川は流れる
2015年3月8日 Category: Myある記 Comments : 2
那覇市内を流れるガーブ川沿いを歩くと、かつて仲宗根美樹(分かるかな?)が歌ってヒットした、「川は流れる」のイメージが浮かんできます。
「わくらばを/今日も浮かべて/街の谷/川は流れる〜」という歌で(知らないか?)、「わくらば」って何?と思ったものですが、ハスキーな声で物憂げに歌われる川のイメージは、暗い心情を映すメタファーとして子供心に残りました。
そして、そのイメージにピッタリなのが、沖映通りの地下を流れ、ジュンク堂のビルの前で地表に顔を出すガーブ川。
しかし、このところ周辺ではいろいろな工事が進んでいる様子。この風景も近いうちに変わるのではないでしょうか。
汚い川がイイという分けではありませんが、何でもかんでもキレイでオシャレな空間になると、息苦しくなるのも事実なんです。
生来の卑しさや貧しさに天の邪鬼も味方して、小奇麗なものを見ると「ケッ!」とか毒づきたくなるんですわ。
新しいビルが建設されるそばの岩陰で、放置されたようにみえる墓がありました。
墓標には「故陸軍輜重兵上等兵呉屋喜次郎之墓」と刻まれています(「輜重兵」はWikipediaによると「しちょうへい」と読み、兵站業務を専門とする兵士とのこと)。
ガーブ川と沖映通りの間にある間隙に、ポッカリと空いたこの異空間は、近いうちに取り壊されるのでしょう(たぶんだけど)。
「生者は死者に患わされることなかれ」とも言いますが、70年前に戦死したこの方のことは誰かが覚えているのでしょうか。遺族も途絶えた墓が、彼の存在を証明する唯一のモノだとすれば、その喪失は、国のために戦死した魂が、「公」によって再度殺されることを意味しているようで、暗い気持ちになりました。
ガーブ川の側にあった、今では珍しい、子どもがたむろする商店。
コンビニに取って代わられて随分たちますが、地域交流の拠点だったマチヤグヮーは、地域のセーフティーネットとして大きな役割を担っていたと今にして思います。
わたしたちは、どこで間違えてしまったんでしょうね。
(三嶋)

泡瀬干潟の今
2015年2月10日 Category: Myある記 Comment : 0
泡瀬まで出かけたので、その帰り、海岸に車を止めてパチリ。
辺野古がクローズアップされるなか、泡瀬干潟の問題が少しかすんでいる感じですね。
だそうです。
どんよりとした夕方の天気と、大潮のせいか海が遠い干潟の光景に、いっそう気分が滅入りました。
(三嶋)

名護の二宮金次郎
2015年2月6日 Category: Myある記 Comment : 0
敬愛する名護の又吉康仁先生を久しぶりに訪ねました。
自宅横の畑には、ホーレンソウやネギ、シマナー(島菜)が、青々と葉っぱを広げ、畑の奥にある土手ではサクラの花が咲き誇っていました。
まさに少量多品種の「やんばる型農業」の実践場。
先生はいつも元気で落ち込むことがないようですが、「小学生の時から二宮金次郎だったさあ」と言うように、家の手伝いをこなしつつ、勉強もスポーツも力いっぱいやってきた経験と自信が生きているからでしょう。
農業にはまったく素人のボクが先生のお宅に通うのも、先生の前向きな姿勢に学ぶ点が多いからに他なりません。
コージン先生とも話すのですが、現在の農業の行き詰まり状況は、農や食の問題を経済だけで語りすぎてきた帰結なのではないでしょうか。
近年かまびすしいTPPや農協問題の根底には、この国のずさんな農業政策が積み残してきたツケがあり、それが一気に表面化してきた結果のように思われます。その結果、零細な生産者がいつも振り回される、という事態を招いているのではないでしょうか。
「儲かる」農業を当たり前とし、コメや野菜を都合のいい商品とするために、合理化や機械化を進め、農薬をまき散らしてきたのが戦後の農業ではなかったのか。そして「豊かさ」を追求してきた結果、農業の崩壊を招来してしまいかねない所まで追い込まれてしまったのではないか、そんな疑問が頭をもたげるのです。
貧乏でいいと言うのではありませんが、もっと別の道があるのではないか。
そんなときに、コージン先生が語る「生き延びる農業」に出会い、目が奪われたのです。
理論と実践をくり返し、一人でコツコツと畑を耕す姿は、まさに現在の二宮金次郎ですし、理数系の頭と同時に琉歌や詩を諳んじるロマンチストは、宮沢賢治のようにも映ります。
われわれが先生に学ぶべき点はまだまだ、多いように思います。
少しほめ過ぎでしょうか、先生。
(三嶋)

シンタの復元もアリでは?
2015年1月28日 Category: Myある記 Comment : 0
旧大里村真境名(まじきな)は、かつてシンタ作りで知られた集落です。
シンタとは島尻周辺の呼び名で、他の地域ではカマンタと呼ぶことが多い鍋のフタ。一番大きなシンメーナービなどでイモを蒸す時など、蒸気がいい具合に抜けて重宝したそうです。おもにススキの葉を使い、かつてはあちこちの家で作っては那覇や糸満に売ったそうですが、最後まで頑張っていたおばあちゃんが作れなくなったので、途絶えるのではないかと危惧していました。
が、公民館で聞いてみると、何と、自分が作れると言うおじいちゃんがいるではないですか。何ということでしょう。ビックリです。聞いてみるもんですね。
今すぐ計画がある分けではありませんが、もう一度作ってもらい、材料や技術を若い人たちに伝えられたらイイんですけどね。資料としてももちろんですが、かつては地域を代表する技(わざ)ですし、特産品だった分けなので、消えてしまうのはもったいないですね。
今風にアレンジしたり、何とかならないかなあ。
真境名公民館に置かれた、大小二つの“力石”。
かつての村の青年たちは、近くのカンナムイと呼ぶ場所で、「イッパー」と呼ばれるこの石を持ち上げて力競べを行っていたそうです。
メーチヂグヮーと呼ばれる現在のゲートボール場。
今ではちょっと想像できませんが、以前は小高い森になっていて、子どもたちの遊び場だったそうだ。夜になると、ここから南の方角に“火の玉”が見えるという場所でもあり、子供たちが肝試しをしたとのことです。
そんな思い出を、楽しげに語るお年寄りの笑顔は何とも魅力的で、接するこちらも楽しさが伝染しますが、考えると、彼らは沖縄戦を幼少に経験し、戦後を必死で生きてきた人たち。その軌跡や労苦に思いを馳せると、笑顔も特別のものに感じられたのでした。
(三嶋)

久しぶりの名護
2015年1月16日 Category: Myある記 Comment : 0
名護琉米文化会館に勤めていた大山さんと一緒に、名護に行ってきました。久しぶりの名護です。
大山さんは現在名護市役所となっている場所にあった、名護琉米文化会館のスタッフとして、1951年から1953年まで働いていた方です。
その後、那覇の琉米文化会館に移動されたのですが、大山さんが働いていた当時のようすを、しかも現場で聞くことができたのは貴重です。当時の関係者は、大山さんによればほとんどいらっしゃらないそうなので、なおさらではないでしょうか。
また、当時、文化会館に植えられたというデイゴも1本確認でき、周辺の町のようすも歩きながら聞くことが出来ました。
味がある大南区のビル。消えかけた文字が壁に残っています。
現在の合同庁舎はもとの名護高校。その道向いに写真のスージグヮーがあり、この細い路地を高校生たちが行き交ったとか。同行した一夫先生によれば、「あまり変わってないなあ」とのこと。
セメント瓦を乗せた木造家屋が、周辺にはまばらに残っています。セメント瓦が多いのは、名護が発祥の地で、工場も多かったからでしょう。
かつてはこの辺から、北西方向に嘉津宇岳の山並みが見えたそうですが、現在は建物の影に隠れてほとんど見えなくなっています。
(三嶋)
