okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

ハーフムーンヒルが無くなりました

 Category: Myある記  Comment : 0



5月30日付ブログの続編です。
新都心周辺を通る方はお気付きでしょうが、“ハーフムーンヒル”として知られる森が、道路建設によって完全になくなりました。
写真(1997年撮影)に写る姿は何の変哲もない森ですが、昭和20年5月下旬には、すぐ西に位置するシュガーローフとともに日米の兵士が死闘をくり広げた場所です。
日本軍はここに昭和19年夏ごろから陣地壕(真嘉比壕)を構築し、陸軍独立混成15連隊砲中隊102人が駐留したようですが、93人が死亡したという以外、詳しい情報はあまり知られていないようです。戦後には3ヶ所あった壕の出入口もふさがれ、厚生省の遺骨収集が1997年に初めて行われるまで、ほとんど忘れられていたと思われます。
行政の対応にも呆れますが、那覇新都心の復興事業と連動した交通混雑緩和のためか、道路建設ありきともいえる流れでこの山が削り取られていく様は、見ていてたいへん辛いものでした。
心ある人たちが遺骨収集を継続していたものの、まだ遺骨が残っていただろう土を削り、埋め固めて道路が造られたと思うと、やるせない気持ちがあふれてきます。
ここから松川方面に抜ける道路はそろそろ開通します。
せめてこんな山があったことは、忘れたくないものです。
(三嶋)

--------

 

神風特別攻撃隊「草薙隊」のこと

 Category: Myある記  Comment : 0



とある事情があり、愛知県豊田市に行ってきました。
名鉄豊田線の浄水駅で降りると、駅前に「神風特別攻撃隊草薙隊之碑」を案内する石柱があり、気になったので捜してみました。
すると、神社のそばに石碑や戦争遺品などがあり、新しいマンションやビルの建設ラッシュのようにみえる一帯が、かつて海軍航空隊の基地で、ここから鹿児島の国分基地を経て、沖縄本島西方の米艦船に突入した部隊(草薙隊)があったことを知りました。驚きました。
石碑によると、昭和20年4月6日から28日にかけて行われた3次にわたる突入で、戦死者56名を出したとあります。
スピードの出ない旧式の99式艦上爆撃機に乗った若者達は、おそらく米軍のレーダー網に補足され、最新の戦闘機や強力な艦船の砲弾を浴び、次々に散っていったはずです。

作家・城山三郎は、『指揮官たちの特攻』の取材で伊平屋島を訪れた際、島に渡るフェリーの上から、特攻で亡くなった数多くの兵士が周辺の海をさまよい、海坊主のような姿で現れる幻影をみたと書いています。
本土各地から集められ、特攻に赴いた若者たちは、はたして沖縄の海にたどり着いたのでしょうか。その目に、沖縄はどう映っていたのでしょうか。そして、その魂は今もさまよっているのでしょうか。
この日は偶然にも、8月15日でした。
(三嶋)

--------

 

琉米文化会館のサービス

 Category: Myある記  Comment : 0



 1951(昭和26)年から復帰前まで、那覇にあった琉米文化会館の閉館時間は、夜9時半だった。
 誰もが日々の暮らしに追われていた時代、実生活をしばし忘れ、読書や文化・芸術に癒されたいと望んだ人は多かっただろうし、明るい未来を夢見て勉強に打ち込んだ学生も多かっただろう。そんな人には、夜遅くまで開いている同館の存在は、とてもありがたかったはずだ。
 敗戦からわずか6年後に開館したそこは図書館であり、ギャラリーであり、人々が集える総合文化センターであった。米軍の住民統治の装置だという話がささやかれたが、かつて働いていた大嶺昇さんによれば、地域の人々へのサービスを第一に考え、住民のために汗を流すことをいとわずスタッフは働いていたという。

 琉米文化会館の話を思い出したのは、あちこちの図書館で最近、自動貸出しを目にする機会が増えたからである。
 コスト削減がその理由だろうが、経済効率優先の考えを持ち込む発想には、人間を相手にしているという自覚が欠如しているように思えてならない。読書の楽しさや集積された知の体系に誘う図書館の役割は、利用者との触れ合いが基本であり、貸し出し業務は、そのきっかけだと考えるからである。
 経費削減のおり、「忙しいし人がいない」という答えが聞こえてきそうであるが、宮古・八重山の県立図書館分館廃止などを断行した先に、どんな未来があるというのか。予算・人員が確保できれば・・・といわれても、縮小経済が続くなかそれは望めないだろう。
 だとすればどうするのか。行政と住民との共生が残された道ではないか。
 もはや行政がすべて賄うことはできないからこそ、行政批判をくり返してきた住民もふくめて、地域のことは地域で解決するための仕組みを構築するのである。みんなで応分の汗をかくことをモットーに、コストをかけない地域の交流拠点として、図書館や文化施設を使い倒すのである。
 焼け跡から文化復興を成し遂げた人たちに習い、ボクらも行動する時を迎えているのではないだろうか。
(三嶋)

※写真は昭和30年代の那覇琉米文化会館。提供は大嶺昇さん

--------

 

続名護の橋(許田橋)

 Category: Myある記  Comment : 0



 先日の世富慶橋に続いて、名護の橋シリーズ(?)の第2弾。
 以前にも撮影していたのですが、改めて見に行って分かりました。残念ながら正確な名称も竣工月日も、何一つ残っていません。現在残っている古い橋には、そういう所が多いですね。小さなコンクリート橋の名前などは、もはや地元の人しか知らないとか。
 新聞には、1948(昭和23)年8月にコンクリートの橋が架けられた(うるま新報1948.08.27)という記事がありますが、琉米歴史研究会にたまたまあったそれらしい写真を見るとかなり小さいので、その後のものだと思い、また、新聞を探しました(ヒマですね)。
 すると、1951(昭和26)年、1号線の舗装道路工事がおこなわれた際に「許田橋」架橋という記事を見つけた(沖縄タイムス1981.12.20)ので、今のところ、1951年竣工ということにしておきます。
 詳しい情報をお持ちの方がいれば、お教えください。
(三嶋)

--------

 

極限のなかの心得

 Category: Myある記  Comment : 0



 1947(昭和22)年7月5日付「うるま新報」に、石川市の養護院(老人・孤児の救済施設)を訪れて、給料を袋ごと寄附した男性が2人もいたという記事があります。
戦後間もない時期で、食事に事欠く人も大勢いるような時代です。犯罪が多発し、人の心も荒廃していたであろうそんな状況でも、「善行」を施す人がいたことは驚きですし、だからこそ新聞も取り上げたのでしょう。極限状態のなかでも、そのような振る舞いをおこなえる大人がいたという報道に、より多くの人が救われたのではないでしょうか。

 しかし、震災直後の困難な状況のなかでも助け合い、秩序を保とうとする人々の姿を見ると、案外、人はそういうことができるように元来つくられているようにも思うのです。自分ができるかどうかは自信がいまいちですが(おいおい)、どんなに追い込まれても、利己的な欲望バリバリで生きていく人だけではなく、理性やモラルを失わない生き方を志向する人たちはいると思うのです。
 だからといって、闇買いを拒否して死亡した(1947年10月)ことで知られる、東京地裁の判事の態度をすすめているわけではありません。
 判事さんの悲劇を引き起こさないためにも、自分を律する以上に、そこいらにいる友人・知人と人生の苦楽を分かち合うことが必要だと思うのです。持ちつ持たれつの縁を大切に、「ケ・セラ・セラ」と笑いながら、困難な時期をやり過ごす知恵(?)は、昔からあったのではないでしょうか。
 我欲に走らず、何とか周囲と折り合いをつけながら、みんなが自然体で生きられる社会が理想ではないかと思うんですが、甘いですか?
(三嶋)

--------