シンタの復元もアリでは?
2015年1月28日 Category: Myある記 Comment : 0
旧大里村真境名(まじきな)は、かつてシンタ作りで知られた集落です。
シンタとは島尻周辺の呼び名で、他の地域ではカマンタと呼ぶことが多い鍋のフタ。一番大きなシンメーナービなどでイモを蒸す時など、蒸気がいい具合に抜けて重宝したそうです。おもにススキの葉を使い、かつてはあちこちの家で作っては那覇や糸満に売ったそうですが、最後まで頑張っていたおばあちゃんが作れなくなったので、途絶えるのではないかと危惧していました。
が、公民館で聞いてみると、何と、自分が作れると言うおじいちゃんがいるではないですか。何ということでしょう。ビックリです。聞いてみるもんですね。
今すぐ計画がある分けではありませんが、もう一度作ってもらい、材料や技術を若い人たちに伝えられたらイイんですけどね。資料としてももちろんですが、かつては地域を代表する技(わざ)ですし、特産品だった分けなので、消えてしまうのはもったいないですね。
今風にアレンジしたり、何とかならないかなあ。
真境名公民館に置かれた、大小二つの“力石”。
かつての村の青年たちは、近くのカンナムイと呼ぶ場所で、「イッパー」と呼ばれるこの石を持ち上げて力競べを行っていたそうです。
メーチヂグヮーと呼ばれる現在のゲートボール場。
今ではちょっと想像できませんが、以前は小高い森になっていて、子どもたちの遊び場だったそうだ。夜になると、ここから南の方角に“火の玉”が見えるという場所でもあり、子供たちが肝試しをしたとのことです。
そんな思い出を、楽しげに語るお年寄りの笑顔は何とも魅力的で、接するこちらも楽しさが伝染しますが、考えると、彼らは沖縄戦を幼少に経験し、戦後を必死で生きてきた人たち。その軌跡や労苦に思いを馳せると、笑顔も特別のものに感じられたのでした。
(三嶋)
久しぶりの名護
2015年1月16日 Category: Myある記 Comment : 0
名護琉米文化会館に勤めていた大山さんと一緒に、名護に行ってきました。久しぶりの名護です。
大山さんは現在名護市役所となっている場所にあった、名護琉米文化会館のスタッフとして、1951年から1953年まで働いていた方です。
その後、那覇の琉米文化会館に移動されたのですが、大山さんが働いていた当時のようすを、しかも現場で聞くことができたのは貴重です。当時の関係者は、大山さんによればほとんどいらっしゃらないそうなので、なおさらではないでしょうか。
また、当時、文化会館に植えられたというデイゴも1本確認でき、周辺の町のようすも歩きながら聞くことが出来ました。
味がある大南区のビル。消えかけた文字が壁に残っています。
現在の合同庁舎はもとの名護高校。その道向いに写真のスージグヮーがあり、この細い路地を高校生たちが行き交ったとか。同行した一夫先生によれば、「あまり変わってないなあ」とのこと。
セメント瓦を乗せた木造家屋が、周辺にはまばらに残っています。セメント瓦が多いのは、名護が発祥の地で、工場も多かったからでしょう。
かつてはこの辺から、北西方向に嘉津宇岳の山並みが見えたそうですが、現在は建物の影に隠れてほとんど見えなくなっています。
(三嶋)
大山ターンム(田芋)畑の散策と意見交換会
2015年1月9日 Category: Myある記 Comment : 0
宜野湾市大山で「ターンムfanクラブ」が主催する散策会と、意見交換会に参加しました。
昨年もこの時期に散策会が開かれ、おいしいムジ汁などを食べたので、今年もか?とちょっぴり期待しましたが、今回はサプライズなしで(そりゃそうだね)、真面目な話に終始しました。
少し肌寒い天気でしたが、歩けば汗ばむほどでイイ気持ちでした。
“クンジャン(国頭)アブシ(畦道)”とよばれる里道には、水路にかかる石橋(大きめの石を置いただけですが)が、今も残されています。
外野席にいるこちらとしては、何をどうすればいいのかよく分かりませんが、砂川さんが言ったように、大山のターンム畑は宜野湾の「宝」という以上に、沖縄の「宝」ではないかと思います。
年を追うごとに、栽培面積が小さくなっていくようですが、歴史や人の知恵、思いが詰まった畑を消滅させるのは寂しい話ですよ。でも、そのためには、情緒的な論ではなく、具体的で戦略的な実践こそ必要でしょうねえ。
そして、行政批判だけではなく、市民・県民としてどう地域の課題にコミットしていくか、が問われるでしょう(それは地域共通の問題ですね)。行政を当てにしない覚悟があるのかとか、自立とは何かとか、自問自答する毎日です。
(三嶋)
根謝銘グスクでストレスもすっきり
2015年1月9日 Category: Myある記 Comment : 0
大宜味に行って、謝名城の根謝銘グスク(ウイグスク)に行ってきました。
機会がなかったこともあって、これまであまり意識したことがなかったグスクですが、初めて行ってみて自分の不明を恥じました。
山の地形をうまく利用し、南部とは異なる石を使った造りなども興味深かったのですが、何よりグスク全体を覆う深閑とした空気感に打たれました。鳥の声だけが響く深い木立の中に立つと、当時の人々の面影が見えるような不思議な感覚に包まれたのでした。
少し急な石段を登った頭頂部に建つ神アシャギ。下界の煩わしさを忘れさせる、静けさにあたりは支配されています。
根謝銘グスクから見た喜如嘉の集落方向。あいにくの天気で視界が悪かったのですが、古宇利島や今帰仁が意外なほど近いことに驚きます。
グスクの下を流れる南北二つの川には、ヤマトや中国から来た交易船が遡ってきたのでしょう。奄美諸島や今帰仁との関係など、興味深い話もあるはずなので、これを機会においおい勉強したいと思います。
根謝銘グスクを奥に見る、喜如嘉のヒンバムイ(森)からの景観。
(三嶋)
南恩納の農業用水路
2014年12月17日 Category: Myある記 Comments : 2
恩納村には、字恩納から分離した南恩納という字があります。
かつては、東側に接する金武町屋嘉から、山を越えて運ばれた山原の物資を船に積み替え、ここから那覇に送っていたこともある交通の要衝です。
というようなことを調べ、現地に行ってあれこれ見て来たのですが、思わず足を止めたものがあったので、今回はそれにフォーカス。
紹介するのは、恩納小中学校の裏から、国道58号に並行して走る水路に架かる、コンクリートの用水路。これまで何度か通った道ですが、気づきませんでした。道路で断ち切られているものの、東西に延びるラインはうかがえますが、どちらもその先は草むらに隠れて確認できません。
文献では水路の西側には我那覇という部落があり、宿道も通っていようです。
また、大昔は浅い海が続く土地で、それが徐々に陸地化して間にこの川(水路)が残ったという話もあります。
水路をまたぐ用水路の跡。たぶん、稲作が盛んだった1960年代までは周囲に水田が広がり、この水路にも勢いよく水が流れていたのでしょう。
そういえば、各地で高架の用水路を撮影していたので、ついでにそれも引っ張り出して紹介します。
名護市安部に残る用水路。国道331号をまたぐ橋脚部分の高さは、おそらく沖縄一ではないでしょうか。
金武町金武に残る用水路。最近完成した金武ダムの貯水池にも残っていて、水位が下ると時おり顔を出す事があります。
伊平屋村我喜屋に残る用水路。伊平屋島は稲作がまだ盛んに行われているためか、この用水路はまだ現役のようです。
(三嶋)