那覇新都心の変遷
2013年7月21日 Category: Myある記 Comment : 1
那覇新都心は、沖縄の戦後を象徴する場所だと思う。
沖縄戦による破壊と、米軍による収奪をへて返還された土地は、基地の跡地利用の成功例といわれるまでに経済復興を成し遂げ、日々増殖し続けているようである。
70年ほどの間に起こった、農地→戦災→米軍基地→都市という目まぐるしい変化は、土地や景観だけにとどまらず、居住する人々にも大きな変化を強いてきた。米軍基地の跡地に出現したキラビヤカナなこの街に、かつての住民の暮らしをしのばせる痕跡は消え失せている。
那覇新都心の誕生が大きな経済効果をもたらし、那覇市だけでなく沖縄県全域に大きなインパクトを与えた事を否定する人はいないだろう。しかし、この全国標準の金太郎飴的な新しい街に、違和感を覚えるという声は少なくない。
「ヤマト化」が完遂すると、その違和感も過去のものとなるのかもしれないが、土地に刻まれた歴史だけは消してはいけないことだろう。
モノや形が失われたのなら、なぜそうなったのかという物語を語り継ぐ事はできるはずだ。
古島団地(モノレール古島駅近く)から、ほぼ同じ位置で写した新都心方面の写真に、変遷を見ていただきたい。
1995(平成7)年5月。整備事業が動き始めて3年目、返還が決定してから10年後の風景
1999(平成11)年12月。前年に開校した県立那覇国際高校が中央に見える。新町名「おもろまち」が6月に決定している
2001(平成13)年1月。左右にのびる舗装道路が県道251号線(新都心中央線)。左に進むと、翌2002年に開店したサンエー那覇メインプレスにいたる
2003(平成15)年1月。ビル建設が急ピッチで進んでいるころ。2002年入居開始の県営天久高層住宅が、写真左側に位置する
2005(平成17)年4月。現在の街並みがほぼでき上がっている
(三嶋)
Comment
私は1962年まで那覇市泊小学校に在籍していました。その頃はまだ教室の裏手が鉄製のフェンスで囲まれて米軍属の住宅が建ち並んでいました。そこも現在の新都心の一角になっているのでしょうか。どの辺になるのかどなたかご存知ありませんか。
卒業以来小学校には行っていませんので,どう変化したのか,今頃になって興味があります。