われていたが、現在は途絶え、港内のパレードに変わった。

ヌーバレーを知らせる横断幕を掲げた安座真公民館。
道ジュネーを行い、楽しげに踊る若者たち。
ピンクの着物が艶やかな、若い女性たちも参加して盛り上げる。

 旧暦7月15日のウークイ(旧盆最終日)の翌日は、ヌーバレーの日である。ヌーバレーは、安座真の北隣の知名のほか、本島南東部の各地でみられる行事で、村芝居やエイサー、棒踊り、獅子舞、ウシデーク、ミルク踊りなどが行われるようだ。

 安座真のヌーバレーでは、部落の中心といえる神アサギから玉城、龍宮、仲村渠、城田などの旧家を道ジュネーで回り、最後に公民館で踊って終了である。

 笑顔で踊る男女の若者が印象的で、人気のない路地にもこの時だけは人が集まり、温かな空気に包まれて見守っていた。

神アサギ内部。大神宮(ウフジチュー)、サイハ(斎場御嶽)神、ムラ神が祀られている。

 ヌーバレーで最初に拝まれる神アサギには、村内のみならず、中南部の各地から拝みに訪れる人たちもいるとのことである。

 また、ここには「大神宮(ウフジチュー)」と呼ばれた大男が祀られている。身長が約3メートルもあった大男だったとされ、120歳で死去した3日後に棺を開けると遺骸はなくなり、木の葉だけが詰まっていたという話が伝えられる。

 さらに、この人物には親嶽という男の子がおり、彼は父親と同じく武芸に優れた大男で、尚徳王が喜界島征伐を行った時に従軍したといわれている。

 観光客で大にぎわいの斎場御嶽とはうらはらに、そのすぐ近くにありながら驚くほど静かな安座真だが、ヌーバレーの舞台では、多くの住民が芝居や歌や踊りに興じ、熱気に包まれ、笑い声や笑顔に満ちていた。

しかし、部落のあちこちにある、重要な祈りの拠点だった殿(トゥン。本島北部の神アサギと同様の中南部の祭場)がかつての姿を留め得ず、由来などの伝承も不確かになっている様子をみると、この静かな地域でさえ、時代の変化の波は容赦なく押し寄せ、変容を迫っているのだと感じだ次第である。

<三嶋>

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