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「復帰」展示とフォーラム終了

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3月27日から4月9日まで、南風原文化センターで開催した「27度線をこえて~『復帰』をめぐる人々の足跡をたどる」が、終了した。

主催者である「沖教組資料調査会」のメンバーとして関わっていたので、展示会場作りや会場案内などでバタバタと慌ただしく、あっという間に終わった感じであった。

今年が復帰50周年のため、内外のマスコミも活発だったが、足元で復帰が遠かっていく印象があっただけに、自分も含めていい勉強の機会になったのではないだろうか。

なかでも、石垣島の出身で沖縄の状況を本土の人たちに知らせたいと、東京で7、8本の沖縄映画を作った安室孫盛氏や、その活動を支えた町田忠昭氏、中野区の市議でありながら沖縄復帰に尽力した中澤ひろや氏、その活動を記録した嬉野京子氏などについて知り得たのは、大きな喜びとなった。

これらの人々は、沖縄ではあまり知られていないが、その果たした仕事ぶりを知るにつけ、驚かされると同時にその熱意に頭が下がる思いで一杯になった。

会場では、中澤ひろや氏の遺品である復帰運動のノボリやタスキ、写真などが展示され、同時に安室孫盛の映画「パーランクーの響き」「石のうた」を上映したほか、土曜日と日曜日には、合計4回のフォーラムを開催し、お呼びした合計8人の方から当時の貴重な証言も聞くことが出来た。

1966年の海上集会(撮影・嬉野京子)
1963年を第1回に始められ、1970年まで毎年開催された北緯27度線上の交換会。
本土でたびたび行われた「沖縄返還国民大行進」(撮影・嬉野京子)。
中澤ひろや氏をはじめ多くの本土の人間が関わったが、本土における沖縄返還運動の実態は、沖縄ではあまり知られていないように思う。
上映した映画は、沖縄で高まる復帰運動を時系列に紹介した「パーランクーの響き」、伊江島の阿波根昌鴻を中心に沖縄の抵抗運動を描いた「石のうた」。いずれも沖縄ではほとんど上映されていない、貴重な映像といえよう。
荒々しい白黒画面の映像で、不鮮明な場面もあるが、抵抗せざるを得ない人々の熱意や情熱が痛いほど伝わり、迫力に圧倒される。そして誰しもが、「沖縄の現状は今もほとんど変わっていない」と思うだろう。
映画の後に行われたフォーラムに聞き入る参加者。

登壇された方々の中で、ボクが特に印象的だったのは、仲里効氏の「戦争責任を問うことと同じように『復帰責任』も問わなければならない」という言葉。「なるほどそうか」と会得したし、復帰運動の裏側を刮目する必要があると今更した。

「反復帰論」で知られる、新川明氏と仲宗根勇氏も登壇されたが、復帰協関係者も反復帰論者も一緒に(フォーラムは別の日だったが)、復帰を学ぶ機会になったのはよかったのではないか。過去にはそれぞれの立場で激しい論争もあったのであろうが、復帰事態が歴史的事象のひとつになりつつある今日、体験者の声を聞きながらもう一度、復帰と沖縄のこれからを考えてみるには絶好の機会になったのではないだろうか。

ボクも、イメージでしか捉えていなかった「復帰」が、にわかに蘇り、迫ってきたようで大変刺激を受けた。。一番聞いて欲しかった若い世代が少なかったのは、残念ではあるが。

<三嶋>

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南海の塔

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今帰仁村湧川にある戦争慰霊碑「南海の塔」に行ってきた。

1963(昭和38)年5月10日の琉球新報に、大分に住む父親が嵐山で戦死した息子の供養に慰霊観音像を建て、息子と戦友の霊を弔ったという記事があったからである。

弔われているのは、1945年6月18日に戦死した大分県日田市出身の海軍中尉、武下一氏と12人の戦友。

南海の地に散った息子を偲ぶ親の心情や、その願いを受けて建立に動いた地元の方々の行動を、“心温まる話題”として記事は構成されている。

しかし、昭和20年春には、敗残兵となった日本軍兵士が、地元民の食糧強奪や虐殺といった事件を各地で引き起こしている。

調べていると、2005(平成17)年12月28日の沖縄タイムス朝刊で、米軍が記録した旧日本兵の軍用手帳に、「スパイ殺害」の記述があることが確認されたことを発見。その手帳の持ち主が「竹下ハジメ」だという。

スパイ殺害は昭和20年4月17日。八重岳から多野岳に移動中の出来事のようだ。

翌4月18日には、本部国民学校校長の照屋忠英氏が、スパイ容疑で日本軍に殺害されるなど、日本兵は各地で住民虐殺を行っているが、日本兵自身の記録が確認されたのはこれが初めてだという。

新聞掲載の写真では観音像の周りに何もないが、57年経った現在、周囲は雑木で覆われ、場所を探すのにも一苦労した。

台座には「南海乃供養塔」と刻まれている観音像

前回紹介した渡野喜屋や本部半島以外にも、日本兵による住民の「スパイ殺害」事件は各地で証言されている。

しかし、ネットにある「三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌 特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ」を読むと、武下一中尉23歳は、意外にも礼儀正しく思いやりがある好青年で、人間的な魅力のある若者だと地元民から信頼されていたようだ。

また、一人息子を失った父親は、遺骨を集めてくれた湧川の青年団に感激し、軍民問わずにほかの戦死者も祀る慰霊塔を私費で建立したいと南海の塔を建立したという。そして毎年、慰霊祭に訪れ、地元の小学校に書籍を寄贈するなど、地元の人たちと深く交流を保ったと記されている。

旧日本兵が沖縄各地で非道を重ね、住民に恐れられていたことは事実だ。

だがしかし、個人としての日本兵の平時の素顔は、平穏な日常を生きる庶民でもあったはずだ。

極悪非道な殺人鬼としてくくれるなら、分かりやすい話であるが、軍隊という組織に身を置き、戦争という極限状況に追い込まれた時、天使は容易に悪魔に変貌する。

そして、若くして逝った息子を弔う親の心情を思うと、戦争の非情さに改めて息苦しさを覚えたのである。

1945(昭和20)年9月3日。米軍に投降する第27魚雷艇隊(白石部隊)。
写真:沖縄県公文書館

米軍の攻撃ですべての艇を失った本部半島の海軍部隊は、海から陸に上がって宇土部隊の支配下に入った。

武下中尉らが支配下に入った第27魚雷艇隊(白石部隊)は、住民虐殺や食糧強奪を繰り返し、住民を恐怖に陥れていたが9月3日、名護市古我地において183名が投降した。

9月3日の白石部隊の投降に際し、数日前から日米両軍と調整し、通訳も務めた比嘉善雄・古我知村長。
写真:沖縄県公文書館

第27魚雷艇隊の投降をサポートした比嘉善雄氏は、戦後、沖縄文教学校外語部教師を務め、1947(昭和22)年7月には第1回世界キリスト教大会に出席するため、第1号となるパスポートを取得。

1952(昭和27)年に沖縄キリスト教連盟理事長に就任。志喜屋知事の専属秘書兼公式通訳官、比嘉秀平・当間重剛両主席のもとで、東京事務所長などを務めた。

1985(昭和60)年12月、81歳で死去している。

 

また、第27魚雷艇隊の人々は、1975(昭和50)年11月23日、湧川にある慰霊塔で30年ぶりに慰霊祭を実施した。

出席した生存者27人、遺族約40人は、そのあと湧川区民を招いて交換会を開催し、旧交を温めて当時を懐かしんだと書かれている。(沖縄タイムス1975年11月26日夕刊)

<三嶋>

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塩屋湾のムラ

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大宜味村の塩屋湾は、カキの養殖が試みられたほど、波の静かな美しい海だった。

しかし交通の便が悪く、名護から北上する人が対岸の塩屋に行くには、東に約8キロほど迂回して大保の橋を渡るか、南側の集落・白浜から渡し舟に乗るしかなかった。

白浜集落は渡野喜屋(とのきや)という名で、大宜味の間切番所があった塩屋とは縁が深く、客が3~4人集まると公民館西側の渡し場から舟を出していた。塩屋と白浜は、直線にすると約800メートルほどしかない距離である。

1958〜59(昭和33〜34)年。
写真:琉米歴史研究会提供

白浜トンネルの上から見た現在の白浜集落。

白浜から見た宮城島。1954(昭和29)年6月。
写真:琉米歴史研究会提供

この地で忘れてはならないもののひとつに、戦時中の旧日本軍が起こした住民虐殺事件(渡野喜屋事件)がある。

渡野喜屋事件は、1945(昭和20)年5月12日夜、10人の日本兵が、同地に避難していた那覇や中南部の人たち40~50人を広場に集め、その中に手榴弾を投げ込んで全員の殺害をはかったもの。35人が死亡し15人が負傷したが、そのほとんどは婦女子であった。

戦火を逃れ、飢えに苦しむ避難民は、「友軍」である日本軍にスパイの疑いをかけられたあげく、いきなり殺害されたわけである。

この事件は米軍の報告書でも記載され、確認されている(沖縄タイムス1985年3月12日)。

琉球新報(2008年6月22・23日)に紹介された体験者の話を読むと、命を奪われた無辜の人たちの姿が痛ましく、死を免れた人たちのその後の苦しみにも胸がふさがれる。

日本軍の起こした住民への虐待・虐殺は数多く記録されているが、この地の出来事も、忘れてはならない負の歴史のひとつである。

<三嶋>

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“巣ごもり”の中で考えたこと

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誰も予想できなかったコロナ禍で、世界中が混乱している。

これまでの秩序があっけなく崩壊し、思いもかけない悲喜劇があちこちで繰り広げられているようだ。

アメリカと中国の子供のような振る舞いや、政治家・官僚の止まらない不正、追いつかないコロナ禍への対応など、私たちは毎日のように飛び込んでくるニュースに振り回されている。

拝金主義がはびこり、貧困が常態化している社会の中で起きる、これらの慌ただしい出来事に目を奪われると、何か大事なものを忘れていくようで不安が増長される。

これまで社会を基礎づけていた正義や規範といったものは、こんなにあっけなく壊れるのだろうか。

閉塞感が横溢している現在の社会に降りかかる新型コロナは、戦後、われわれが信じてきた価値観や社会の在り方が、虚ろで脆弱なものでしかなかったことを露わにした。

はたして、われわれは、今までの道を進んでいいのだろうか。

戦後、焦土から立ち上がった人々は、衣食住の確保に追われながら、今日よりも素晴らしい明日を夢見て生きてきた。

みな同じように貧しく、生き残ることが個人や集団の命題だった社会では、互いの助け合いが命を永らえることであり、それは必然のルールとして機能した。

なかでも、他府県では見られない地上戦を体験し、降り注ぐ弾幕の中を逃げ延びた沖縄の人々には、相互扶助への思いが骨身にしみているはずだ。

コロナ禍にうろたえる私たちが、戦中・戦後を生き抜いてきたこれらの人々に、学ぶことは多いのではないか。

その生き方や人生観に改めて向き合い、発見することもあるのではないか。それが新たな明日の糧になるのではないか、と“巣ごもり”の中で考えた。

1945年8月。収容所でおにぎりを作る女性たち。
(写真:沖縄県公文書館)

田植え作業に励む人々。1953年ごろ。
(写真:琉米歴史研究会)

足踏み式脱穀機での作業。
(写真:琉米歴史研究会)

助け合って赤瓦の家を造る人々。1954年
(写真:琉米歴史研究会)

 

<三嶋>

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たんぽぽ地蔵の話

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新型コロナの影響で、静岡の「劇団たんぽぽ」が存続の危機、と先月25日の朝日新聞が伝えた。

劇団たんぽぽは、戦後、小百合葉子(さゆりようこ)氏が浜松市で立ち上げた児童劇団。「すべての子どもたちに夢を」を信念に、全都道府県を巡り、これまで計4万4千回の公演を行なっていると新聞にある。

記事に目が止まったのは、たんぽぽ劇団にちなんだ拝所が、南風原町与那覇にあると記憶していたからである。

その場所を探しに出向いたこともあるのだが、道路沿いには見当たらず、引き返した事があったのだが、今回、改めて探してみることにした。

古い沖縄タイムス紙を見ると、たんぽぽ地蔵は、1964(昭和39)年1月10日午前11時頃、劇団たんぽぽの公演を観るため、与那原向けに歩いていた南風原小学校の子どもたちの列に、後ろから来たトラックが突っ込み、6年生の児童2人が即死、1人が怪我を負った事故にちなんで設置されたとある。

国道329号にある、かつての事故現場と伝えられるあたり

この事故は劇団にも大きなショックを与え、主催者の小百合さんたちは、事故現場にお地蔵さんを建てて、子供達の安全を見守ることを決意する。そして、同年7月18日、2体のお地蔵さんを安置した地蔵堂が、事故現場近くに設置された。

大理石の地蔵2体は浜松市の個人が製作し、安置する祠は平和観音像を製作する山田真山氏が引き受けた。また、多くの地元の方々が建設に協力し、御霊の安寧と交通安全を誓ったようである。

2体の地蔵にはことあるごとに衣服が着せられ、大切に祀られている。

山田真山がデザインした最初の祠はコンクリート製だったようだが、現在の祠は木製。風雨にさらされて破損が激しい。

しかし、2006(平成18)年の道路拡張工事で祠は取り壊された。

地蔵は宜野湾市の関係者の手を経たあと、事故現場近くの「よなは保育園」の園長・前城惠子先生が引き取り、地元の有志が木造の祠を作った。

劇団たんぽぽからは、毎年のように関係者が参拝に来られる他、多くの方々が訪ねて来ると前城先生からお聞きした。

損傷が激しい祠の作り変えが悩みで、最近では南風原町議会でも取り上げられたそうだ。

新しい祠が必要なことは言うまでもないが、同時にこのエピソードが、次代に受け継がれていくことを祈念した。

<三嶋>

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