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塩屋湾のムラ

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大宜味村の塩屋湾は、カキの養殖が試みられたほど、波の静かな美しい海だった。

しかし交通の便が悪く、名護から北上する人が対岸の塩屋に行くには、東に約8キロほど迂回して大保の橋を渡るか、南側の集落・白浜から渡し舟に乗るしかなかった。

白浜集落は渡野喜屋(とのきや)という名で、大宜味の間切番所があった塩屋とは縁が深く、客が3~4人集まると公民館西側の渡し場から舟を出していた。塩屋と白浜は、直線にすると約800メートルほどしかない距離である。

1958〜59(昭和33〜34)年。
写真:琉米歴史研究会提供

白浜トンネルの上から見た現在の白浜集落。

白浜から見た宮城島。1954(昭和29)年6月。
写真:琉米歴史研究会提供

この地で忘れてはならないもののひとつに、戦時中の旧日本軍が起こした住民虐殺事件(渡野喜屋事件)がある。

渡野喜屋事件は、1945(昭和20)年5月12日夜、10人の日本兵が、同地に避難していた那覇や中南部の人たち40~50人を広場に集め、その中に手榴弾を投げ込んで全員の殺害をはかったもの。35人が死亡し15人が負傷したが、そのほとんどは婦女子であった。

戦火を逃れ、飢えに苦しむ避難民は、「友軍」である日本軍にスパイの疑いをかけられたあげく、いきなり殺害されたわけである。

この事件は米軍の報告書でも記載され、確認されている(沖縄タイムス1985年3月12日)。

琉球新報(2008年6月22・23日)に紹介された体験者の話を読むと、命を奪われた無辜の人たちの姿が痛ましく、死を免れた人たちのその後の苦しみにも胸がふさがれる。

日本軍の起こした住民への虐待・虐殺は数多く記録されているが、この地の出来事も、忘れてはならない負の歴史のひとつである。

<三嶋>

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